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「で、お礼を言う暇もなく、その人はいなくなっちゃったんだ。でも、僕ももう少しで死ぬか大けがする所だったし、どうしてもお礼がしたいんだよねえ」
「それはさ、伏見。狐に化かされたんじゃないのか?」
あの事故の後、根掘り葉掘り警察に事情を聞かれ、やっとの事で学校へ出てきた僕に、こいつ、篠田巧一はそう言うのだった。
いや、一日の授業を終えて、気が抜けきっている時にこんな事言われると、ビビるよね。
警察の人には、「この車がこうやって突っ込んで来て、ここにぶつかったんだね?」とか、「怪我はしてないわけだね?」などと訊かれ、運転手の人には、「本当に申し訳ない。でも、君あのままだと確実に轢かれてたよね? どうやって逃げたの?」とか訊かれた。いや、運転手の人の失礼さは別にいいんだ。少し気になるけど。
問題は「狐耳の綺麗な女の子に助けられました」と僕が言えない所なんだよなあ。結局「いやあ、運転手さんの咄嗟の判断が良かったんですよお」みたいな言って切り抜けたんだけど、どうだったんだろう。僕は良く知らないけど、警察にはタイヤ痕を見続けて三十年とかのベテラン鑑識「タイヤ痕の謙さん」とかがいて、「いや、犯人はハンドルを切ってないぞ」とか言い出したりするんだろうか。良く知らないけど、めんどくさそうだ。
とにかく、狐耳の事なんか一言も話してないのに篠田にそう言われ、僕は少々驚きつつ、
「いやあ、そんなことは、ないんじゃ、ないのかなあ」
と、やっとの事で応えた。まずい、驚いてるのが丸わかり。自分の席に出来るだけゆっくり腰掛けて、平静を装う。
「そうかあ? でも、確かに女の子に助けてもらったんだろ?」
「うん」
「で、その女の子は、お前が気付いた時には、もういなかったと」
「うん」
僕の向かいに陣取り、意味ありげな間を取る篠田。椅子に深く腰掛けると、制服のブレザーの襟元を直し始めた。そんな篠田を見て、僕もツバをごくりと飲み込む。
「やっぱり、狐だろ」
「篠田お前、この科学の時代に、まだ妖怪なんて信じてるのか?」
「じゃあ、雪女だったのかもなあ」
聞いちゃいないぞ、こいつ。どうしても妖怪のせいにしたいらしい。僕は深い深い溜め息をつくと、篠田の顔を真顔で見つめてやった。
「馬鹿だなあ。雪女がこんな暖かくなってから出る訳ないだろ?」
「おい、ちょっとまて。狐はいなくて雪女はいる前提かよ」
しまった。間違えちゃったぞ、きゃるんっ。
バチコーンッ! とウインクすると、今度は篠田が大きなため息を吐いた。
「お前、本当は妖怪、信じてるんじゃないのか?」
「見た事ないものは、現実にいるかもしれないし、いないかもしれないからなあ」
まあ今朝の事で、僕の意見が「いる」の方に傾いているのは事実なんですがね。ただ、事件の話をしただけなのに、篠田が狐の事にばっかり食いついてくるのがどうも気になる。
「ところでさ、お前、何でそんなにここに食いついてくるんだ?」
「狐とか雪女とか、そう言う所にって事か?」
「うん。そう」
またもや、篠田は意味ありげに間を取った。いやいや、溜めなくても良いって。どうせ篠田の事だから……。
「だってさ、可愛かったんだろ? その女の子」
「まあ……。美しさの中に、可愛さがとけ込んでる……、みたいな?」
「ああ、もう! 羨ましい事この上ないなちくしょうッ!」
篠田は一息に捲し立てると、ぜいぜいと肩で息をした。ほらやっぱり。うっかり僕がこいつに、「可愛い女の子に助けられたみたいなんだよね」と言って話を持ちかけたばかりに、こいつは彼女に興味を持ってしまったのだ。まったく罪作りな男だぜ、僕は。あれ、全然違うか。




