惑わしの媚薬
四人はその屋敷の裏庭に直接降り立った。
今夜の訪問は当然、礼儀をわきまえた手順など省いている。
先客が居たなら少々面倒だが剣を抜き、嫉妬に逆上する演技くらいはしなければと思っていたが、幸運な事に彼女は部屋で一人、毛足の長い優雅なラグの上で爪の手入れをしているようだった。
外から様子を窺っているようにと言い、ろくな説明もないまま窓から部屋に入り込もうとするユリウスの袖口をトスカが掴む。
「ちょっと! 第三者に見ていて欲しいなんて、ユーリってそういう趣味があったの?」
「言わないでトスカさん。兄様にどんな趣味があろうとぼく達はそれを受け入れて……」
トスカの肩に乗ったヒッポのポーリンが、身体中真っ赤にしてうつむいた。
「バカを言ってないで警戒していろ二人とも。何が起こるかわからんのだぞ。ここがどこだか知っているだろう」
「知ってるけど、他にも同じ身分の家は沢山あるわ。ここに当たりをつけた理由は?」
「見ていればわかる。……それからリト」
ユリウスはトスカの隣で息を潜めているリトを見下ろした。
「お前も、よく見ていろ。そうすればわかる。……私の事も」
「ユーリの? それはどういう意……」
ユリウスはリトの言葉を断ち切るように、窓の中へ消えていく。
突然部屋のカーテンを跳ね上げて飛び込んできたユリウスに、子爵令嬢は短い悲鳴を上げた。
「ユ、ユリ……!?」
さらに声を上げようとする令嬢の口を、ユリウスは風よりも素早く唇で塞ぐ。
「お静かに……。このような無礼が見つかれば、たとえ私と言えどあなたのお父上に斬られても文句が言えません。いや、いっそそうなってもいい。嫉妬にかられ、あなたに心にもない別れを告げた愚かな私など……」
その時、ドアの向こうからノックの音と侍女らしき女の声が聞こえた。
「どうなさいましたお嬢様。今のお声は?」
「なんでもないわ! 今、入ったら許しません。それから、あの、今夜はもう休むから用はないわ。下がりなさい」
しばしの沈黙の後、おやすみなさいませとドアが言い、外の気配が消え失せる。
ユリウスは大げさにため息をつき、すでに自分の背中に腕を回している令嬢に微笑んで見せた。
「ありがとう、私を守ってくれて。あなたに何人の恋人がいようと、やはり忘れられません。あなたの全てと……その甘い香りが」
ユリウスの含みのある言い方に、窓の外で様子を窺っていたトスカとポーリンがやっと合点がいったように声を上げる。
「香り……! そうだよ香水だ。思い出したよぼく、ジオラルの花の効力。人を惑わせる香りが立つって言われて、よく手軽な媚薬として香水にも用いられたはずだ。あの女の人、ジオラルの花と同じ匂いがするんじゃないかな」
「それで、この子爵家が怪しいと。でもあの花、匂いなんかしなかったわ。どうしてユーリはあの子の使ってる香水がジオラルだと思ったのかしら」
「……昨夜は匂いがきついって言ってた……」
突然、リトが呟いた。けれどその目は部屋の中のユリウスと令嬢を見つめたまま。
ユリウスは令嬢を抱きしめながら彼女の髪や瞼、その他にもキスの雨を降らせ、耳元で甘いささやきを繰り返している。
「枯れちゃったから匂わなかったんだよ、きっと。昨夜咲いてたなら兄様はその時、香りを知ったんだね」
ポーリンの言葉に頷いたものの、リトは窓にかじりついたままだった。
部屋の中の令嬢とユリウスは、いつしかラグの上に折り重なっている。
「このトワレはどちらで手に入れられた? 悪い女性だと知ってもなお、私を惑わすこの香りは……」
そう囁いても、ユリウスは多少の違和感を感じていた。
(香りはかなり近い。だが、このまとわりつくような不快感はなんだ。昨夜は同じ香りでも、包み込むような優しい、そっと心をほどいてくれるようなものだった。なにより、あんな風に我を忘れて目の前の女を求める気には全くなれない)
「誤解ですわ。あの方が勝手に私を追い掛け回して。私はユリウス様だけをお慕いしております。このトワレは、私がユリウス様のお相手の候補に上がった時、お父様がお祝いにくださったの」
「そうか。やはり……」
ユリウスはおもむろに身体を起こすと、トスカ達の潜む窓とは別の窓にダガーを放った。
ガシャンと派手な音を立てて窓ガラスが割れる。
その時にはもう、トスカもリトも屋敷を回りこんでそちらの窓の下に駆けつけていた。
「ひえっ、ひっ、ひいいい……!」
飛び散った硝子の破片の中で、太った派手なガウン姿の男が腰を抜かして座り込んでいる。
その首筋にはトスカの剣とリトの短剣。
「アトラ! あんたも来て!」
ガオッと飛び出したアトラもその男の前に立ちはだかり、その燃える顔と身体で逃げ道を完全に塞いだ。
「……さて、娘の寝室を覗くなどあまりいい趣味とは言えませんね、ルーン子爵殿」
部屋の窓からユリウスが腕を組んで、ルーン子爵を見下ろす。
その後ろからガウンの胸元を掻き合わせながら、娘の子爵令嬢が目を剥いた。
「お父様! 何をなさっておいでですの。もうちょっとだったのに台無しだわ!」
冷ややかな周りの視線に、令嬢は慌てて両手で口を押さえた。
「……それともガセンズに逃げられた事で全て露見した思い、私を亡き者にする機会を窺っておられたとか?」
「な、何の事です。私は、侍女が娘のところにまた公爵殿が来てくださっているようだと報告に来たので心配になって……!」
ググッとトスカの剣がさらに子爵の喉元に押し付けられる。
「うう、やめ……て……!」
「質問を変えましょう。あなたは法を犯してどこかでジオラルの花を栽培していますね。それを材料に作った香水を娘に渡した。私を言いなりにするためか、それとも実験的にですか」
「ジオラル……? し、知らん。なんの事やら……」
「香水だけでなく、麻薬の生成にまで手を出しているなら、この場で斬り捨てる! そのくらいの権限は私にはある!」
ユリウスが腰の剣に手をかけると、子爵と娘は同時に金切り声を上げた。
『ちょっと待て公爵。こいつ、嘘を言ってはいないぞ』
アトラの言葉に、ユリウスの手が止まる。
『今、こいつからは怯えの匂いしかしない』
そう言うと、アトラは早々にリトの中へ消えてしまった。
「そうね、ユーリちょっと落ち着いてよ。ねえお嬢さん、あんたの使ってるトワレをちょっと見せて」
トスカに言われ、令嬢は弾かれたように化粧台に向かう。
「それから子爵様。あなた以前、北の町に堕聖獣討伐の特別隊として派遣された事があるかしら。その町にしばらく住んでいた? 自警の者に限らずあなたのように身分のある者も選ばれたはずなんだけど」
優しい口調とは裏腹に、トスカの剣はさらに首肉の間に食い込む。
子爵は声も絶え絶えにその問いに答えた。
「あ、あれは、腕の立つ者にしか打診はなかった……。私は剣も体術もからっきしで……確かに名誉な事だったし私も行きたかったが。誰と間違っているのか知らんが、私ではない。私はそんな所、行ってない。ずっとこの屋敷に住んでいる。調べてくれ!」
「あのっ! これです、このトワレ……」
令嬢が窓から赤い硝子の小瓶を差し出した。
それを一目見ただけでトスカが、あらと目を瞬かせる。
「ユーリ、本当にこれがジオラルの花と同じ香りなの。それに本物が持つ効力はあった?」
「同じ……というか、かなり近い。ただ本物のような効き目は皆無だ」
「でしょうねえ。子爵様、これをどこで?」
「これは、その、知り合いの女性が……」
この期に及んで、子爵は語尾を濁した。
「ユーリこれはね、最近、高級娼婦の間で流行ってるトワレよ。私も一つプレゼントされて持ってるわ。あまり好きなタイプじゃないから使った事はないけど」
「なに? では……」
ユリウスが窓枠を握って身を乗り出し、トスカは子爵から剣を下ろす。
「帰りましょう。この人は違うわ。完全に私達の勘違いよ」
くるりと踵を返し、トスカが歩き出す。
ユリウスも深くため息をついた後、窓を乗り越えてそれに従った。
「お、おい! どういう事だ、こんな事をして、勘違いでしたで済ませるおつもりか! いくら公爵といえどこのような……」
「大変な失礼を。お詫びに令嬢は諦めます」
振り向かずにユリウスが言うと、子爵が慌てて取り繕い始める。
「いや、そういう意味では。お詫びというなら、ぜひ娘を……」
「そうなればあなたは私の義理の父という事になる。私は人の上に立つ立場上、身内が財務官という立場を利用して、国の公金を横領しているとなればその事実を公表しなくてはなりません。他人なら管轄外なので、知った事ではありませんが」
ユリウスの捨て台詞に、子爵は蒼白となった。
「今夜の事はお互い、内密にしましょう。一言でも漏らせば、ルーン子爵家の血脈は途絶えるかもしれません。事故はどこにでも転がっていますからね」
ユリウスがトスカに追いつくと、その後ろからリトとポーリンもやってくる。
「ユーリったら、ちょっと脅かしすぎじゃない?」
「知るか。あてが外れて、私は機嫌が悪いんだ。……帰るぞジゼル」
ユリウスが呼んだ瞬間、ジゼルが風と共に現れ、その場の全員を包み込んだ。




