渇望
「……ウォルフ=ポリレスカ、お前はまだ本当に若い。ゆえに未熟なのは仕方がない。心も身体も……知識でさえも」
次の瞬間、グールとポーリン二人を包んでいた青い光が靄のように消え失せた。
「な……!? どうして!」
愕然とするポーリンを冷ややかに見下ろし、グールが静かに口を開く。
「確かに相殺の術は、シオン公爵家の血を持つ者のみが行使できる。だが実際に発動させる事ができるのは現公爵のみ。お前は同じ血を持ってはいても、現在は第二爵位後継者。公爵が生きている限り、発動させる事叶わん」
「……!」
ずっとこの呪文に怯えてきた。
うっかり口走ってしまったらとそればかりを考え、眠れなかった幼い日。
(今、やっとそれを使う事の意味を、誇りを知ったのに……)
またしても自分の思いは先走りで、愚かな結果を招いてしまうのか。
ポーリンは隠し持った短剣を握り、グールに突き出した。
だがサラリと受け流され、反対にその腕と頭を掴まれて額が床に叩きつけられる。
「あぐぅっ!!」
絶望と屈辱の波が身体を震わせる。
だがその震えはあまりにも突然、何かを渇望するものに変質した。
「うっ……! くうっ……、はああああっ……!」
ポーリンは両腕を抱え、床の上でなす術もなく這いずり回る。
「……ほらみろ。あまりに昂ぶるから予定より早く薬が切れたんだろう。だが少々お前を甘く見ていたようだ。もう手ぬるい事はできん。……ほら、こっちの娘の方にやるつもりだった薬をやろう。これなら禁断症状が現れなくとも、オレ達に逆らう気はなくなる」
「い……やだ……! そうしたらぼくは……もうリトを守れない……。いやだ、いやだーーっ!」
狂ったように頭を振るポーリンをグールが押さえつけ、金の髪をわしづかむ。
その瞬間、ポーリンの背中からピンク色の聖獣が飛び出し、小さな牙を剥いてグールに襲いかかった。
「ピピィーー!」
「ヒッポ!?」
咄嗟にグールは剣を抜き、迫るヒッポを斜になぎ払った。
それはユリウスに勝るとも劣らない風のような素早さ。
具現化したヒッポは斜めに切り裂かれ、あっという間にその身体は霧のように霞んで消えた。
「ヒ……ヒッポ! う、わあああぁぁ……!」
「ちっ! 思わず消しちまった。こんなのでも喰えばいくらかにはなっただろうに」
グールが口惜しげに漏らす。
ポーリンの身体に、ポッカリと穴が開いたような喪失感。
具現化が苦手で、その姿は自分が変身した時のものしかほとんど見たことはない。
それでもお互いが大好きで、今回のポーリンの計画にもいつものようにピッピとうなずいてくれた。
(ぼくが愚かだから……かけがえのない分身まで。もう、会えない……!)
それは皮肉にも、ポーリンの心をさらなる狂気へと導く。
「いやだあぁぁーー!! こんなの、いやだいやだいやだいやだいやだあぁぁぁぁっ!」
「……ふん、じゃあどこまで戦えるか見せてみろ。この先はお前の意志だ……」
グールの手から薬瓶がゆっくりと滑り落ちる。
それが床で砕け散るのと同時に、サンルームの大きな窓が割れ、一陣の熱い風が部屋に躍りこんできた。
「ポーリンに触らないで!」
現れたのは金色に光る猿獣を従え、燃える緑の瞳でこちらを見据える赤髪の少女。
「……彼女の言葉が聞こえなかったか。私の弟から手を離すんだ、伯爵」
そしていつのまにかグールは背後から、銀色の髪の若き公爵に喉元を剣で捉えられていた。
だが、その弟はすでに目の前に広がった水溜りに、あっけなく心を奪われている。
「うう……、はああ……っ!」
床にこぼれた命の水を、ポーリンが手のひらで撫で、指をすする。
「やめて……やめてポーリン! 何してるの!」
リトが金切り声を上げ、ユリウスは目の前で起きている、愛する弟の現実に声を失った。
ポーリンはそれでは足りずについに床に這いつくばってその雫に舌を這わせた。
硝子の破片が唇を切っても、そうする他なかった。
「見ないで……リト、兄様お願い……。ぼくを、見ないで……!」
涙と交じり合うその雫は、皮肉にもポーリンを地獄の淵からすくいあげる。
するとその身体を、風の塊がグールの足元から掠め取り、ポーリンは宙に浮いたまま意識を失った。
『……わたくしが一時、この子の周りの酸素を消しました。しばらくは目覚めないでしょう。……可哀相に。身体からいつものヒッポの気配が消えているわ。おそらくヒッポはもう……』
ジゼルの風の腕が、ポーリンを優しく抱く。
リトはそれを聞き、唸るように怒りを爆発させた。
「ひどい……! 人をこんな手段で操って、しかもヒッポまで。さっさとポーリンを元に戻しなさい!」
「中和剤など、ない」
その静かな答えに、リトの頬が痙攣する。
「これ以上あたしを怒らせないで……! 何かあるはずよ、なんとかしなさい! でなければこの人の首を掻き切るわよ!」
リトはソファの上に静かに鎮座するルチアを引き寄せ、その喉元に剣を押し付けた。
「やめなさい! 君がその人に剣を向けてはいけない」
毅然と言い放つ伯爵は、今までと全く雰囲気が違う。
「やめろ……セルジオ。なんだ、どういうつもりだ……出てくるな! ここはオレに任せ……。セルジオお前、まだそんな力が……?」
「……潮時だ。すまない、グール……!」
独り騒ぎ立て、そして次にブツブツと話す伯爵の奇行に、リトとユリウスが揃って眉をひそめる。
次の瞬間、ビクッと伯爵の身体が痙攣し、彼がゆっくりと顔を上げた。
それを見て、アトラがフンと鼻を鳴らす。
『さっきまで身体を支配していたのは堕聖獣の方か。……時々いるんだ、宿り主のくせに聖獣の精神に負けて身体を奪われる奴が』
「……リトラ。君がルチアを傷つけてはいけない。ルチアは……君の母親だから」
「は……?」
部屋に沈黙が落ちる。
リトは自分の腕の中に居る女性に目を落としたが、すぐに口元を歪めて笑った。
「バカみたい。この人あんたの奥さんでしょ? 命乞いにしたってもう少し……」
「君をルナティア保護院に置き去りにしたのは私だ。寒い夜で、私は君を幾重にも毛布で包んで……、君の名前の縫い取りがある毛布だ。すぐに気付いてもらえるように、わざと泣かせて置いてきた」
リトをはじめ、全員の顔色が変わる。
「そんなの……そうだ、あたしトスカとポーリンに話したわ。あんたそれ、どっちかに聞いて……」
「君はよく泣く元気な子だった。だが耳元を触ってやるとすぐに泣き止むんだ。それをルチアに教わってからは、私も安心して抱いてやることができた」
リトは目を見開いて、背後のアトラを振り返った。
『それは……俺もすぐに気付いた。すぐ泣くくせに、そうしてやると気持ちよさそうに眠ってしまう。じゃあ本当にあんたリトの……?』
「ルチアには何の罪もない。全て私の心の弱さが招いた事だ。その弱さがルチアをこんな状態にし……その為に私たちは罪を重ねた。こんな連鎖はもう断ち切らなくては。……公爵、私がグールを押さえ込んでいられるうちに、どうかその剣で私を」
その澄んだ潔い目はユリウスの切先を鈍らせる。
「奥方がリトの母親という事は、伯爵あなたがリトの……! 一体、どういう……」
「……ねえ、この女の人おかしい。何も言わないし、何も見てないよ……? この人、本当にあたしの母さんなの? どうしてこんな……」
リトと良く似た緑の瞳は、剣を突きつけられても無表情なまま、ただ前方を見つめている。
リトは剣を取り落とし、震える腕でルチアを胸に抱いた。
そして、まだ信じられない面持ちで、もう一人の肉親を問いただすように見つめる。
「……ルチアは、過去に一度死んでいるんだ」
伯爵が淋しげに目を伏せる。
「だが私は、ルチアの灯火が消え行くのを黙って見送ることができなかった。それまで医師として、何人もの最期を看取ってきたというのに、自分の妻だけはそのまま逝かせてやれなかった」
「どういう事……。いったいあなたは、母さんに何をしたの……?」
――懐かしいルチアと同じ声が、自分の罪の正体を問いかける。
罪だというのは知っていた。
知っていてもなお、ルチアを失う事の恐ろしさに比べたら、なんでもない事のようにその時のセルジオは感じたのだった――。




