第四章 「諏訪の科津神」
初冬の空に、重苦しい黒い雲が垂れ込める。
草原は、荒ぶる風が吹きすさんでいた。立ち並んだ橘の木は、折角たわわにつけた黄色い実を、片っ端から吹き飛ばされていく。
冬の嵐の中心に、一本の巨大な風柱があった。
「ぼ、僕です、だとおっ……!」
風柱の中から、怒気を孕んだ低い声が響く。
少彦名を握って立ち尽くす志貴彦の前で、風柱はその中心をぶるぶると震わせ、やがてバッと拡散した。
「何者だ、貴様!!」
消えた風柱の中から、一人の若い男が現れた。
男は宙に浮いたまま、凄まじい形相で志貴彦を睨みすえる。
「僕は……」
出現した男と対峙したまま、志貴彦は口を開いた。
「僕は、八束志貴彦。十二歳。男」
「そんなことを聞いているのではない!!」
男はカッと怒鳴りつけた。朱の刺青をいれたまなじりがぴくぴくと震える。
男は、人でいえば二十代前半くらいの若者だった。丈高く、がっしりとした体つきをしている。よく見れば眉目は整っている方だったが、全身から漂う猛々しさが、彼に対する他の全ての印象を打ち消していた。
「えー? じゃ、他に何が聞きたいのさ。えっとねえ、好きな食べものは、鮎の串焼きと枇杷の実と栗。嫌いなのは、干した椎茸で……」
「ふざけるなっ。小僧、俺を馬鹿にしてるのかっ!」
「ああ、でも滑茸は好きだよ」
「だから食べ物の話ではない! 貴様、どこの神だ。俺を祀る磐座を破壊して、この諏訪の地を侵すつもりか!?」
長い解き髪を風になびかせ、男は志貴彦を威嚇した。
「まずいのう……奴は、恐らくこの地の地主神じゃ」
志貴彦の手に握られたまま、少彦名が小声で呟いた。
「地主神?」
「この諏訪の地に発生した地祇の護り神じゃ。ううむ、困ったぞ。我らは奴の依り代である磐座を壊したせいで、かなりの怒りをかっておる」
「へえ、諏訪の土地神かあ!」
少彦名の言葉を聞いて、志貴彦は感心したように声をあげた。
「こんな暗黒で未開な地の果てにも、ちゃんと国津神がいたんだぁ! 凄いな」
素直に感想を述べて、志貴彦はにこっと微笑んだ。邪気のない非常にかわいらしい笑顔であったが、それは眼前の土地神を更に怒らせる効果をもたらした。
「小僧……っ」
土地神はわなわなと震え、カッと目を見開く。
「ふざけるなよっ。国の端だと思って馬鹿にしやがって……」
「えー? 別に、馬鹿になんてしてないよ。だって、出雲では信濃国のことなんて、殆ど知られてないんだもんさー」
志貴彦の感想は、実際、普通の出雲人としてごく平均的なものだった。当時豊葦原の中心として栄えていたのは、まず出雲、そして因幡や吉備などの周辺諸国であり、この遙か後の時代に「大王」が君臨する大和でさえ、この頃はただの遠い僻地だと思われていた。
まして、「国の果て」である信濃国である。出雲人の感覚からいえば、なんだかよく分からない未開の暗黒社会、というくらいの認識しかなかった。
だから、志貴彦の発言は、むしろ素直に信濃を誉めた好意的なものだったのである。だが、そんな彼の素朴な心は、諏訪の土地神にはまったく伝わらなかった。
「……そうか……貴様出雲の者か。……よくわかったぞ、要するに、貴様は出雲からはるばるわが領を侵しにきたのだな」
額に巻いた赤い帯を押さえ、土地神はそう決めつけた。
「まったく、甘く見られたものだ。こんな軟弱な小僧一人で平伏できると思われるとは……」
土地神は吐き捨てるような言う。気のせいか、彼の声にはどこか僻んだような響きが混じっていた。
「え、違うよ! 僕がそんなことするわけないじゃないか」
「だったら、何のために出雲からはるばるとやってきた!」
「それには悲しい訳があるんだよ」
志貴彦は土地神を見つめたまま真顔で言った。
「聞きたい? あのね……」
「--貴様、俺の磐座を破壊しただろう!」
志貴彦は真剣に己の数奇な身の上を語ろうとしたのだが、相対した土地神は、そんな彼の言葉を振り切るようにして大声で叫んだ。
「ああ。それにも切羽つまった訳があるんだよ--あ、そうだ」
ふと顔を輝かせ、名案を思いついたように、志貴彦は土地神に向かって指を立てた。
「折角君の土地にいい温泉が湧いたんだからさ。君も一緒に、皆でもう一度入らない?」
「--入らねーよ!!」
土地神は叫び、腰に帯びていた剣を抜いた。
そのまま志貴彦に切りつける!
「……志貴彦っ!?」
宙に投げ出された少彦名が叫ぶ。
--全ては一瞬の出来事だった。
土地神は志貴彦を斜めに斬り捨てた。志貴彦の胸が切り裂かれ、鮮血が空に舞う。
力を失った志貴彦の指から、少彦名が投げ出された。叫ぶ小人が地面に落下するのを追うように、少年は大地に崩れ落ちる。
「--ふん」
刀身についた血の玉を払い、土地神は剣を鞘に納めた。倒れ伏した志貴彦を忌ま忌まし気に見下ろし、彼は鼻を鳴らす。
「志貴彦!? 志貴彦ぉっ!!」
少彦名は駆け寄り、両手で懸命に志貴彦の頬を叩いた。だが、倒れた志貴彦は、固く瞳を閉ざし、ぴくりとも反応しない。ただ、切り裂かれた傷口から流れ出す鮮血が、大地をどす黒く染めていった。
「ああっ駄目じゃ!!」
少彦名は絶望的に呻いた。
「御魂が、御魂が一瞬で身体を離れてしまっておる。黄泉路に向かってしまっ
た。このままでは志貴彦は戻って来ぬ……!」
志貴彦の頬に寄りかかったまま、少彦名は小さな瞳を涙で溢れかえらせた。
「うう……ううう……」
拳を握り、体を悲しみに震わせる。止まらぬ涙を拭いつつ、嗚咽しながら天を向き、少彦名はあらん限りの大声で空に向かって叫んだ。
「我が御祖の尊--! 助けてくれいっ。わしの、わしの義兄が死にそうなのじゃ。声を聞いてくれ、御祖神ーーっ! お願いじゃ、助けてくれーー!!」
※※※※
天の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
(万葉集千七十二)
……随分と、未来のことになるが。
神々の時代が終わり、やがて大地に人の歴史が始まった頃。ある女帝の御代に、後に「歌仙」と称えられる歌よみの名手が出現した。
彼は、果てしなく広がる天を海に見立て、そこにたなびく雲を波の姿と見、夜空の星の林に渡りゆく月の船を夢想した。
天は高く、遠く、そして美しい。
--そしてそこには、天つ神々の住まうきよらかな国がある。
高天原の西の果て。そこには、「天の御巣」と呼ばれる、雄大なる神の宮が鎮座していた。
この宮の主は、神魂神。造化三神の一柱であり、同じく造化三神の一柱・高御産巣日神と真向かう、高天原の最高神の一人であった。
神魂神は「独り神」であるため、本来明確な個性や性差といったものは存在しない。ただ、高御産巣日神が便宜上壮年の男性の姿をとっていたため、対応する神魂神もまた、かりそめに中年の女性の姿を模していた。
高天原における最高神の一人でありながら、彼女は、他の神々と交わることをあまり好まなかった。めったに外に姿を現わさぬ神魂神は、宮内においてさえ、自らに仕える祝たちに構われるのをも厭った。
神魂神はいつも、ひとりで奥殿にこもっている。今日もまた、綿のような雲の褥の上に座し、静かに瞳を閉じていた。
瞑想している時もある--そして寝ている時もある。
宇宙の始まりに出現した神魂神にとって、時は無限の連鎖だった。過去も未来も超越して存在する--彼女にしてみれば、今この高天原で絶対の権威を振るっている天照でさえ、ついこの間生まれた雛のようなものでしかなかった。
--ふと、神魂神は目を開ける。
きよらかな静寂が、ある雑音によって破られたのだ。
『助けてくれいーー御先の尊ーー!!』
声は、下界から雲を抜けて神魂神の耳へ届いた。泣きわめくその声は、確かに彼女の生成した子供--千以上も生んだ中で、もっとも小さな子供の声だった。
神魂神は神眼を凝らす。悲嘆にくれる少彦名の横で、彼の義兄となった少年がうち伏していた。
「……やれやれ。なんともまあ、地上の生き物とはか弱いこと……」
神魂神はため息をつく。その時、彼女の背後に一つの気配が出現した。
「--だが、ここで奴に死なれては困るだろう? ……あんただって。高御産巣日神とのこともあるんだ……」
神魂神の背後に出現したのは、頭からすっぽりと襲をかぶった少年だった。振り向くこともなく、神魂神には「それ」が何であるのか、明確に認識できた。
それは、「均衡」のために必要な存在だ。神魂神にとって‥…そして、他の誰にとっても。
「随分たやすく結界を越えられるようになったものだな」
前を向いたまま、神魂神は言った。
「そんなに力をつけたわけじゃないさ。……ただ、『いいもの』を拾ったんでね」
言うと、襲の少年は懐から緑の葉をつけた小さな小枝--「常磐木」を取り出した。
「あの『馬鹿』のおかげさ。天照が知ったら、悔しがると思うかい?」
「……さして動揺することもあるまいよ。あの男は」
「それは残念。……まあ、そういうことでね」
常磐木を仕舞い、少年は襲の奥でククッと笑う。
「--御諸」
神魂神は少年の名--正確には、名の一つを呼んだ。
「俺が行ってやるよ」
「……」
「俺が行くしかないだろう? また、あいつに会うのも楽しいさ……」
軽快な笑い声を残し、少年は出現したときと同じ唐突さで姿を消した。
「--」
雲の上に座したまま、神魂神は無言で眼を閉じる。
突然の来訪者によってかき乱された気は、再び静かに静かに清められていった。
心地よい静寂が満ちる。穏やかな気に心を浮かしながら、神魂神はまたひとり、深い思索に浸っていった。
※※※※
……暗い暗い、道が続いている。
果てしなく続く無明の闇の中を、志貴彦は一人歩いていた。
この長い道が、どこまで繋がっているのか、志貴彦には見当もつかない。ただ、もう随分と長いこと歩いて来たのは確かだった。
逆上した土地神に斬られたところまでは覚えている。そして、気がつくと一人でこの道を歩いていた。
冷たく、暗い道。剥き出しの素足が踏む土は、時々湿って濡れていた。
時折、上から水滴が降ってくる。見上げても、そこに見えるのはただ闇ばかりで、何があるのかまるで分かりはしなかった。
(……やっぱり、これが黄泉路ってやつなのかなあ)
様々な条件を考え合わせると、やはりその考えが妥当なようだった。なにしろ、自分は斬られてしまったわけだし。この光景にしても、幼い頃から何度か古老に脅された「黄泉路」の話によく似ている。
「……死んだのかあ……」
闇の中に、志貴彦の抑揚のない声が響いた。
不思議と、あまり恐怖や悲しみといったものは感じなかった。--ただ、この道が一体どこまで続くのか。いつまで自分は歩き続けねばならないのか。それを考えると、やや気分がめいってくるのだった。
時間の感覚も狂い、疲労も感じぬまま、志貴彦は歩き続けた。
どれくらい闇の中を歩いただろう。やがて、志貴彦の前に巨大な岩戸が現れた。
「岩の……扉……」
志貴彦は呟いた。順当に考えれば、自分はこの岩戸を開けなければならないのだろう。
志貴彦は素直に岩戸に手をかけた。
--その時。
「その手を離せ」
不意に、背後から声がかかった。
驚いて、志貴彦は振り替える。
ただ闇ばかりが続いていたはずの道に、仄かな明かりが出現していた。明かりに取り巻かれているのは、頭からすっぽりと襲を被った少年--そう、以前高床倉庫に現れた……。
「幸魂奇魂!?」
志貴彦は眼を丸くして叫んだ。
「よう。また会ったな」
表情を隠したまま、幸魂奇魂は襲の奥で楽しそうに笑った。
「君なんでここに……君も死んだの?」
「いや、死んじゃいない。俺も--おまえも、な」
「死んでいない? 僕が? でも、ここは黄泉路じゃ……」
志貴彦は辺りを見回しながら、怪訝そうに言った。
「確かに黄泉路だ。だが、まだ戻れる。迎えに来たんだ。……戻ろうぜ、志貴彦」
幸魂奇魂は、志貴彦に向かって手を差し出した。
「……おかしな奴だなあ、君は」
差し出された手を見つめながら、志貴彦は困ったように呟いた。
「前は僕に逃げろと言って。今度は、戻ろうと誘う。……一体、君は何なんだ? さきたまみま--」
幸魂奇魂、と言おうとして、志貴彦は舌をかんだ。まったく、ややこしい呼び名だ。
「言いにくいか。じゃあ、もう一つ別の名前を教えてやるよ。御諸っていうんだ」
志貴彦の様子を見ながら、御諸は笑って告げた。
「--御諸。確かに、こっちのほうが随分言いやすいよ。なんで、いくつも名前があるのさ?」
「ふん。おまえだって、そのうち幾つもの名を持つようになるんだぜ」
「え?」
「まあいいさ。先の話さ。それより、さっさといこうぜ。あまり長居してると、本当に戻れなくなる」
手を差し出したまま、御諸は志貴彦を急かした。
「ああ、でも……戻っても、あいつがいるんだ。なんか、怒りっぽい土地神。またあいつに斬られちゃうかも」
「馬鹿だな、お前。何の為にそいつを持ってるんだよ」
御諸は、志貴彦の首に巻き付いたままの領巾を指さした。
「これ? この領巾? ……確かに不思議な領巾だけど、回すとただ稲がこぼれ落ちてくるだけだよ?」
「--それは、お前が何も使い方をわかってねーからだよ」
いうと、御諸はからかうように喉を鳴らした。
「ちょっと前の話さ。馬鹿な天津神がいてな。天と地の間でつんのめって、高天原の至宝をばらまいちまった。宝は世界のあらゆる場所に飛んでいった。--その領巾は、その中の一つ。『品物比礼』さ」
「くさぐさのもののひれ?」
志貴彦は、慣れぬ口調で御諸の言葉を繰り返した。
「この世の全てを御する物、ってことさ」
「……って、言われてもなあ」
志貴彦は頭をひねる。なんだか凄そうな気はするが、あまりにも漠然としすぎていて、よく理解出来なかった。
「まあ使い方は、必要な時に『教えてやる』よ。--おい、それよりさっさといくぞ。本気で時間がやばい」
いうと、御諸は志貴彦の手首を強引に掴んだ。
「お、おい!」
「……なあ。結局は、どーでもいい勢力争いにすぎなかったとしてもだ。俺達は、やるしかないんだ。すべて、選ばれてしまった駒なんだからよ!」
「勢力争い? 出雲の跡継ぎのこと?」
「もっとずっとでっかい事さ。--いくぜ!」
叫ぶと、御諸は志貴彦をひっぱって翔け上がる。
意識が吹き飛ぶのを感じ、志貴彦は思わず眼を閉じた。
固く閉ざされていた志貴彦の瞼が、不意にばちっと開いた。
「あれ……?」
倒れていた志貴彦は、頭を振りながら身を起こす。
彼は、ふと己の胸元に目を落とした。白い上衣は赤く汚れていたが、血は既にとまり、斬られた傷口も半ば塞がっていた。
「志貴彦!」
少彦名が駆け寄る。志貴彦は少彦名を手の平に乗せ、自分の右肩に置いてやった。
「やあ、少彦名。君がいるって事は、ここは地上だね。よかった、戻ってこれたんだ」
「志貴彦、生き返ったのか! ……よかった、さすがにもう駄目かと思ったぞ。……おお、我が母神は、わしの願いを聞き届けてくれたのじゃ……」
「母神? --いや、僕が地上に戻って来れたのは、多分御諸のおかげだと思うんだけど
……」
「御諸?」
「幸魂奇魂のことだよ。あいつが黄泉路に現れて、僕をひっぱりあげてくれたんだけど……あれ、いないな。あいつ、どこにいったんだろう……」
志貴彦はきょときょとと周囲を見回す。だがそんな彼の目に入ったのは、襲を被った謎の少年ではなく、唖然として彼を見つめる土地神の姿だった。
「貴様……確かに斬り殺したはずなのに、なんで生き返ってきたんだ……」
信じられぬものを見る思いで、立ち尽くしたままの土地神は呟いた。
「いやあ、なんか世の中には不思議なことがいろいろあるみたいで……」
志貴彦は呑気に答える。だがそんな彼の姿を見つめる土地神の顔に、激しい嫌悪の表情が浮かんだ。
「貴様……貴様、なんだか気持ち悪いぞ……おまえなんか、おまえなんか……跡形もなくいなくなっちまえ!」
自棄になったように叫び、土地神は志貴彦に向かって火球を投げつけた。
「うわっ!」
咄嗟に横に跳ねた志貴彦は、間一髪で火球をかわす。だが火球は草々に引火し、折りからの風に煽られ、あっという間に志貴彦の周りに広がった。
「なんじゃ、今度は火攻めか!」
ふりかかる火の粉を避けながら、少彦名が叫ぶ。炎の海は、意志を持ったように志貴彦に迫っていた。土地神が、風を操って炎を動かしているのだ。
「ははは、そのまま蒸し焼きになれ! 後で鮭と一緒に食ってやる!」
荒ぶる炎を見下ろしながら、土地神は顔を歪めて哄笑した。
「忙しいなあ、もう! 一体どうすりゃいいのさ!」
少彦名をかばいながら、志貴彦も叫んだ。
--その時。
『俺に任せな』
不意に、志貴彦の耳に御諸の声が響いた。
「御諸!?」
志貴彦は慌てて周囲を見回す。だがそこに御諸の姿はなかった。
『品物比礼を振り、俺と一緒に叫べ。いいか--』
声は志貴彦の頭の中で直接響く。志貴彦は迷いを捨て、品物比礼を握って口を開いた。
「--内はほらほら、外はすぶすぶ!すーぶすぶ」
呪言の揚言と共に、潮が引くように炎が志貴彦の周りから退いていった。
逆凪の風が渦巻く。それに乗り、今度は炎が土地神に向かって突進した。
「うわぁっっ!」
自らの送った炎に囲まれ、諏訪の荒神は窮地に陥った。
「どーだ。蒸し焼きにされる鮭の気持ちが分かったかい」
品物比礼を振り回したまま、志貴彦は土地神に言った。
「僕は、どっちかっていうと、鮎のほうが好きだけどさ」
「……それはあまり関係あるまい」
志貴彦の肩の上で、少彦名が冷静に呟いた。
「でも美味しいんだよ--ねえ、君、鮭の気持ちがわかったあ!?」
志貴彦はあどけない表情で再度土地神に尋ねた。
「う……貴様……俺をなぶり殺しにするつもりか……」
煙にむせながら、身を屈めた土地神は土気色の顔で呻いた。
「人聞きの悪いこというなあ。自分のほうが散々酷いことしておいて。僕は、黄泉路にまで行っちゃったんだよ?」
ぶんぶんと品物比礼を振り回しながら、志貴彦は憮然とした面持ちで口を尖らせる。
「鮭の気持ちがわかったなら、君が自分で選びなよ。そのまま死ぬか……それとも、そうだな……」
言いかけて、志貴彦は少し考える。
「僕の、友達になるか」
「--ともだち、だと……?」
苦しそうに咳き込みつつ、土地神は驚いたように志貴彦を見上げた。
「そう。何でも僕の言うことを聞いて、困ったときには助けてくれるトモダチ」
「……それは、『友達』というのかの?」
肩の上で少彦名が呟いた。
「なんでもいいじゃないか。--ねえ、長くは待たないよ? 十数える内に決めてね。ひ、ふ、み……」
「う……ま、ま……わかった。お前の友達になる!」
土地神は悔しそうに呻いたが、志貴彦が数え終わらぬうちにはっきりと叫んだ。
「いいよ! ……じゃあ、証がいるね。君の『真名』を明かして」
嬉しそうに勝利の笑みを浮かべ、志貴彦は命じた。
神々が持つ『真名』には、そのものの霊魂が宿る。こうした勝敗の場で相手に真名を渡すことは、己の言霊の力を握られる事を意味した。
「……用心深い奴め。俺の名は、建御名方」
「--建御名方」
言霊に力を込めて、志貴彦は呟いた。
品物比礼を回していた手を止める。--その途端、荒れ狂っていた炎が建御名方の周りから消失した。
炎が消えたのを確認すると、観念したように息を吐き、建御名方は立ち上がった。
志貴彦は笑顔で新しい『友達』を迎える。
--ここに、荒野の勝敗は決したのだった。
戦いは終わり、陽は暮れる。
満天の星空の下、少年と小人と青年は、そろって温泉につかっていた。
「……いやあ、星を見ながらっていうのも、またいいなあ」
炎でほどよく焼けた橘の実を食べながら、志貴彦は上機嫌で呟いた。
皆で入ろう、と提案したのは志貴彦だった。無駄な戦いで受けた、傷や疲れを癒そうと思いついたのだ。
確かに、玉水は不思議な力を持っている。
体が癒されるのはもちろんだが、気持ちまで、何だかなごやかで落ち着いたものになってくるのだ。
「--はい。ひとつあげる」
むいた実の一つを、志貴彦は建御名方に渡した。建御名方は大人しく受け取り、無造作に口に放り込む。
「……しかし、変わった奴だな、お前は」
実を噛みながら、建御名方はぼそっと呟いた。
「普通なら、こんなふうに俺を許しはしないぜ」
「うーん、でもまあ、殺しちゃっても、なんか、後味悪そうだしねえ」
「俺は一度お前を殺したのに?」
「いや、けど僕は生き返ったからね……」
志貴彦は鷹揚に呟く。星空と橘の実と湯が揃って、彼はすこぶる機嫌がよいのだった。
「……」
建御名方は腕を組み、顎まで湯に沈み込んだ。
--この、志貴彦という少年。とてつもなく器がでかいのか、それとも単なる馬鹿なのか。
どうにも判別がつきかねるが……とにかく、他者を引きつける、ある種の強い魅力を持っていることだけは確かだった。
「……俺の神格は、基本的に科津神--風使いだが、国津の軍神でもある。武威に優れてる、っていう点では、結構重宝だぜ」
建御名方はぶっきらぼうに呟いた。
「友達」になったとはいえ、真名をとられた以上、実質的には主従関係だ。--だが、この少年の為に、自分の荒ぶる力を使ってみるのも、それほど嫌なことではない。--そう、建御名方は思い始めていた。
「ああ、それは嫌ってほどわかったよ」
「のう?」
志貴彦と少彦名は向かい合ってうなづいた。
「なあ……そういや、確かお前出雲の出だって言ってたな。何しに、ここまで来たんだ?」
ふと、建御名方は思い出したように聞いた。
「ああ、それか。だから、それはね……」
のんびりと湯に使ったまま、志貴彦はゆるゆると己の身の上を語った。
「--じゃあ、何か。お前は、その姑息な兄貴達から逃れて、ここまでやって来たってのか!?」
聞き終わると、建御名方は呆れたように叫んだ。
「まあ、そういうことになるかなあ。最初は、こんな端まで来るつもりはなかったんだけど、なんとなくぶらぶらしてるうちに……」
「やってきてしまったのう」
志貴彦と少彦名はうなづきあいながら、しみじみと呟いた。
「ばっかじゃないのか、お前!」
呆れたように叫び、建御名方はザバッと立ち上がった。
「お前ほどの力があれば、そんな兄貴たちなんか、簡単にやっつけられるだろうが!」
「力って……いや、別に僕一人の力ってわけでも……」
「大体、今となってはこの俺がついてるんだ。この建御名方の主……いや、『友達』を、流浪の身に貶めておくわけにはいかん! --よし決めたぞ、俺達は、出雲へ向かう!」
「--は? 出雲?」
突如熱弁を振るい始めた建御名方を、志貴彦と少彦名は唖然として見上げた。
出会ったばかりの彼らはまだあまりよく知らなかったのだが、建御名方は元来熱血しやすい男であり、しかも以外と身内びいきなのだった。
「出雲へ戻って、お前の兄達を討つのだ!」
「いや別に、討たなくてもいいんだけど……そうだなあ……」
ぶくぶくと湯に沈み、志貴彦は考えた。
「……まあ、豊葦原の端まで来ちゃったからなあ。後は、戻るしかないか。確かに、あの後どうなったかも、気にはなるし……それに……」
志貴彦は夜空を見上げた。
故郷の里を旅だってから、随分とたつ。郷愁を感じてないといえば、それは確かに嘘になった。
「……まあ、朝がきたら、考えよう」
※※※※
--天に、神々の国があるように。
深い地の底には、また別の異界がある。
闇に覆われた、時のない国。死者の御魂が、等しく最後に辿り着く所。
黄泉の路の果てにある--「根の堅州国」。
暗闇の中には、いくつかの弱い光の玉が浮いていた。玉は、時折不定期に増える。闇に新たな光が浮かぶ度--地上の国で、誰かの命が消えるのだ。
闇の国には、大きな池があった。その水面はけして波打つ事なく、死んだように静まりかえっている。
--池の岸辺に、一人の少女が立っていた。
まだ幼く見えるその少女は、烏扇色をした真黒の神御衣を纏い、ただじっと立ち尽くしている。
少女は大きな黒い瞳で、静かに水面を見つめていた。水は黒く、何も映さない。--だが少女の目には、ある一つの「光景」が視えていた。
……不意に、黒曜石の簪で飾られた、少女の長い黒髪が揺れる。彼女が笑いを漏らしたのだ。
「……面白い人たちだこと」
少女は可憐な声で呟いた。
「それにしても残念ですわ。折角ここまで来てくれると思っていたのに。……あの子。とても美しい。逢いたいわ、早く」
艶然とした笑みが、少女の真赤な唇に浮かぶ。
「壊すもの。結ぶもの。ああ本当に、多くの楽しいものたち。……『月』を堕としても、願いは叶いませんのよ、天照……。あなたの想いを砕くもの、ここにまた一人--」
闇の中に、少女の哄笑が響く。彼女は無数に揺らめく光の中から一つの玉を掴み--そして、それを、喰った。
『第四章終わり 第五章へ続く』