誇り高き血
もう後戻りは出来ない。
あのウォルフがジオラルの花の事を口にした時、すでに逃げ道は絹糸ほどの細きものになっているのだと悟った。
そこであの秘密のノートをあえて渡し、彼にこちらの情報と薬を同時に与えることで、自ら逃げ道を断ったのだ。
残された闇の回廊を、迷わず突き進む為に。
「旦那様、リトラ様とおっしゃる方がいらしてますが」
背後のドアの外から、使用人の声が聞こえた。
「一人か? ウォルフ君は」
「いえ、お一人でいらっしゃいます」
優しく脆い彼は、自分でここに差し向けておきながら、想い人の成り行きを正視できないらしい。
今頃は耳を塞ぎ目を塞ぎ、部屋で一人泣いているのだろう。
恥じる事はないのに。
誰しも我が身の苦しみには耐えられぬ。
肉体的にも精神的にも、己の苦しみの前に良心など詭弁に変わる。
「客間に……いや、こちらの書斎に通しなさい」
「はい。……どうぞお入りください」
ドアが開き、スタスタと躊躇なく近づいてくる足音。
使用人が立ち去るのに充分な時間を待って、セルジオはゆっくりと振り返る。
「お会いするのは初めてですね、ようこそリト……」
目の前に佇む少女と対峙して、セルジオは絶句した。
くせのない赤みがかった蜜色の髪。
どこまでも透き通る緑の瞳。
少女の姿はセルジオを遥か遠い、眩しいばかりの過去へとさらった。
(ルチア……!?)
『ルチアだと!』
身体の中で、眠っていたはずのグールが声を上げる。
『何をバカな……。ルチアは離れに居るだろう。それに髪の色も違う。まあ確かに、似てはいるが……』
(違う、ルチアだ! 知り合った頃のルチアに生き写し……。お前は知らないだろうが、子供を妊娠した頃から髪の色も急激に今の金に変わったんだ)
『(子供……?)』
二人の心が同じ一つの記憶に行き当たる。
セルジオは、震える声でリトに問いかけた。
「リト……ラ君、歳はいくつだ。君のフルネームは……?」
ぼんやりと自分を見つめたままの少女が、僅かに口を開く。
「十七歳……です、伯爵。フルネームはリトラ=ルナティア」
『ルナティア!?』
(ルナティア孤児保護院……。間違いない。この娘は十七年前、お前と二人であの孤児院に置いてきた私の娘……リトルシェイラだ!)
セルジオの苦悩に満ちた心の叫びを、グールも最早、否定はできなかった。
「リトラ……君。案内したい所がある。一緒に来てくれないか」
セルジオは足取りのおぼつかないリトの手を引き、離れのサンルームへ連れて行った。
「こちらへ。これが君……いや、私の妻、ルチアだ」
十七年ぶりに再会した母と娘はどちらもぼんやりとしたまま、その眼差しが真に交わることはない。
叫びだしたい衝動を堪え、セルジオは二人から離れて斜向かいのソファで目頭を押さえた。
(何てことだ……。私は自分の実の娘にあんな薬を飲ませてしまったのか。しかも、あわよくば喰らおうと……!)
『できない……と言うのか』
今まで黙り込んでいたグールの声が心に響く。
(当たり前だ! この子は私の娘、巻き込みたくなくて置いてきたのに……できるはずがなかろう!)
『ではルチアがこのままでもいいんだな』
セルジオの心が揺れたのを、グールが見逃すはずもなかった。
『そうだろう? お前だって感じているはずだ。あと少しオレの力が増せばルチアは必ず目覚める。もう引き返せない』
(だが……この子だけは……)
『ならばターゲットを公爵に。そんな気はなかったが、リトルシェイラは本当に中のアトラだけを喰らえばいい。そして約束通りあのウォルフに与えろ。公爵亡き後、爵位を継ぐのはあの弟だ。この娘と薬を利用すれば、あいつは完全にオレ達の意のままになる』
セルジオがゆっくりと顔を上げると、いつのまにか目の前でリトが下僕のように跪いていた。
「伯爵様……」
リトは両手をすうっと伸ばし、セルジオの腰にしがみついてくる。
「リトル……」
思わずセルジオはリトの身体を引き上げ、十七年ぶりに我が子を胸に抱いた。
最後に抱いてやったのはいつだったか。
壊れそうなくらい小さくて柔らかくて、おぼつかない手つきの自分をよくルチアは笑ったものだった。
『ドリスと同じ、薬が効きやすい体質のようだな。すでにお前に支配されたがっている。おそらく中のアトラも同じだろう。セルジオ、早くアトラを呼び出すように命令しろ』
グールに急かされ、セルジオは自分の腕の中で丸くなっているリトの耳元に囁いた。
「君の聖護獣を呼び出すんだ。心配はいらないよ、君には何もしない」
「……はい、伯爵」
身体の中でグールが身構えるのがわかる。
出てきた瞬間、喉笛に喰らいつくつもりなのだろう。
同時に、その後の増力への期待感も感じる。
だがそれはセルジオも同じだ。
(ついに……。これでやっとルチアを……!)
「…………ア……」
リトがセルジオの背中に回した手に力を込めた。
「アデルゼスト!!」
カッ! とリトの身体から青い閃光が迸り、その光は瞬く間にセルジオの身体にまで伝い始める。
「何……これは……?」
『これは……! 何をしている、代われセルジオ、早く!』
グールに無理矢理引きずり込まれ、セルジオは意識の底に沈んだ。
表に現れたグールはすぐさまリトを突き放そうとしたが、しっかりと抱きついているリトの手はなかなか離れない。
「くそっ、こいつ!」
グールは渾身の力でリトを引き剥がし、その腹を蹴り飛ばした。
「ガハッ! ううっ……」
リトが床に転がり、腹を押さえてうずくまる。
「貴様……何を。これはまさか……!」
グールは愕然と自分の両手を眺めた。
いや、両手だけではない。
リトから伝わった光が全身を取り巻いて、彼女と同じ青い光を放っているのだ。
「……もう遅いよ。あんたは今、ぼくと術を分け合ったんだ」
床に投げ出された、青い光を纏うリトの姿がぼんやりと滲み始めた。
長い赤みがかった髪はだんだん短くなり、透き通った薄い金色に変わっていく。
「リトは兄様の花嫁になるんだ。ぼくの、誰よりも大事な人だ。その人を堕聖獣なんかに差し出せるはずがないだろう……」
「変化の術……? 騙したな、お前は……!」
青い光に包まれて、グールが後ずさる。
やっとの思いで身体を起こし、燃える目でグールを睨み付けるのはもうリトではなかった。
「ぼくはウォルフ=ポリレスカ=シオン! 誇り高きシオン公爵と同じ血を持つ、その弟だ! ぼくは死んでも堕聖獣に屈服などしない。お前はぼくと共に相殺の術で消えるんだ、グール!!」




