ひたむきな若葉
身体中の血が逆流して、耳鳴りがする。
すまなかった、とユーリは言った。
あれは間違いだと。
花の香りに惑わされただけだと。
はっきり言い渡されるのが怖かったのに、確かめずにはいられなかった。
ユーリの幸せなんて言ったけど、本当にあたし、そんな事で怒ってた?
ただユーリが、他の女の人をあんな風に抱きしめるのが嫌だっただけじゃない?
たとえ愛はなくとも、少なくともそこに彼の意思はある。
でもあの時、あたしを抱きしめてくれた時の腕にはそれすらなかったんだ。
(馬鹿みたい、馬鹿みたい、馬鹿みたい……!)
リトは自室に飛び込むなり、その場に足元から崩れ落ちた。
指できつく瞼を押さえても、溢れる涙は止まらない。
胸を焦がす捻じれた想いがそのまま自分を取り込んで、どこか暗い異世界へ連れて行ってしまいそう。
「……兄様と何かあったの」
気がつくと、ドアの前にポーリンが立っていた。
心配そうに、けれど苛立ちの混じったような表情で床に座り込むリトを見下ろしている。
「リト、やっぱりおかしかったんだって言ったよね。花の香りに惑わされて、兄様が何か酷い事したの」
ポーリンがリトの前に膝をついてその肩を掴む。
「や……やだな、何もないよ。二人でガセンズさんが煙になって天に昇っていくのを見てただけ。ほら、ユーリってあたしを追い出そうとしてでしょ? でもその時は優しくて……傍にいてくれた。……それだけ」
そう答えても、まだポーリンは肩を掴んだまま、固い表情でリトを見据えていた。
「……もう! 本当だってば。ポーちゃんだってさっき子爵様のお屋敷で見たでしょ? ユーリはいつもああいう綺麗な人を相手にしてるのよ。あたしなんか、間違ったって……!」
堰を切ったようにまた涙が溢れ出す。
痛くて苦しい胸の奥。
その時、ふと思いついた事が口をついた。
「……あたし、村に戻った方がいいのかな」
涙で滲んだポーリンの顔が戸惑いに変わる。
「だってさ、こんなんじゃユーリの護衛なんか務まりそうにないし、いずれお嫁さんが来たらホントに邪魔しちゃいそうだし。それよりも村に戻って働いて……頑張ってお金貯めて、あの孤児院を再興させるの。そうだ、ガセンズさんの町も近いからマリさんの手助けもしてあげられるし。どうかな」
自分でも何を言っているのか、と思う。
最初からユーリはそれを勧めた。自分から離れ、辛くなる前に忘れてくれと。
(……ユーリはこうなる事を心配してくれてたんだ。わかってたんだね……)
「だったらぼくも一緒に行く」
ポーリンが真っ直ぐにこちらを見つめ、リトの泣き濡れた瞼を拭った。
思わぬ言葉に、今度はリトが戸惑う。
「なに、言ってるのポーリン……?」
「ぼくも孤児院で、リトと一緒に子供達の世話をする。ぼくが畑でみんなの食べる物を育てる。だからもう少しここで、ぼくが大きくなるのを待って。兄様の事は忘れて」
「ちょっと……、ちょっと待ってよ」
「ぼく急いで大人になるから。身体も大きくなって力も強くなって、リトを守れるように剣も練習する! きっとすぐだよ。だからもう少しだけ待って。ここにいて!」
頬を紅潮させて必死で叫ぶポーリンに、リトの肩の力が抜けた。
「……ありがと。優しいね、ポーちゃんは」
「そんな風に呼ばないで! ぼくはウォルフ=ポリレスカ=シオン。リトのペットじゃないんだよ!」
ポーリンの指が肩に食い込み、リトは思わず顔をしかめた。
その様子に、ハッと我に返ったようにポーリンが手を離す。
「ご、ごめんリト痛かった? ぼくはただ、リトが泣くのが嫌で、その……ごめん、大きな声出して……」
「ポーリン」
俯くポーリンに手を伸ばし、リトはその額に音を立ててキスをした。
「あたしこそごめんね、心配かけて。嘘よ、どこにも行かない。……それに今、思い出したよ」
額を押さえ、赤い顔でペタンと床に座り込むポーリン。
その頭を、そっと撫でてやる。
「ポーリンやトスカと同じように、あたしはユーリの光なんだった。ユーリが笑って過ごせるように、それだけの為に傍にいたい。好きな気持ちはどうしようもないけど、もう困らせたりしないように努力する」
「……ぼく本気だから」
笑顔を作るリトの手を振りほどいて、ポーリンは立ち上がった。
「今のぼくじゃ頼りにならないし、こんな風に子ども扱いされるのも仕方ないけど、これから本気で鍛えるから! 兄様より背も高くなって、強くなって……」
「うんうん、わかったよ頑張って。期待してるから。慰めてくれてありがと、ポーちゃん」
笑いながらうなずくリトに、ポーリンが口をへの字に結ぶ。
「もういいよ! ぼく部屋に戻る。おやすみ!」
乱暴にドアを鳴らし、ポーリンは部屋を出て行ってしまった。
それと同時に、リトの背中からアトラが姿を現した。
「なによ、今頃出てきて。あたしが泣いてた時は知らんぷりだったくせに」
『……出るに出られない状況になってた』
「はあ? なにそれ。だいたい、アトラ冷たいよ。百戦錬磨なんでしょ? こういう時どうすればいいか教えてくれてもいいのに」
『アホ。そんなもの教えてもらってどうこうするもんじゃない。それにしてもリト、お前は色恋沙汰にはセンスがなさすぎる。自分の気持ちに手一杯で駆け引きひとつできん。まあ、それはそれで味があっていいかも知れんが……、鈍感なのは始末におえん』
言いたいことを言って、アトラは深いため息と共にソファにドカッと座り込んだ。
「そんなに呆れないでよ……。それでもここに居たいから、ユーリの負担にならないように気をつけようって……」
『相手を思いやるようになったのは進歩だ。だが、あまりポーリンを刺激するな。あの子はまだ若葉。純粋な分だけ反動が心配だ』
「ポーちゃん? 何が心配なの」
不思議そうに首を傾げるリトの頭を片手で掴み、アトラが耳打ちしてくれたのは。
鈍感な宿り主には全くもって、予想だにしていなかった若葉の想いだった。




