最期の伝言
パタン。
そのドアの閉まる音で、リトは目を覚ました。
まだ靄が掛かったような覚醒しない頭ではあったが、誰かがこの部屋から出て行ったらしい事だけは理解できる。
『……起きたのかリト。なら俺はお前の中に戻るぞ』
「……うん」
アトラが寝ぼけたままのリトの中へ吸い込まれていく。
ほとんど無意識に、リトは部屋を出て行った誰かを追ってふらふらと歩き出した。
庭に出ると、ひんやりとした湿った空気が漂い、明け始めた薄紫色の空が一日の始まりを告げている。
ナイトガウンの裾が、朝露を含んだ芝で濡れるのも構わずに庭を歩いていくと、闘技場で誰かが一心に剣を振るっているのが見えた。
(ユーリ……?)
ユリウスの姿を見て、一気に目が覚めた。
(しまった! 謝ろうと思って待ってたのに、あたし飲んだくれてあのまま寝ちゃった!)
やがてユリウスは佇んだままのリトに気付き、剣を下ろした。
「早起きだな。あの分じゃ、昼近くまで目を覚まさないかと思った」
そう言ったユリウスは意外にも穏やか。絶対、怒ってると思ってたのに。
「ユーリ……あの、どこで寝たの? あたしたちがお部屋を占領してたのに…」
「ちゃんと自分の部屋で寝たよ。ベッドだけは荒らされてなかったからな」
その皮肉に、リトは固まってしまう。
(やっぱり怒ってる! これじゃもう、ここに置いてくれなんて頼めないよ。どうしよう)
「とにかく今後一切、私の部屋で飲み食いはするな。それから、剣の相手をして欲しい時はお前も早く起きろ。私の剣の修練はいつもこれくらいの時間なんだ。いいな」
「……え? 今後って……」
思わずリトは走り出し、もつれながら闘技場に駆け上った。
「いいの? ねえ、それってここに居ていいって事だよね。あたしの事、追い出さないって事だよね!?」
「毎晩、私の部屋であんな抗議デモをされては困るからな」
ユリウスが大げさに肩をすくめると、リトはホッとしたのと、緊張の糸が切れたのとでその場に座り込んでしまった。
「はあ……よかった。一時はホントにどうしようかと」
「お前は暇だと何をしでかすか分からない。今日からは隊を回る時も連れて行く事にしたよ。数日中には、またガセンズも報告にくるだろう。その内容によっては調査にも連れて行って……」
その時だった。
大分明るくなってきた空から二人の耳に、ケーンと長く尾を引く鳥の声が届いた。
「なに……?」
ユリウスとリトが揃って空を仰ぎ見ると、遥か上空から大きな鳥がやって来る。
いや、落ちてくる――。
「あれは……」
「ガセンズさんのコンザードだわ!」
リトが叫んだ瞬間、二人の真上でコンザードの姿が弾けるように掻き消えた。
そして足場を失ったガセンズが、目の前の闘技場にドスンと落ちて転がる。
その腹を、何者かに食い破られた姿で――。
「ひっ……! ガセンズさん!!」
「ジゼル、行け!」
『はい、ユリウス』
みなまで言わずとも、ジゼルはユリウスの背中から飛び出すと一瞬で空高くまで舞い上がり、状況の確認に当たった。
「ガセンズさん、ガセンズさんっ! しっかりして! なんでこんな……いやあっ!」
取り乱してガセンズに手を伸ばすリトを、ユリウスが必死で抱きとめる。
「触るなリト、落ち着け! お前もアトラを呼べ」
「ア……アトラ……!」
リトが口を開くと、アトラも姿を現し足元を凝視した。
『これは……ガセンズ?』
「たのむアトラ。お前も、ガセンズを追ってきている者がいないか上を見てきてくれ。先にジゼルが行ってる」
『承知』
アトラがゴッと熱い気を起こし上空に跳ぶと、リトはユリウスの肩を忙しなく揺さぶった。
「ねえ……早くお医者様を! ユーリ早く! ガセンズさん死んじゃう! あんな……お腹、あんな……!」
石畳に横たわったガセンズの腹はバックリとえぐれ、落ちた衝撃もあって辺りには血が飛び散っていた。
ユリウスはリトの頭を掻き抱いて、その惨たらしい姿を映す視界を遮る。
「見るんじゃない。お前も分かっているはずだ。宿り主の命が絶えたとき、その聖護獣も消える。その瞬間を……お前も見たな?」
リトは目を見開いてユリウスを見上げた。
「おそらく、最期の力を振り絞ってここまで来たのだろう。私に何か伝える事があったのかもしれないが、間に合わなかったな。一応身体を調べるから、お前は部屋に戻っていなさい」
そこへ、上を調べに行ったアトラとジゼルが戻ってきた。
『公爵、空には誰も見当たらない。かなり遠くまで飛んでみたが怪しい者などどこにも』
『もしかしたら敵は飛べないのかもしれないわ。それでこの方も逃げてこられた……』
「そうか。とにかく遺体を調べる。手伝ってくれアトラ。ジゼルはオニキス伯爵の所に検死に来てくれるよう頼みに行ってくれ。この件はまだ公にしたくない。伯爵なら身内も同然だ」
遺体、検死――。
乾いた冷たい語句がリトの上を通り過ぎていく。
次々と冷静に指示を出すユリウスの横顔から目を逸らし、リトはその腕からすり抜けた。
「リト……?」
「起きてよ……ガセンズさん。冗談はやめて。死んじゃうなんて、そんな訳ないじゃない。だってガセンズさんは強いし……そうだ、まだ新婚さんだもん。マリさん置いて逝っちゃうなんて、そんな訳ない!」
リトがガセンズの亡骸に取りすがると、ユリウスがその手を掴み、容赦なく遺体から引き離す。
「やめろリト! なにか犯人の手ががりがあったら台無しになる!」
「ユーリはそんな事ばっかり! なんでそんなに冷静でいられるの? 冷たすぎるよ!」
リトの泣き濡れた瞳がユリウスを睨み付ける。
掴まれた手を振り払っても、ユリウスの静かな目はそのままだった。
「ユーリにとってはよくある部下の殉死かもしれないけど、あたしにとっては違う! 大好きだったのに……これからも一緒の時間を過ごしたかったのに。もう、会えないの? そんなの信じられるわけな……!」
突然、リトが身体を九の字に折って絶句した。
その腹にはアトラの手刀がめり込み、ズルズルと崩れるリトをそのまま腕で抱きとめる。
「……乱暴だな、アトラは」
『手っ取り早く黙らせるにはこれが一番だ。まあ、俺以外の奴がやったら許さないが。放っておいたら本当に手がかりが消されかねない。なに、こいつは鍛えてあるから大丈夫だ。……悪いな公爵、許してやってくれ』
アトラはリトを抱えたまま、真摯な態度でユリウスに頭を下げた。
「いや……いいんだ。リトを部屋へ頼む」
アトラが踵を返し、屋敷に向かう。
それと入れ替わりに、ジゼルが一人の紳士を背中に乗せて戻って来た。
「オニキス伯爵、すみません朝早く突然」
「そんな挨拶はいい。それよりもジゼルに聞いたが……おお、なんとむごい」
オニキス伯爵は無造作に束ねた黒髪を下げ、ガセンズに短い黙祷を捧げる。
そしてすぐに遺体の検分を始めた。
「ふうむ。公爵殿、これはどう見ても大きな獣に一噛み……ですな。やはり堕聖獣を宿す者の仕業だろう。即死でもおかしくないほどの状態だが、ここまでやってくるとは見上げた精神力だ」
その後ろでユリウスが口惜しそうに拳を握る。
「それなのに、私の目の前で彼の聖護獣は散り……何の言伝も受け取れなかった。所持品にも特に変わった物はありませんでした。手がかりゼロです。遺体の状況から何かわからないでしょうか」
長年公爵家の主治医を務め、トスカの養父でもあるオニキス伯爵は、ユリウスにとっても心許せる存在だった。
こうしてなんらかの助言を求めることも多い。
「他に外傷は無いし、剣を抜いた形跡も無い。争う以前に油断したところをやられたんじゃないかね」
「ガセンズが油断……?」
ユリウスは釈然としない顔で考え込んだ。
ガセンズは敵前で油断するほど、甘い男ではない。
そもそも犯罪がらみの件を調べていたのに、対峙した相手に警戒を怠るというのもおかしな話。現にその相手は堕聖獣を宿していたではないか。
「以前から狙われていたのかもしれないね。この制服からすると、彼は自警でも地位のある者だろう。堕聖獣にとって、力のある聖獣とその宿り主を取り込む事は己の力の増強を意味する。……嘆かわしい事だ」
オニキス伯爵は遠い目をして、そんな事を言った。
学者肌で温厚な彼も、以前は隊医として堕聖獣に襲われた人々を救ったものだ。
その言葉には重みがある。
「伯爵、ありがとうございました。こんな状況ですし、遺体も私の方で弔いたいのでお送りはできませんが……」
「いや、構わんよ。たいして役にも立たなくて申し訳なかったが失礼するとしよう。そろそろ妻が起きる時間なのでね。私が居ないと不安がる」
オニキス伯爵は白い手袋を外しながら立ち上がり、ユリウスにおっとりと微笑んだ。
「そうですね。本当に朝早くから申し訳ありませんでした。奥方には私が詫びていたとお伝えください」
「いや、お恥ずかしい。つい妻の事など口走ってしまった」
伯爵が鞄を手にすると、ユリウスも彼と連れ立って歩き始めた。
伯爵の屋敷はこの庭の裏口から続く丘の上にある。
「それにしても、奥方が床に伏したままになって、もうどのくらい経ちますか。伯爵自らがお世話をされて……頭が下がります」
「なに、もう十数年そうしてきたのだ。今更、誰かに任せるのも忍びない。それに私は、医者としてはとうの昔に引退したし、今している事と言えば農作肥料の研究くらいだ。のんびりとやっているよ」
裏口の前まで来ると、伯爵はここでいいと軽くユリウスの背中を叩いた。
「ではまた何かあったら連絡を。そうだ、トスカにたまには顔を見せに帰って来るようにと言ってくれないか。あのじゃじゃ馬娘、こんなに近くに住んでいるのに、親の事など忘れたと見える」
「すみません。私が忙しくさせているのでしょう。近いうちに伺わせますよ」
伯爵は笑って軽く手を上げると、足早に家路を辿り始めた。
病床の妻の為に急ぐ後姿を、ユリウスは心底羨ましい思いで見送った。




