闇は都の片隅で
その家はいつもひっそりと静かだった。
家に仕える者も最小限で、ましてやこの主の書斎には、普段は誰も近寄る事が許されない。
「そうか……。あのアトラ=モリスが現れたか。それで今は?」
「はい。自警隊採用試験には合格しました。今、公爵家にいるようですが、配属先はこれからかと。実はその宿り主というのが…」
「待て。……もしや、子供のような若い娘ではないか?」
先を言い当てられて、報告をしていた男はやや不満げにうなずいた。
この情報にかなりの価値があるとふんでいたのだ。
「やはりあれが……。偶然だがな、昼間やけに大きな気を持つ聖獣に乗って移動する娘を見たのだ。なんと……あのアトラがあんな小娘に。クックックッ……」
目頭を押さえ、堪え切れずに主が笑みを漏らすと、男もへつらった笑いを合わせた。
「今日の報告は以上です。つきましては……その、お願いが」
「……例のものか」
主の笑いがピタリと止む。
それにおののきながらも、男は自分の欲求を抑え切れずにゴクリと唾を飲み込んだ。
「データは多い方がいいでしょう。今回は……少しいつもと違うような気がするんです。全て、逐一報告します! ですからお願いです……もう……」
「お前には予備を渡してあるだろう。それで間に合わせておけ。今回はその必要はない」
冷ややかな主の眼差しに、男の血の気が引いた。
「それは……その、実は失くしてしまって……」
蚊の鳴くような細い声を絞り出すと、主はそれに背を向けて窓辺に立った。
窓から見える今夜の月は、痛いほど青白く美しい。
「もういい」
「……はい?」
思わず聞き返すと、ゆっくりと振り返った主の笑みも、青白く光って見えた。
「もういい、いらぬ。データも、お前も」
その瞬間、主の背中から大きな黒い人獣が踊り出た。
男は声を上げる間もなく喉笛を噛み砕かれ、目を見開いたまま床に崩れる。
『お前はあれを、夜の女に売りさばいた。小遣い欲しさか、それともあれでその女を自由に出来るとでも思ったか。どちらにせよ、そのような浅はかな者は危険だ。あれを買った女は、とうにここへ通って来ている。お前よりもずっと忠実で使える者だ……お前の代わりを申し出ているよ』
そう言ったのは、すでに息のない男をクチャクチャと音を立てながら食い漁る人獣の方だ。
「もういいだろう……。やめておけ」
主は自分の聖護獣に背を向け、窓に向かいながらも目を閉じていた。
『もったいないだろう。それにこんな半端な死体、どうするんだ。処理してくれるのか』
「断る。そんなもの見たくもない」
『ふん、お前はいつもそればかりだ』
黒い聖護獣は獲物の存在を余すところなく飲み込み、床に広がった血さえも綺麗に舐めまわした後、主の体に戻った。
静かに閉じていた目を開け、主は熱く昂ぶる自分の体を確かめる。
「ああ……この程度の者でも、取り込めば力は増すのか。これがあの火猿アトラとその宿り主ならどれほどのものか。もっと、もっと力が欲しい。さすればきっと……!」
込み上げる悲願への渇望に耐え兼ねて、主は再び目頭を押さえた。