甘い一夜
すっかり暗くなった夜空を、リトとユリウスはそれぞれの聖護獣に抱えられて飛んでいく。
だがすぐにアトラは下降を始め、リトにとっては馴染みのある丘に降り立った。
「え? ここ……ヒースラッド村じゃない! アトラ、どうして?」
『俺に聞くな。公爵がここへ案内しろと言ったんだ。俺だってよりによってジゼルと一緒にこの丘に立つことになろうとは……』
ぶつぶつと不平をこぼしながらアトラがリトを地面に降ろす。
後から丘に降り立ったジゼルもユリウスを開放し、辺りに目を細めた。
『まあ……ここが例の丘なの。アトラはここから山向こうを眺めてわたくしを……』
『ワーーッ! ジゼル、村を案内するから! いいだろう公爵、ジゼルを借りても』
「構わない。しばらくここで休むつもりだ。少し仮眠も取りたいんでな。ゆっくり案内してやってくれ」
アトラはジゼルをさらうようにして、瞬く間にどこかへ消えてしまった。
「ユーリ、休憩の為にわざわざここまで来たの? そりゃあ、アトラで飛べばすぐだけど」
「この村の事はあまり良く知らないからな。一度見ておきたかったんだ。それに小高い丘があるならルークの町も見えるだろうと……」
「町? うん、よく見えるよ。いつか行ってみたいなあって、あたしいつもここから見てたんだもん」
眼下には、見慣れたヒースラッドの村。
リトのいた孤児院は、もうおそらく人手に渡っている事だろう。
帰る場所のない故郷は、あいかわらず世間から隔絶された小さな箱庭のようにそこにあった。
その向こうに見えるルークの町。
いくつもの灯りが浮かび上がり、それ全体が大きなお城のようだといつも思っていた。
今はそれを遥か飛び越えて、都のシオン公爵家に自分の部屋がある。
たった数ヶ月の間に自分の人生は随分と様変わりしてしまった。
「さて、少し休もう。今日はいろいろありすぎた。まだ時間もあるようだし」
ユリウスは近くの太い低木の根元に腰を下ろした。
幹に背を預け、夜空を仰いだ顔にはさすがに疲労の色が見て取れる。
これから先は何がどう変わろうと、この人の傍に居る事だけは変わらないだろう。
たとえ気持ちは届かなくても、守る権利を与えてくれた、それだけでいい。
リトがユリウスをそっと盗み見ると、彼は懐からまたあの花を取り出していた。
「その花、不思議だね。切られて丸一日くらい経ってるはずなのにまだ色褪せてない。ううん、かえってさっきより綺麗みたい。月明かりのせいかな」
リトもユリウスの前に膝をついて、その花をよく観察してみる。
白い花びらの先がうっすらと青紫色に光って見え、めしべはつやつやと潤っている。
「確かに綺麗だ。だがやはりこんな花、見た事がない……と思うが。何かモヤモヤとするんだ。それにさっきは気付かなかったが、随分と香りがきついな。なんというか、木の実のような甘い……どこかで……」
ユリウスは花に顔を寄せて、利き香のような難しい顔をしてその香りを吸い込んだ。
「え、匂いなんかした? あたし今まで全然気がつかなかったけど」
ユリウスは花をじっと見つめたまま、身じろぎもせずにいる。
リトは小首を傾げ、膝を進めてユリウスを覗き込んだ。
「どうしたのユーリ、何か思い出した?」
「……ここは少し寒いな。リトは平気なのか」
顔を上げて、ユリウスが急に話題から逸れた事を言い出す。
「え? ああ、うん。あたし火の精霊の宿り主だから寒さには強いの。体温も人より少し高いんだ」
「……ふうん」
ユリウスは手にしていた花をハンカチにくるんで、また懐にしまった。
そして何を思ったのかゴソゴソとローブの前を開き、いきなりリトの腕を掴んだ。
「な、何? ……きゃっ!」
グイと腕を引かれ、リトはユリウスの胸元に倒れこんでしまった。
そこをすかさずローブでスッポリと包まれる。
「本当だ。まるで暖炉を抱いてるみたいだ。……温かい」
ユリウスは胸元にリトをきつく抱いて、満足そうに目を閉じた。
「あ、あのっ! ちょっと、こんな格好で落ち着かないでよ。いくら寒いからって……!」
「なんだ、騒がしいな。お前、私が好きだと言ったじゃないか。それなのに嫌なのか? その過剰な拒否反応はけっこう傷つくぞ」
「いやっ……! その、ええと、嫌とかじゃないんだけど……」
「だったらおとなしくしてろ。お前は護衛のくせに主に風邪を引かせたいのか」
「……!」
それを言われては、これも務め……のような気がしないでもない。
仕方なくリトは抵抗を諦め、暖炉になりきってユリウスの腕の中でじっと丸くなった。
(でもでも! 勝手に跳ね上がる心拍数だけはどうにもならないよ!)
耳元に触れるユリウスの頬は確かに冷たくて可哀相だけれど、何度も人の熱い耳に押し当てて温めるのは勘弁して欲しい。
このままでは心臓が壊れてしまう。
「……心臓が、早い」
囁かれたユリウスの言葉に、リトはギュッと目をつぶった。
(やっぱりバレてる! もお、やだ……)
ところが目を閉じてみると、今まで感じていた鼓動が二重に重なって聞こえてくる。
「すごいな……自分の心臓なのに全く制御できない。こんな事初めてだ」
思わず目を開けると、怖いくらい真剣な瞳とぶつかった。
金縛りにあったようにそこから目が離せない。
ユリウスは冷たい指先でリトの瞼に触れ、頬を伝って唇をなぞった。
「ユーリ……どうしたの。何か変だよ……?」
「……お前のせいだ」
抱えられた背中がさらに引き寄せられる。
二人きりの丘、彼の腕の中で重なり合う鼓動。
目の前で、熱を帯びたように潤んだ瞳が揺れる。
ユリウスの指先が唇に触れると、心も身体も甘く痺れて身動きが取れない。
何の抵抗もできないまま、ゆっくりと彼の瞳が視界を覆っていく。
……が、突然その瞳がリトの後ろに視線を移し、大きく見開かれた。
「ああ……、始まったようだ」
夢から覚めたように、慌ててリトはユリウスの視線を追って振り返った。
「あれ……もしかしてガセンズさんの?」
前方に浮かび上がる町の灯りの隙間から、白く細い煙が立ち昇っている。
時々揺らめきながら、それでも最後は夜空の一点に向かって、吸い込まれるように煙は天へと向かう。
「そうだ。自警隊員の亡骸は堕聖獣に狙われる。取り込まれて、奴らの力を拡大させてしまうのを防ぐ為に、葬儀の前に出来るだけ早く火葬するんだ。……ここから二人で、ガセンズを見送ってやろう」
「……うん」
それから二人は長い時間、ただ黙ってガセンズの煙を見つめていた。
後ろから抱きすくめられ、背中にユリウスの体温を感じながらいつしかリトは眠りに落ちる。
それは、温かくて切なくて、どこか不安な一夜の夢だった。




