甘い花
二人が公爵家に戻ったのは次の日の午後。
あれから朝までヒースラッドの丘で眠ってしまい、慌しく帰路についたのだ。
「私はこのまま執務室に向かう。トスカをこちらに寄こしてくれ。お前は少し部屋で休むといい」
ユリウスはリトの顔を見ずにそう言い残し、そそくさと表屋敷に入った。
帰る途中もリトは何かを言いたげに何度も口を開きかけたが、それには気がつかないフリでやり過ごした。
そんなユリウスの態度に、きっと昨夜の事が夢だったように思えて淋しい想いをしているだろう。
だが、昨夜の事は現実。
その証拠に腕にも指先にも、まだリトの感触が残っている。
ユリウスは執務室に辿り着くなり、乱暴に閉めたドアにもたれかかり詰めていた息を吐き出した。
(一体、何をしてるんだ私は……。あの時、ガセンズの煙が目に入らなかったら、自分はリトに何をしていたのか)
例の花の甘い香りが身体中に広がった途端、重い鎧を脱ぎ捨てたように急に心が軽くなり、目の前のリトが欲しくなった。
あの真っ赤に染まる頬も、慌てた様子で腕の中でもがく様子も何もかもが愛しく思え、重なって早まる胸の鼓動にこの上ない喜びを感じた。
(どうかしている。許される事じゃない……)
今でも残るリトの感触と、最後の刹那に見せた瞳の艶に胸の芯が疼いてしまう。
(この痛みを決して知られてはいけない。あいつには自分の宿命の一端ですら背負わせたくない。あいつが、笑って生きていく為に……)
ノックもなくいきなりドアが開き、トスカが入ってきた。
その後ろには当然のようにリトとポーリンの姿もある。
部屋で休めと言って、素直に従うとはユリウスも思っていなかったが。
「トスカ、見てほしいものがある」
「その前に。ユーリが留守の間の報告を先にさせて。とりあえずガセンズの事は、屋敷の者たちには緘口令を敷いたわ。この件はまだ内密に調査をした方がいい。あのガセンズが慎重に調査を進めていたって事は、敵はこの国の要人である可能性が高いから」
うなずくユリウスの向かいのソファに腰掛けて、トスカは報告を続ける。
「それとね。例のリトを襲った女、ガセンズの件と何か関係があるんじゃないかと思って取り調べたかったんだけど、まだ目を覚まさないの」
「なんだって?」
ユリウスが思わず身を乗り出す。
だが余裕の笑みを覗かせて、トスカはゆったりと長い足を組んだ。
「あの女、ゆすってもひっぱたいても全然起きないのよ。仕方がないから、身元だけでもと思って、絵の達者な者に顔のポートレートを描かせて町を当たってみたらすぐわかったわ。着ている物や肌の感じから夜の女だとは思ったけど、大当たり」
傍らでリトが、彼女の的確な判断と行動力に目を丸くしている。
確かに、トスカの本質を見抜く才の右に出るものはいない。
「名前はドリス。けっこう売れっ子の宿女らしいけど、最近様子がおかしかったみたい。沈み込んでたり、やけに楽しそうだったり。よく外出するようになって、好きな男でもできたんだろうって女将がこぼしてたわ」
それを聞いて、リトがアッと声を上げた。
「思い出した! あの人、あたしを差し出せば誰かの傍に居られるって喜んでた……」
「ちょっとリト、本当? それってかなり重要な情報だけど」
トスカに咎められ、リトは小さくなって泣きそうな顔をしている。
なぜかユリウスまで居たたまれなくなり、思わず口を出してしまった。
「つまりあの女は他の堕聖獣の為にリトを襲い、ガセンズも堕聖獣に腹を食われた。やはりその堕聖獣は同一の可能性が高い。となれば、やはりあの空き家に住んでいた奴が怪しいな」
「そうね。でも今は手の内にあるドリスから情報を引き出した方が早いわよ。ねえユーリ、眠り続けてるなんてどう考えてもおかしいわ。父様を呼んで調べてもらったら?」
「私もそう思っていた。あとで誰かを使いにやろう。だが手がかりはもう一つあるんだ。これを見てくれトスカ」
ユリウスは懐からあのハンカチを取り出してテーブルの上に広げた。
「これは……?」
さすがにあの花はもう、花弁が茶色く変色して萎れてしまっていた。香りも全くしない。
トスカは花に顔を寄せて、食い入るようにそれを見つめている。
その横から、今まで黙って話を聞いていたポーリンも身を乗り出した。
草花に関する事は気になるらしい。
「トスカなら花束を贈られる事も多いだろう。何の花か知らないか。これはガセンズが服のポケットに隠し持っていたんだ。おそらく争った時、傍に咲いていたのだと思う。こんな珍しい花が咲いている所となれば、場所を特定できるかもしれない」
「……確かに、こんなものを束にして贈られたら、さすがの私も一発で落ちるかもねぇ」
「知ってるのか?」
ユリウスは驚いて目を上げた。
「これ……もしかして、ジオラルの花じゃないかな」
明確な答えを出したのは意外にもポーリン。
同意を求めるようにポーリンがトスカを見上げると、彼女も厳しい表情で小さく頷く。
「ジオラルって、ポーちゃんがあたしの足に貼ってくれた薬草の? あれ、花なんか咲くんだ。中庭にあるのは葉っぱだけだよね」
リトが何気なく言った言葉に、ユリウスは血の気が引いた。
「そう……だ、これはジオラルの花。完全に忘れていた。どうりで見た事はないのに、何か引っかかると……、こんなものがどこかに咲いているのか!」
「それだけで大問題ね。早くその場所を見つけ出して何とかしなきゃ」
「ぼく、薬学の本に特例事項として載ってたのを覚えてるよ。でも、実物を見る機会があるなんて思わなかったな」
ただ事ではない三人の物言いに、リトが不安げに目を泳がせる。
「ねえ……なんなの? ジオラルの花って、何かいけないものなの。昨夜はすごく綺麗だったんだよ……?」
そう、昨夜はまだ美しく、香りが立っていた。
(そうか……私はその香りを思い切り吸い込んでしまった。だからあんな……!)
ユリウスの指先が小刻みに震えたのは、誰も気がつかない。
「私が説明するわ、リト。ジオラルはね、普通に育てたなら決して花はつけない植物なの。花を咲かせるには特殊な育て方をするらしいけど、現在、花は栽培禁止に指定されている。葉と茎は優れた薬効があるんだけど、花の方は……ちょっとやっかいなのよ」
「まさか毒があるの!?」
リトは青くなって自分の手のひらを見つめた。
無理もない、なにしろ昨日は知らずにさんざん触ったのだから。
「ああ、大丈夫よ。花のままなら害はないから。ただ、それを使うと面倒な薬品が生成できるの。俗に言う、麻薬、媚薬ね。昔、それが氾濫して国が大混乱に陥ったのをきっかけに、花の栽培だけが禁止されたの」
やっとリトにも事の仔細が飲み込めたようだった。
青くなって言葉が出ないリトに、ポーリンがさらに補足する。
「人体に害はないけど、確か花には何かの効力があった……なんだったかな。兄様、昨夜咲いてた時、何か気がつかなかった?」
ポーリンの問いにユリウスが顔色を変えた、その時だった。
ピィイーーーーーーッ……!
甲高い鳴き声と共に、窓から一羽の小鳥が入り込み、迷わずユリウスの肩に乗った。
「お前……カシムのツバメじゃないか。もう何かわかったのか?」
『チュウカンホウコク、チュウカン……』
「中間報告? あんたの主は随分とマメね」
リトが少し呆れたようにツバメに指を出す。
リトの事も覚えていたようで、ツバメはすぐにチョンとユリウスの肩から指に乗り換えた。
『空キ家二住ンデイタノハ子爵サマ。子爵サマト呼バレテイタ! 地元ノ隊員、ソレダケ覚エテイタ……、チュウカンホウコク……!』
「子爵の身分のある人? そうは言ってもこの都に子爵様ってどれくらいいるのかな。片っ端から締め上げたら大事になっちゃう?」
リトが冗談ともつかない事を言って、ユリウスを見上げる。
「思い出した……そうだ、おそらくあれが!」
ユリウスはそう呟き、しばらく考えを整理した後周囲を見渡した。
「トスカ、ポーリン、悪いが今夜出かけるから付き合ってくれ。いや……リト、お前も一緒に来るんだ」
カシムのツバメが、リトの指から飛び立つ。
護衛の三人は、突然の主の提案に互いの顔を見合わせた。




