抗えぬ羊
応対に出てきた使用人の制止を振り払い、ポーリンは書斎のドアを開け中に転がり込んだ。
「医師……助けて……!」
手にしていた本を書棚にしまい、オニキス伯爵はおぼつかない足取りのポーリンを両手で抱きとめる。
「一体、どうしたね。……しっかりして」
伯爵は開けたままのドアを閉めるようにと、追ってきた使用人に目で合図をした。
「最初は……よかったんです……」
伯爵の腕の中で震えながら、ポーリンはやっとの思いで言葉を絞り出す。
「すごくやる気が出てきて、何でも出来る気がして。でも今はなんだかおかしい……」
「……詳しく症状を教えてくれないか」
ポーリンを抱えたまま、伯爵が傍のソファへと移動する。
その間もポーリンは彼の腕にすがりついたままだった。
「ずっと胸がドキドキして、じっとしていられなくて。……喉が、乾く」
「それから? 続けて」
恐る恐る見上げた伯爵の顔は、その先を言いよどむポーリンに『大丈夫だよ』と言ってくれているように見える。
「リトの……事ばかり考えてる。ううん、考えてるだけじゃないんだ。朝も昼も夜も、気がつくとそこに居る。声も聞こえる。そしてぼくに酷い事ばかり言うんだ。だから……だからぼく……!」
「だから君は彼女を陵辱し、自分の意のままにする。妄想の中で繰り返し繰り返し……違うかね」
伯爵の微笑みは、いつもの彼とはまるで違う、残忍で狡猾な黒い微笑だった。
だが今のポーリンは、かえってそれに救われる。
「そうだよ……。ひどい事ばかり言うくせに弱いんだ。殴ったらすぐにおとなしくなった。あの背中もナイフで切り裂いてやった……! ぼくが何をしても、リトはぼくを求める。あのリトはぼくのものだ! 本物じゃない……そんな事はわかってる。でも本物はバカだ! どうせ兄様はすぐに死ぬ。リトを幸せになんかできない。それなのに……、うっ……あああああっ!」
喉が焼ける。
足元からモゾモゾと這い上がってくる、生理的な嫌悪が心を限界へと誘う。
「苦しいかい? そうだろうね。幻覚、幻聴、暴力への衝動……まだまだあるよ。異常な喉の渇き、狂いそうなほどの罪悪感。あの薬の禁断症状の典型だ」
「禁断……?」
「君の身体は今、これを欲しがっているんだ」
伯爵は懐から、この前と似た小瓶を取り出した。
中の薄赤い液体が、窓から差し込む夕日をキラキラと乱す。
「一晩で切れるように処方したのに、この時間までよくもったね。君の場合は、通常の物に少し媚薬を混ぜた。大人になりたがっていたからね、甘く苦い夢を見せてあげたんだ。最高だっただろう」
「どう……して、どうしてぼくにそんな……!」
尋ねながらもポーリンはその小瓶に手を伸ばした。
だが伯爵はそれを高く掲げ、静かに頭を振る。
「君にひとつお願いがあるんだ。断って欲しくなかったので、不本意ながらこういう手段をとらせてもらった」
「ください! それをください、医師!」
ポーリンの手が伯爵の腕を掴む。
今はもう、頭上に輝く液体を求めるだけの生き物となり、言葉など耳元を通り過ぎるだけ。
「……行儀が悪いな。エサをもらえるのは主人の満足のいく働きをした時だけだ」
伯爵はとりすがるポーリンを冷ややかに見下ろし、その腹を蹴り飛ばした。
「げほっ! ……うっ、うう……」
床に叩きつけられ、這いつくばったまま、それでも手は液体を求めて宙を泳ぐ。
どうすればこの地獄の苦しみから逃れられるか、身体が知っているかのように。
「騒ぐな、そこで四つん這いになれ」
伯爵が低くそう言うと、ポーリンの身体はピクリと反応し、勝手に床に膝をついた。
「な……?」
愕然とする本人の心とは裏腹に、その両手も床を掴み、まさに主人の命令を待つ動物のようなポーズを取る。
ふるふると全身が、心がわななく。
すると伯爵の背中から、黒ずんだ体毛を持つ人獣が現れた。
『ククッ……可愛らしい羊だ。わかったか? 今のお前の身体は、オレ達の命令には逆らえないようになっている。中に宿る聖護獣も同じだ』
(これは……堕聖獣! 医師に宿っていたの……?)
『あの薬はもともとそういう性質の物。禁断症状が出れば、自我は崩壊し主人の命令を待つだけの生き物になる。症状を緩和するには、再び薬を飲む他はないし、飲まなければその先に待つのは中毒による狂い死にだ。どこにも逃げ場はない』
堕ちていく――。
心と身体が闇の深淵へ。
じっと動物になったまま、伯爵をみあげるポーリンの瞳から涙が止めどなく流れる。
堕ちた聖獣はスッと伯爵の中に戻ると、再びその身体を支配し、取ってつけたような笑みでポーリンの頬を撫でた。
「そんな顔をするな。お前は公爵に対する大事な駒だ。悪いようにはしない。……そうだ、オレに従えばお前にそのリトをやろう。幻なんかじゃない、本物のリトが手に入るんだ、悪い話じゃなかろう」
伯爵は懐からもう一つ、薬の小瓶を取り出した。それは先程の物よりもさらに毒々しい赤い液体。
「オレは悲願を叶えるために力をつけなければならない。帰ったら、リトにこちらの薬を飲ませろ。これは媚薬など入っていない、飲んだ者とその聖護獣がただオレに従うようになる薬だ。オレはアトラだけを喰らって、リトにはお前を愛するように命令してやる。この前は、はらわただけだったが随分と力が増した。アトラを喰らえば、公爵まで手を出さずとも……」
「はらわた……、まさかガセンズさん!? じゃあその薬はジオラルの……!」
伯爵が静かに頷いた。
身体の中が嵐に飲み込まれ、ちっぽけな心が押し流される。
残ったのは死の恐怖と、リトへの熱い想いだけ。
「これは、ジオラルの花を使って生成した薬にセルジオ=オニキスの血を混ぜた物だ。これを飲んだ者はその血に導かれ、魂までも血の持ち主に従う。セルジオの血、なくしては完成しない。つまりセルジオが死ねば新たな薬は出来なくなり、お前は中毒症状のまま死ぬ。お前が選ぶ道は一つしかない」
「……はい、伯爵」
ポーリンの呟きに、伯爵は満足そうな笑みを浮かべた。
そして、ポーリンに与える方の薬の蓋を開ける。
「今のお前が逆らえるはずもない……か。いい子だ。さあ、ご褒美をあげよう……」
伯爵は薬を口に含むと、ポーリンの顎に手をかけ口移しでそれを与えた。
唇から流れ込む冷たい雫。
砂漠のように渇いて荒れ狂っていたポーリンの心と身体が、嘘のように凪いでいった。




