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肩越しにちらりと後ろを振り向く。ホクトも全体重をかけるみたいにして「見えない壁」を押していた。
と、僕は、ホクトが苦しそうな顔をしているのに気がついた。
歯を食いしばって、顔をくしゃくしゃにゆがめながら、それでも全身で壁を壊そうとあがいている。
まるで、痛みに耐えてるみたいな姿だ。
ホクトは僕がみていた事に気付いたみたいだ。苦しそうな顔のまま、さっきと同じ様に「行け! 行け!」と人差し指を振り回す。そして、ちらりと苦しそうな顔をする。
今の僕にできるのは走る事だけみたいだ。なのに、さっきから一メートルも進んでいない。
本当なら、ホクトの声が聴こえたはずなのに。僕が走っているのはただの静かな夜の森だ。ホクトが何を思っているのか知った後でも、ホクトの声が聴こえ無いのは寂しかった。
足の裏がこすれて、痛みがやってくる。血も出てるんじゃないかな。いつまでたっても近付いてこない二の鳥居が、逆に遠ざかって行く様な感じさえする。
ふと、僕はまた後ろを振り向いた。
もうホクトは耐えられていなかった。涙を流して、何かを叫んでいた。
その叫び声が合図だったのかもしれない。
見る見るうちに、ホクトが狐に戻って行くのだ。
さっきまでは真っ黒な耳が狐の証だったのに、ホットパンツの裾から黒い尻尾が覗く様になり、今や、僕の握っている腕にまで、真っ黒な狐の毛が生え始めていた。
驚いたのと、悲しいので、僕の足は自然と止まってしまう。もう、走る必要が無くなった事を僕は悟った。
そんな間にも、どんどんホクトは狐に戻って行っていた。僕の握っていた手は、今やほっそりとしたあの指を持たない狐の手になってしまい、ホクトの高かった背はだんだんと縮んで、僕の腰までも無い高さになってしまう。
最後につま先まで黒い毛に覆われると、ホクトは一匹の狐になってしまった。ホクトと手を繋ぐ事も出来なくなってしまった僕の手は、ぶらん、と境内へ入り込んだ。まるで、何者かに乱暴に捨てられたみたいに、僕の手は僕の手じゃない様に大きく揺れた。
動物の表情をみた事が無い。例えば、犬が悲しげだとか、嬉しそうだとか、そう言うのは、声色とか尻尾とかで解る物だと思っていた。
でも、涙は流れなくても、今、目の前にいる真っ黒な狐は泣いているのだと僕は思った。




