生きる覚悟
窓の外は裏庭に当たる森の闇。
この部屋からはそれしか見えない。
だがトスカはその風景が好きだった。
何もいらない。
こんな不安な夜に必要なのは静かな闇。
それだけで心は凪いで、私は眠りにつくことができる――。
背後のドアが開く音よりも、カーテンがふわりと舞って頬を撫でた事で誰かが部屋に入ってきたのがわかった。
「……どうしたの。怖い夢でも見た?」
振り向かずにからかうと、窓に映ったユリウスが少し困ったように笑う。
「そう言ってここに来たのは、確か十歳の時が最後だった。我ながら恥ずかしいな」
「もう十年以上経つのね。……それで? 十年ぶりにこんな時間にやってきて何の話?」
ユリウスは黙ってこちらに近づいてくる。
だがトスカは窓辺に佇んだまま、相変わらず外の闇をぼんやりと眺めていた。
ふいに後ろから腰に手が回り、トスカがユリウスに引き寄せられる。
「私の、妻にならないか」
耳元で響く声は小さく固い。
「その台詞は、あんたが六歳の時以来ね。ふふ……、あの時は強そうだからって言ったわ。今また、私を選ぶ理由は?」
「……同じだ。お前は強くて綺麗で聡い。お前なら誰よりも私の妻になる意味も知っているし、覚悟もあるだろう」
「肝心なのが抜けてるわよ。トスカが相手なら、リトも諦めてくれるだろう……ってね」
ユリウスが亜麻色の髪に顔を埋めた。
「懐かしいな……、トスカの綺麗な匂いがする。私が泣き言を言うといつも怒鳴られ、殴られ、その後必ず『しょうがない奴』と言って抱きしめてくれた。その時の匂いだ」
ふと肩の力を抜き、ユリウスが顔を上げる。
「……すまない。やはりどうかしてるな私は……」
「いいわよ、そうしても」
肩越しに振り返ったトスカの目を、ユリウスは訝しげに見下ろした。
「ねえユーリ。あんた、私を壊せる?」
不可解な言葉に、ユリウスの手が緩む。
するとトスカはその手を掴み、自分の腰から膝へとゆっくりと滑らせていった。
「あんたにできる……? 私をバラバラにして、二度と再生なんか出来ないように粉々に破壊して……。戦いも、自分が何者であるかも、人だという事すら忘れるくらい私を狂わせて。一瞬でも私のリアルを壊すことが出来るなら、あんたの妻になってもいいわ」
膝まで辿り着いたユリウスの手が、ガウンの裾をたくし上げて腰まで戻ってくる。
「面白い条件だ。確かにお前が私の事で知らないのはそのくらいだ。試してみるか?」
「……そうね……」
トスカが先に目を閉じる。
その瞼に掛かった髪をそっと払い、ユリウスはトスカの額に口づけた。
「…………?」
驚いてトスカが目を開けると、いつのまにか自分より背が高くなったユリウスが優しい瞳でこちらを見下ろしている。
「トスカを生きたままバラバラに出来るような凄い奴なんだろう? 今、お前の頭に浮かんでる男は。そんな奴に私が勝てるキスはこれくらいだ。少しは効いたか?」
「……かえってリアルを突きつけられた気分だわ。最悪。目が覚めちゃった」
ユリウスは苦笑いでため息をつくと、その手からガウンの裾を滑り落とした。
「トスカにそんな男がいたとはな。次々と誰かを求めるのは、苦しい恋だからか?」
何も答えず、視線を逸らすトスカをユリウスがそっと胸に抱く。
「すまない。私は本当に自分の事ばかりだ。私がいつまでもこんな風だから、お前は自分の事にまで手が回らないんだろう。もういいから、そんな顔しないでくれ。もう……わかったから」
「わかったならさっさと覚悟を決めて、リトのところへ行きなさい」
トスカはユリウスの背中をトンと叩いて、顔を上げた。
「男はね、誰かを守って生きる覚悟を決めて、初めて本当に強くなれるのよ。あんたは自警組織の頂点、シオン公爵。誰よりも強くなければならない存在。決してあの術を使わず、自分の手であらゆる敵を倒し、生き続ける覚悟を決めなさい」
「……お前の、その目が見たかった。私の選ぶ道が決して間違っていないと言ってくれるお前の強い瞳を。この部屋を訪ねた理由は、本当はそこにあったのかもしれない」
「忘れないで。あんたには私だってついてる。命に代えてもあんたを守るって誓うわ。……わかったらもう行って。私、出かけたいから」
「想う男の所か、それとも代わりの……」
「そんな事、心配しなくていいの。自分の事はあんたが一人前になってからゆっくり考えるわ。それに、私が本気になれば振り向かない男なんていないのよ」
トスカが、艶やかな花のように笑う。
本当に、本気で望んで手に入らないものなどないかのように。
「……そうだな。わかった、気をつけていって来いよ」
ユリウスがゆっくりとドアに向かうと、トスカはその背中に一つ、付け加えた。
「ユーリ、自分の手の中にあると思って油断してると、あっというまにさらわれるかもしれないわよ。ちょっとしたきっかけで、子供は急に大人になるんだから。余裕を見せるのもほどほどにね」
ユリウスは足を止めて振り返ったが、そこにはもうトスカの姿はない。
そこには開け放たれた窓のカーテンが、ひらひらと揺れているだけ――。
――ユリウスが部屋から出ると、廊下の向かい側でアトラが腕を組んで立っていた。
『さすが宿り主、あんたとジゼルは良く似てるな。素直になるまで時間がかかる。俺がいくら口説いても、ずいぶん長い間ニコリともしなかったのはジゼルくらいだったよ』
「アトラが直線的すぎるんじゃないか? それに素直になれないだけじゃないんだ」
『わかってるよ。傷つけまいと画策するんだろうが、それがかえって相手や周りを傷つける。どっちにしてもやっぱりバカだ。逃れられるはずもないのに』
「その通りだな」
ユリウスはアトラと同じように腕を組んで、はす向かいの部屋のドアを見つめた。
「……部屋にいるのか」
『いや、きっと中庭だろう。さっきまたポーリンともめたみたいでな、風に当たりたいと言って出て行った』
「そうか」
ユリウスは中庭へと続く扉に向かい、ゆっくりと廊下を歩き始める。
「そうだアトラ、ジゼルもさっき月に誘われてどこかに行ったぞ。たぶん森のいつもの場所だと思う」
『心配しなくても、立ち聞きなんてしない。早く行ってやれ』
肩をすくめてそう言い、アトラはフッと姿を消した。
中庭への扉。
その先にあるのは、今まで考えていたものとは違う未来。
戸惑いと不安はまだ少し胸にあるが、それでも扉を開けたい自分がいる。
ユリウスがそっとノブに触れると、それはひとりでに開いたような気がした。
明るい月の光がユリウスをその先へと導く。
探すまでもなく、東屋の傍に立つブナの木の上で、リトは月を仰ぎ見ていた。




