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昼間の湿気を忘れてしまった夜の空気を切って、僕は陸山稲荷神社まで走った。乱れた息のまま石段を上るのは躊躇われて、鳥居の前でしばらく膝に手をついて息を整えた。
よし、行こう。
後ろから二つの足音が近付いてくるのが解る。
「おい、いきなりどうしたんだよ」
「ちょ、運動部じゃない人間の事も考えなさいよ」
全く息を乱していない篠田と、体力ないのかへろへろな花園さんが走ってくるのが見えた。
「ちょっと解った事があって」
返事を待たずに足を踏み出し、一の鳥居を潜る。あの日みたいな事は無くて、何の抵抗も無く潜る事が出来た。
境内はホクトと二人で来たときの様に静まり返っていた。何者かがここを乗っ取っているなんて信じられない静けさだ。
声も出さず、息すらも殺す勢いで静けさを守り、石段を登って行く。住宅街の中にある神社だ。いくらも登らないうちに、だだっ広い空間へと出てしまう。
暗闇に青白く石畳が延びて、その先には古色を帯びた本殿があった。
本殿に向かい合う格好になって、僕は深呼吸した。何回深呼吸しただろう、決心が固まると大きく息を吸い込んで、次はそれを声にした。
「葛葉さんっ!」
自分のものじゃ無いみたいな声が社叢にこだました。こだまはこだまを呼び、まるでずっとその声が響く様な気がした。
と、こだまを遮る声が聴こえた。
「伏見君」
しっとりとした声が耳元でしたかと思うと、すぐさま空気の流れに掻き消えて行く。声のした方を振り向くと、今度は違う方向から僕を呼ぶ声がした。
「伏見君、こっちよ」
振り向くと、青白く光る石畳の上に葛葉さんが現れる所だった。そう、「現れる所」だったのだ。空気中に散らばった「葛葉さんの塵」が、何かの力で一カ所に集められて行くみたいに、だんだんと葛葉さんが「葛葉さん」の形になっていく。
「おい……、あれ、なんなんだよ」
「……葛葉さん?」
僕の後ろの二人は驚いているみたいだけど、葛葉さんの正体に気付いた僕には、今更驚く事でもない。いわゆる生物学上の「ヒト」じゃ無いんだから、こんな事もあるんだろう。
「伏見君、驚かないのね」
「アメノヒの事も、ホクトの事も、もちろん君の事も覚えてるから」
「あら、それは嬉しいわね」
葛葉さんは妖艶に微笑んだ。月の光を受けて笑う彼女は、ぞっとするほど美しかった。




