堕ちた恋人
ノックもせずに書斎の扉を開けると、その男はどっしりとしたソファの上で寛ぎながらも、分厚い書物を読んでいる。
しばらく無言で視線を交わした後、トスカは部屋に足を踏み入れた。
「……いやね、また少し白くなった?」
「気苦労が多くてね」
男は白髪の混じり始めた頭に軽く手をやって笑う。
幼い頃は、その真っ直ぐで長い黒髪と戯れるのが好きだった。
この人の膝の上にちょこんと座り、その髪を三つ編みにしたり結んだりしながら、一日の出来事を夢中で話す。
忙しい身でありながら、自分の話に目を細めて耳を傾けてくれる、そんなこの人が大好きだった。
トスカはソファの傍らに立ち、男の数本白いものが混じったあたりの髪に、ブラシで梳くように指を通した。
彼は書物をテーブルの上に置き、髪を梳かれるのが心地よいのか、ソファにもたれながら目を閉じている。
憎らしい。
何故こうまで私に対して無防備なのだ。
今、胸を剣で突くのはあまりに容易いではないか。
その思いとは裏腹に、トスカはゆっくりと腰をかがめると男にキスをした。
驚く様子もなく、男も唇を開いてトスカの背中を引き寄せる。
「……ここでか?」
「いけない? 何も不都合はないでしょう」
トスカが男の喉下に唇を寄せると、彼は首を反らしてくぐもった吐息を漏らした。
今では黒髪や穏やかな微笑みより、その吐息が何よりも好きだ。
「……よくわかったな、今の意識がセルジオではなくオレだと」
「父様なら、きっと私の顔をまともに見ることなんてできないわ」
「ふ……あいつらしいな。娘が父親の自分と抱き合うのを、未だに受け入れられないのだろう。確かに歪んでいるがな」
「よく……言うわ。血が繋がってる訳じゃないって最初に言ったのはあなただった。……それに今のあなたは父様じゃない。私はあなたとこうしたいのよ、グール」
指先で彼のローブの前を開き、はだけた胸元に顔を埋めてトスカがその肌の奥に住まう堕聖獣に囁く。
トスカの好きなようにさせたまま、グールは天井に向かいまた目を閉じた。
「わからんな……。お前とオレは人と聖獣、もともと相容れぬ者だ」
「わからない? 嘘ばっかり」
トスカが顔を上げて皮肉に笑う。
「堕聖獣のあなただって、必死になって人間のあの人を守ってるじゃない」
グールの眉がピクリと動く。
「それだけはあなたと父様が中で入れ替わっても変わらない。闇に堕ちた聖獣のはずのあなたが、その力をあの人の為だけに使ってる。まるで真綿で包む様に守っている。その気持ちと同じよ。不思議で、不可解で、歪んでいるわ」
グールは目を開け、トスカの後ろ髪を片手でグイとわし掴んだ。
反り返ったトスカの喉笛が無防備に晒される。
「違う! オレは宿り主であるセルジオがそう望むから力を貸しているんだ。オレはただあの女の……ルチアの笑った顔が見てみたい、それだけだ!」
「……教えてあげる。人はそれを愛と呼ぶのよ」
グールが避け続ける言葉を投げかけたのは、いっそこのまま喉を噛み砕かれ、取り込まれてしまいたいから。
だがグールは傷つけるどころか、トスカの白い喉元にそっと唇を這わせた。
乱暴な扱いの後、相反して溶けるような優しいキスを与えてくるのはいつもの事。
それに我を忘れ溺れていくのもトスカの常だった。
「ふん……人間はこの世の全ての物に呼び名を付けたがる。だがオレは、この痛みに名などいらない」
何かがふっ切れたように、グールはトスカをソファに組み敷いた。
あの人を想う心が痛いのだと、漏らした事も気付かないまま。
――身体が、バラバラになっていく。
口付けられた箇所からひとつづつ自分の意思が及ばなくなり、なす術もなく闇への愛しさに堕ちる。
誰にも、何にも代わりはできない。
シオン公爵の護衛という立場でありながら、身近に存在する堕聖獣を消す事はおろか、告発すらできずにいるのはひとえに彼を失うのが怖いから。
でも……。
「……ねえ、待っ……て。聞きたい……事があるの」
「それは今、答えなきゃならない事か」
どこへ続くのかも分からない未来に目をつぶると、反対に懐かしくて遠い過去が見える。
トスカはその切なさと、触れ合う肌の甘さに小さく声を上げた。
(ああ、十五の時の私が見える……)
早く帰ってきてとせがむユーリの額にキスをして、あの日は久しぶりにこの屋敷に帰ってきたのだった。
それなのに父様は、母様の具合が悪いのだと言って離れの棟に閉じこもり、一度も顔を見せてくれないまま。
ユーリに一泊だけと約束した手前、明日にはもう公爵家に戻らなければいけない私はただ夜が更けていくのがとても寂しかった。
だから、勝手に入ってはいけないと言われている離れのサンルームを覗いてしまったのだ。
そこで見た光景。
眠っているところしか見た事はなかったのに、その時の母様は中央の大きなソファに足を崩して座っていた。
うっすらと化粧も施され、波打つ金髪も縺れることなく胸に落ちている。
けれど前方の一点を見つめて動かない。
初めて会った頃と何も変わらず、一人だけ時が止まった美しい人形の様にそこに居た。
その母様の胸に両手を押し当て、父様と、その背中から浮き出た人獣が必死に何か唱えている。
『ダメだ……やはりダメだ。何故だ! 何故ルチアに限ってオレの力が及ばない? こんなにオレの力は小さかったか……?』
人獣は、斑に黒ずんだクリーム色の身体を震わせて、うなだれていた。
その姿は一目で堕聖獣だとわかる。
でも私は父様に堕聖獣が宿っていた事実よりも、それが母様の為に必死になっている姿の方に驚いていた。
その驚きから漏れた小さな声を、その堕聖獣は聞き逃さなかった。
「――やめろ! この子を、トスカを食ってはいかん。やめるんだグール! お前とて二度もそんな事をしたら、もう取り返しがつかなくなる!」
『構わん! 野放しになどできるか。それにあれも見られた。公爵家で洩らされては終わりだぞ!』
私を部屋に引きずり込み床に組み敷いたまま、父様とその堕聖獣は長い間言い争っている。
あまりの事実の重さに私は放心し、ただぼんやりと庭の方を見つめていた。
サンルームの外、やけに明るい月夜の庭。
隣接する温室の中で、あまり馴染みのない花が咲き乱れ、月明かりに照らされて青白く光っている。
その温室は普段なら黒い暗幕で覆われ、日光で変質しては困る薬草の保管庫だと父様は言っていた。
今はそれが開け放され、光る花が競うように暗い庭を明るく照らしているのだ。
私はその花が以前に薬学で学んだ、栽培を禁止された禁忌の花だという事に気づいていた。
「……食べればいいじゃない」
私が呟くと、父様と堕聖獣の争いがピタリとやむ。
「私……父様の邪魔者になったんでしょ……? もうたくさん……。好きな人の重荷になるのはもう嫌だ……! 殺せ、堕聖獣!」
『お前……?』
堕聖獣は眉をひそめたかと思うと、父様の身体の中に吸い込まれるように戻っていく。
「私がどんなに愛しても、母さんは私を金に代えた。でも父様はそんな私を大事に……愛してくれた。父様の重荷になるくらいなら、もう……死にたい……」
涙がとめどなく頬を伝い落ちる。
「なるほど……そういう事か。それなら殺さずとも手立てはある」
そう呟いて父様は私を担ぎ上げると、母様のベッドに叩き付けた。
「きゃっ……!」
投げ出された私の両肩を上から押さえつけ、父様が取って付けたように目を細める。
「トスカ、勘違いするな。オレはお前の事を愛している」
上から落ちる父様の黒髪が頬をくすぐり、優しい微笑みは何かとてつもなく危険な匂いがする。
それでもその言葉は、激しく私の心を揺らした。
「嘘……」
「嘘じゃない。証拠が欲しいか?」
視界がゆっくりと覆われ、父様が私の唇を慈しむようについばむ。
こんな事、考えた事もなかった。
でも、妖しく震える心が止まらない。
すると父様は突然ガバッと身体を起こし、誰にともなく声を上げた。
「ふざけるな! こんなやり方があるか。この子は……トスカは私の娘だ! こんな事、許されない!!」
「うるさい。代われセルジオ。そしてしばらく眠っていろ。お前には荷が重いだろう……」
「やめろグール……! たのむ、待って、く……」
目の前で一人、狂ったように反対の事を叫ぶ父様は、ドン! と、重い扉が落ちたような衝撃に仰け反った。
「父様……!」
上を向いた顔がゆっくりと顎を引く。
やがて私を見返したのは、目に強い光を帯びた知らない父様だった。
「何が許されないんだ? 血が繋がってるわけじゃなし。……なあトスカ」
ゾクリと全身が総毛立つ。
「父様じゃない……! さっきの、堕聖獣……?」
父様は私の髪を、額を、優しく撫でつけた。
「オレの名はグール。だが今のオレはお前の父、セルジオ=オニキスだ。オレの意識ならセルジオはお前を愛することができる。トスカ、お前はどちらを望む……?」
きつく掴まれた腕が痛い。
だが再び唇を塞ぐキスはとても優しい。
父様の意思は沈み、その身体は堕聖獣が支配している。
それを悟っても、喉元を這う指先が肩に滑り込むのを拒む事ができない。
「トスカ……愛しているよ。重荷なんかじゃない。お前がオレとあの温室の花の事を誰にも話さないでくれたなら、決して寂しい思いはさせない。オレはいつでもこうして、お前の愛に応えてやろう……」
身体がベッドに沈み込む。
底なし沼のように深く、優しく。
「私はシオン公爵の護衛よ……。花の事も、堕聖獣を見つけた事も黙ってなんか……」
遠のく意識を奮い起こして脚に忍ばせた短剣に手を伸ばすと、それをグールは容易く押さえ込んだ。
「やめておけ。オレはお前を喰らいたくない。それに花はルチアの身体の為に使うだけだ。悪用する訳じゃない」
父様とは違う目の色が悲しげに揺れる。
吸い込まれそうな、闇より深い黒。
その色に魂までも引きずり込まれそうな気がする。
「今のルチアは意思を持たない。あの花からできる薬は、ルチアをオレ達の命令に従わせる効力がある。命令がなければ寝食もせず、やがて衰弱して死んでしまうだろう。オレ達はいつかあいつの心を取り戻してやりたい、それだけだ」
「堕聖獣の言う事なんて……信じられない」
『元々、俺は治癒の能力を持つ、テンの聖獣だった。人を喰らったのだから堕ちた聖獣と言われても仕方がないが、それはルチアの為だった。ルチアの為に力を増幅させなければならなかった。後悔はないが、もう二度と人を襲うつもりはない。セルジオも毎日研究を重ねて薬の改良に取り組んでる。……もう少しなんだ』
気が付くと私は、父様の姿になったグールの頬に手を伸ばしていた。
「どうして……? じゃあ、あなたは母様の為に堕ちたの? どうしてそんな」
グールは最初の時と同じような皮肉な笑みを浮かべ、おもむろに私の胸を掴んだ。
「…………!」
「確かまだ十五だったか。幼いな。……だがそれも面白い。トスカ、力を抜いて自分の心を感じてみろ。お前はオレを選びたがっている。……ほら、わかるだろう? オレ達にはお互いが必要なんだ。約束を……交わそうトスカ」
母様の背中が見える。
母様のベッドの上で、父様が私を抱きしめる。
堕聖獣が操る父様の手のひらが、手の甲が、頬が、私の全ての輪郭をなぞる。
触れられると、叫んでしまいそうなほど身体の奥が熱く痺れてしまう。
約束を交わしたい自分が居る――。
あの時、私達がそうしている間も、きっと母様は少し微笑んだままでいたのだろう。




