笑顔のお守り
半日以上空を駆け、二人はその家の裏庭に降り立った。
明るい夕日が、石造りの家と庭に干された洗濯物を柔らかく照らしている。
アトラはそのオレンジ色の光の中へ、そっと棺を下ろした。
ユリウスがリトの肩を押さえ、ここに居ろと示すと勝手口から家の中へ入っていく。
しばらくすると、長いエプロンを着けた小柄な女性が裏庭へ飛び出してきた。
以前会ったときよりもお腹が大きくなっている。それがまだ結婚して一年にも満たない、その身に彼の子を宿したガセンズの最愛の妻だった。
「リトちゃん……?」
「ごめんなさいマリさん……、あたしなんにもできなかった。ガセンズさん、あたしに会いに来てくれたのに。試験に合格した事、あんなに喜んで、くれた……のに……」
それ以上何も言えず、棺の前で佇むリトをマリはそっと胸に抱いた。
「そう……合格したの。それで公爵様と一緒に。ありがとうリトちゃん、うちの人を連れてきてくれて。さあ、会わせてくれる?」
マリが棺に手をかけると、その手をそっと制しユリウスが蓋を開けた。
せめてもの慰めにリトとポーリンが敷き詰めた花の中で、ガセンズは静かに目を閉じている。
唇を震わせ、マリはしばらくただ黙って夫を見つめていた。
声もなく、パタパタと落ちる悲しみの雫が、愛する夫の組んだ手を濡らす。
「もう……、いくらなんでも早すぎじゃない? 本当になにもかも、せっかちな人なんだから……」
そう呟いて震える背中に、ユリウスが声をかけた。
「葬儀は自警隊の者達に手を貸してもらうといい。先にここの自警隊舎に寄って指示をしてきた。あなたも大事な身体だ。あまり無理はしないように」
「お気遣い、ありがとうございます……」
マリが静かに頭を下げる。
なおも身体を震わせ、しばらくそのまま棺の前に佇んでいた。
「……結婚などしなければ良かったのではないか?」
ユリウスの言葉に、マリはゆっくりと顔を上げる。
「ガセンズはこんな仕事で、ましてや隊を束ねる立場。誰より前に立って戦わねばならない者だった。遅かれ早かれ、こうなる事はわかっていただろう。それなのになぜ、先の儚い道を共に歩もうとした。愛していたのならなお、そうなった時余計に辛いだろう、今のように……」
「ユーリ……やめてよ、こんな時に。マリさんは……」
マリは、ユリウスの腕を掴むリトに向かって、小さく首を振った。
「公爵様、私はたとえこの人が次の日に命を落とすと知っていたとしても、やはりガセンズの妻になったと思います」
赤さを増す夕日の中を、小さな風がふと渡る。
風は、棺の中のガセンズの髪と花をも優しく撫でていった。
「たとえ短くとも、この人の傍に居たかった。傍に居て、一緒に笑って泣いて、時には喧嘩をして。そうやってこの人の時と自分の時を重ねて……この人の全てを独り占めしたかった。女は男の方と違って、誰かを好きになったら未来よりも今を選んでしまうものです。そして今、私が誰よりも悲しむのも、私が誰よりも愛された証。後悔など微塵もありません」
ユリウスの腕をきゅっと掴むリトの頬を、オレンジ色の雫が伝う。
「ガセンズは……あなたにそんな思いをさせる事に、迷いはなかったのだろうか」
「あったでしょう。なかなかプロポーズしてくれなくてイライラしましたから。でも……こういう事に関しては、どんなにジタバタしたところで、結局男性は女には勝てないものですよ」
マリは泣き濡れた顔でニッコリと笑ったが、ユリウスはその愛らしい笑顔からふと目を逸らした。
「……立ち入った事を言ってすまなかった。この先、何か困ったことがあったら自警を通じて私に連絡をくれ。どんな事にも応じよう」
「何から何まで……。そのようなお気遣いを頂くほど、この人はあなた様のお役に立てたのでしょうか?」
マリが傍のガセンズに目を落とす。
「もちろんだ。勇猛果敢、そして懐の大きい優秀な部下だった。ここの隊の者達にとっても頼りになる隊長だっただろう。必ず犯人を見つけ出し、仇はとる。だが、最期に私のところまで来てくれたというのに、何かを伝える暇もなく、犯人の手がかりらしき物も特に持っていなかった。それだけが心残りだ」
悔しそうに唇を噛むユリウスに、リトがハッと息を飲んだ。
「ねえユーリ。制服の胸ポケットは見た?」
「ん? ああ、もちろんだ。そこには何も……」
「ううん、違うの。ね、マリさん」
「ああ……、でもそこは……」
リトは棺を覗き込むと、ガセンズの胸ポケットに手を突っ込み、中の内布を引っ張り出した。
「これは……!」
内布はよく見ると二重に布が縫い付けてあり、底の方に口が開いていた。
「ほら、こうすると反対から小さな物が入れられるの。でも普通に手を入れてもわかんないように出来てるんだよ。あたしがこの家にお世話になった時、マリさんが作ってたんだよね」
「急に制服のどこかにお守りを入れる所が欲しいと言い出して。でも部下に知れると恥ずかしいから、なんとか分からないように工夫できないかと」
ユリウスとマリが見守る中、リトはその秘密のポケットをまさぐった。
「やっぱり何かある! 紙切れみたいな……」
そこまででリトの言葉は途切れた。
引き出した小さな厚手の紙に、マリが息を飲む。
「なるほどな。確かにガセンズにとって、これ以上のお守りはない」
リトの手のひらに乗った小さな写真の中で、白いヴェールを被ったマリが笑っていた。
少し頬を染め、眩しいくらいの笑顔でこちらを見ている。
「バカみたい……。こんなもの入れるのに、わざわざポケット、作らせ……うっ……、ああ……!」
「マリさんに返すね。ガセンズさんの大事な物」
最後まで憎まれ口を言えなかったマリの手を取り、リトはその写真をそっと乗せた。
「……あれ?」
写真の下に、小さな白い花びらが隠れていた。
それを見て、ユリウスがもう一度ポケットの中を探る。
「……! これは」
中からひとつ、同じ白い花びらをつけた花が出てきた。
乱暴に千切られたようで残された花びらは三分の二ほどになり、そこには小さく生々しい赤黒い染みがついている。
リトはマリを気遣って声をひそめた。
「ユーリ、これ血でしょ? じゃあガセンズさんが争った場所に咲いてた……?」
「間違いない。こんな物が複雑な作りのポケットに紛れ込むはずがない。これはガセンズがわざわざここに入れたんだ。だが何の花だ。リト、知っているか?」
リトがフルフルと首を振った時、玄関のほうから大勢のけたたましい声が聞こえた。
「奥さん! 自警の者です! 隊長は戻っていますか。お願いです、会わせてください!」
「バカヤロウ! 今、奥さんだって……、俺たちは後でいいんだ。奥さん! 俺たち、外にいますから、落ち着いたら、お手伝いさせてもら……くっ……!」
「おめえら、うるせえ! いいから周りの警護に当たれ!」
写真を胸に、苦笑いをするマリをユリウスがそっと抱きしめる。
「大事なあなたと一緒の場所に、ガセンズは手がかりを遺してくれたようだ。彼の思いを無駄にはしない。必ず……」
「どうかご無理はなさいませんように。公爵様にはもっとご自分の幸せを探して欲しいと……それも生前の主人の願いでした。どうか、それを忘れませんように」
ユリウスはマリから離れ、リトの方を振り返った。
「ガセンズの葬儀はおそらく明日の午前だ、参列してくるといい。私は例の空き家でガセンズが何を見つけたのかを調べに自警舎に行ってくる。明日の昼頃、迎えに来てやろう」
リトは小さく首を振り、ポケットから取り出したハンカチでユリウスが手にしていた花をそっと包む。
「ユーリと一緒に行く。あたしはユーリの護衛だから。たぶんその方がガセンズさんも喜んでくれるよ」
「……好きにしろ」
自分を見上げるリトの瞳に頷いて、ユリウスはハンカチごと花を懐にしまった。
マリに別れを告げ、二人はその石造りの家を後にする。
やがて、ガセンズを慕う者達で、あの庭は溢れかえることだろう。




