花、恋うる闇
その男は狂った堕聖獣を宿していた。
よほど血を見るのが好きなのか、すでに胸を赤く染めて床に倒れこんでいるルチアを、更にナイフで切りつけようとしている。
「貴様! 何を……!」
セルジオが部屋に飛び込み剣を一閃させると、男の喉元が斜に切り裂かれた。
その刹那、男の背中からイタチのような姿の堕聖獣が姿を現す。
宿り主から噴き出る血の雨を自ら浴び、ケケケケ……と狂喜に満ちた声で鳴くと、恍惚とした表情を貼り付けたままこの世から消えていった。
「ルチア! しっかりしろルチア!」
セルジオはルチアを抱き上げ、その名を呼び続けた。
急所をナイフで一突き。
おびただしい血の量だが他に外傷はない。
だが皮肉にも医師であるセルジオには、その一突きが致命的なものだという事が分かってしまっていた。
「い……いやだ! ルチアたのむ、目を開けてくれ! 私を置いて逝かないでくれルチア!」
隊医としての仕事と研究以外、何事も不器用だった自分が時間と失敗を重ねてやっと結ばれた愛しい人、それがこのルチア。
傍らの小さなベッドには二人の愛の証、生まれたばかりの一人娘リトルシェイラがすやすやと眠っている。
これから三人で幸せに……いや四人五人になるかもしれない、そんな温かい未来を語っていた矢先のことだった。
『……オレがその女を助けてやろうか』
突然、背中に聞きなれない声が掛かった。
セルジオが振り返ると、そこには少しまだらに黒ずんだクリーム色の身体を持つ、痩せた四足の獣がいる。
「何だ……お前は」
『オレがその女の命の灯をともしてやろうと言ってるんだよ』
その獣が聖霊獣で、僅かながら闇に染まっている事はまだらな体の色から一目でわかる。
『いま斬り捨てられた男、そこの窓から入ったようだな。以前から隊医のお前が闇の連中から疎まれてる事、知らなかった訳でもないだろう。ずっと狙われてたのに気付かなかったのか? まあ、矛先が女房にいったようだがな』
カーテンが揺らぐ開け放たれた窓を仰いで、その獣は淡々と話しかけてきた。
「う、うるさい! お前の言う通り私は医師だ。必ず救ってみせる!」
『間に合うのか? そんな事、医者ならわかるだろう、ほらもう……』
獣がルチアを顎で指し示す。
慌てて首筋に指を当てると、その命の鼓動は感じられなくなっていた。
(ルチアが死ぬ……?)
眩しいほどの笑顔で、いつも笑っていた妻。
子供が出来てからは、無邪気だったその笑顔もどこかしっとりとした風情に変わり、それがまた愛しさを募らせた。
こんな風に突然消えてしまうのか。
今なら……本当に間に合うのだろうか。
「私の何が望みだ、ただではないのだろう。命か。それを差し出せば、ルチアは助かるのか。それならくれてやる! 私などどうなっても構わない。だから頼む、ルチアを……!」
『お前を食ったら意味がない。オレはお前の聖護獣になりたいんだ』
獣はクルリと後ろを向き、セルジオに背中を差し出した。
「は……聖護獣とは笑わせる。お前の身体は少し黒いぞ。闇に堕ちた獣の証だろう」
『オレだって最初から闇だった訳じゃない。前に、たまたまひどい人間に宿ったばかりに闇に染まり始めた。オレは聖獣に戻りたいんだ。お前のような人を救う職業の奴に宿れば、きっとオレの本質も浄化されるだろう。約束しよう、お前とその女房は守ってやる。お前もオレの力を自由に使っていい』
「堕聖獣の話を信じろというのか」
『それはそっちの勝手だ。どちらにしても、断ればお前は女房と永遠にさよならだ。……どうする』
セルジオは獣の背中をじっと見つめた。
そこに触れれば、聖獣と人間の契約は成立する。
『おい、急げよ。完全に魂が抜けちまったら、オレだってそんなもの呼び戻せない』
その言葉が終わるやいなや、セルジオは一気に獣のまだらな背毛を掴んだ。
途端に、自分の身体に得体の知れない力が洪水のように流れ込んでくる。
「う……ああああああ……!」
『はは……ははは……! 思ったとおりだ、お前の身体はいい。馴染む、馴染む……! よし、早く手を女房の傷口に当てろ。そして一緒に唱えるんだ。今のお前ならわかるだろう!』
言われるままにルチアの赤い胸に両手を押し当てると、考えずとも一つの言葉がセルジオの口をついて出た。
「『リオーガ・パルディオナ!!』」
手のひらがドクドクと脈打ち、熱い気が迸る。
すると、見る見るうちにルチアの貫かれた胸の傷が塞がっていく。
「ああ……! ルチアが……」
『オレには傷や病を癒す力がある。だが、前の宿り主はそれを拷問の道具に利用した。奴はそういう遊びが好きで、傷つけてはそれを治し、また傷つける……。オレは奴の、大きすぎる欲望に呑まれてそれを悦ぶようになり始めた。ギリギリの所でそいつに見切りをつけたんだ』
すっかり傷が癒されると、セルジオはルチアの胸に耳をつけた。
僅かだが、確かに心臓の鼓動が聞こえる。
そしてルチアはパチッと目を開けた。
「生きてる……! ルチア、もう大丈夫だ。私がわかるか!?」
ところが、ルチアは一点を見つめたまま、返事をしない。
どんなに肩を揺さぶっても耳元で叫んでも、ぐったりと腕を下ろしたまま呼吸さえしていないように見える。
「なぜ……? なんだこれは! お前、やはり私を騙して……!」
『バカな、そんなはずはない! 今までだって何度もこういう事はあった。そいつらはちゃんと……!』
一体化した獣の心が、セルジオに直接伝わる。
本気で動揺し、うろたえるその心情が決して騙した訳ではない事を物語っていた。
「だったらなぜ! ちゃんと心臓も動いているし、目も覚ましたのに! こんな……」
ハッと二人の心が共鳴し、一つの答えに行きつく。
「『まさか、心だけ呼び戻せなかった……?』」
ヘナヘナとセルジオはその場に座り込んだ。
ルチアはコロリと顔を横に向け、やはり前方を見つめたまま瞬きすらしない。
「こんな……心だけが死……? これではまるで人形……」
『バカ、それどころじゃない! このままでは寝食も、おそらく呼吸さえもしないぞ。またすぐに死んでしまう!』
ゾッと鳥肌が立った。
一度は助かったと思った以上、また死に直面するのは耐え難い。
だがどうすることも出来ず、諦めきれない悲しみがセルジオの身体を小刻みに震わせた。
その背中から獣が再び現れ、じっとルチアを見下ろす。
『きれいな緑色だな……瞳の色……』
「ああ……。この瞳で、眩しいほどに笑うんだ。それが私にとってどんなに……どんなに……!」
すると獣は、今はセルジオの背中と繋がった気の流れを細く伸ばして、部屋の隅へと移動した。
『この女の笑った顔、オレも見てみたい』
「……なに?」
突然、獣は部屋の隅に倒れたままの、先ほどルチアを刺して死んだ男に食らいついた。
「う、うわあっ! お前、何を……!」
『心が呼び戻せないのは、きっとオレの力が足りないせいだ。人を食えば力は増す。闇の方の力だが、手っ取り早い方法はこれしかない。これでもう一度やってみる』
獣は一心不乱に男の身体を貪り食う。
あまりのおぞましさに、セルジオは狂ったように金切り声を上げた。
「やめろやめろ! そんな……、許される事じゃない!」
『女房がこのまま死んでもいいのか! いいからオレを信じろ!』
その時、すっかり男を飲み込んだ獣に異変が起きた。
身体がムクムクと大きくなり、四足の獣の姿だったものが、より人間に近い人獣の姿になっていく。
「これは……、お前まさか……!」
『ああ……、ついにこうなったか。人に近い姿は力の大きさの証だ。どうやらオレは完全に堕聖獣になっちまったらしい。でも、それならそれで構わない。これでなんとかなるだろう』
獣はスウッとセルジオの背中から身体に入り込むと、心に直接語りかけた。
『急ぐんだ。呼吸をしなくなってから時間が経ちすぎている。さっきと同じ呪文だ。集中しろ、心を研ぎ澄ませ。今度こそお前の女房は息をし、あの瞳でお前に笑いかける。信じるんだ……!』
セルジオは獣に言われるがまま、もう一度ルチアの心臓に両手を押し当てた。
さっきとは少し違う、禍々しくも強い力の高まりが身体中を駆け抜けていく。
「『…………リオーガ・パルディオナ!』」
ドン、と大きな気の塊が手のひらから迸った。
目には見えないその力が、ルチアの体内に呑み込まれていく。
(ルチア……! たのむ、戻ってきてくれ……)
すると、ルチアの胸がひとりでに上下し始め、それと同時に力の放出も絶えた。
セルジオは今度はルチアの口元に耳を当てた。
ゆっくりとだが確かな息使いが聞こえる。
「息を、してる……! やった、ルチア……」
『……いや、ダメだ』
心に直接響く獣の声。
それに突き動かされて、セルジオはもう一度ルチアを検めた。
呼吸はしている。心臓も動いている。
だがそれだけだった。
相変わらすルチアはグッタリと、人形のように一点を見つめたまま、それでいてどこも見てはいない。
「ダメ……なのか? ここまでしても、ルチアは眠ることも食べることも忘れ、ただ死んでいくのを待つだけなのか……? それを私に見ていろというのか! あああっ……!」
セルジオの叫びに呼応するかのように、無表情なルチアの緑色の瞳から、つうっと涙がひとしずく流れ落ちた。
「涙……、違うか。心が無いのに、そんなもの……」
『いや、涙は感情の証だ。覚醒できないだけで、きっと心の欠片はこの女のどこかに残ってるんだろう。だが今のオレの力じゃ、これ以上は無理だ……』
「……心が残ってる? それなら!」
セルジオは慌てて部屋を出て、自分の研究室へ飛び込んだ。
そして様々な薬瓶の並ぶ棚の奥の奥から、目当ての小瓶を取り出す。
『おい、なんだよそれ……』
「以前、私が開発した薬品だ。これに自分の血を一滴混ぜれば、お前のようにパートナーの心に闇が巣くってどうにもならない時、そいつの心をコントロールして自分に従わせる事ができるようになる。一種の麻薬だ」
だがセルジオは、手にした小瓶をじっと見つめて僅かに頭を振った。
「そうだ、麻薬なんだ。この薬の原料になる花の栽培は第一等禁事指定……。それでも私は、裏庭で密かに花を栽培してこれを作った。これがあれば闇に染まった人間も聖獣も制御できると思ったんだ。だが所詮は麻薬、禁断症状もある。ましてや、誰かの心を捻じ曲げるなど許されない事だと悟ったのに。これにまた頼ろうとするなんてどうかしていた……」
暗く沈んでいくセルジオの心に、獣の声が響いた。
『心を捻じ曲げるんじゃない。純粋にこの女を助けるために使うんだ。僅かでも心が残っているなら効くはずだ!』
セルジオの小瓶を持つ手がピクリと振れる。
『このままでは本当に死んでしまう。いいか、今はその薬でオレたちに従わせよう。それで生きるのに必要な事をさせる。食べること、寝ること……。お前は研究を続け、なるべく身体に負担の掛からない薬を作り続けろ。オレも力が回復したら、何度でも心を呼び戻してみる。いつかきっと覚醒する。それまでの辛抱だ』
「お前……なんでそこまで」
『お前とその女を守ると約束した。それだけだ。いいな、やるぞ』
自分がそうしたのか、獣が身体を動かしたのかわからない。
いや、双方の想いが一つになり、自分達を突き動かした。
セルジオが剣の刀身に自分の指を滑らせる。
つっと糸のような細い傷口から見る間に赤い血が滴り、それを小瓶の中へ一滴落とした。
「お前の名前……まだ聞いていなかったな」
『オレは自分の身体が黒く染まり始めた時からグール(貪る者)と名乗っている。本当の名は元の聖獣に戻る時まで封印した』
「ずいぶんとストイックな堕聖獣だ」
セルジオは妻の元へ向かい、薄紅色の麻薬を迷うことなく口に含ませる。
その瞬間、今まで静かに寝息を立てていたリトルシェイラが、突然火が付いたように泣き出したのだった……。




