プロローグ
あ、死んだ。
そう思った瞬間、短い人生の色々な場面が、まるでスライドショーの様に瞼の裏へ映し出された。赤ちゃんの頃、幼稚園の頃、小学校の頃、中学校の頃、そして、高校生になってから。
僕はなぜか、ああなるほど、死ぬ直前に走馬灯の様にうんぬんと言うのはこういう事か、と、妙に間抜けな事を考えていた。
とっさの事だから体が動かない。
“走馬灯”の向こうには、こっちへ迫り来る自動車の姿が、途切れ途切れに見える。車の鳴らすクラクションが、まるで夢の中で聞いた音みたいにぼうっと響く。脳みそだけが宇宙空間へ置き去りにされた様に、フワフワと浮かんでいるようだ。
あ、死んだ。
僕は再びそう思う。
自動車はさっきよりも確かに近付いており、クラクションの音も確かに大きくなっていた。
近くに立っている人の、恐怖に満ちあふれた瞳が見える。僕は敢えてその瞳から目を逸らすと、わざと虚空を見つめた。
僕の人生は、登校中、通学路のこの何の変哲もない四つ角で、信号待ちをしている最中に、終わるのだ。華々しさも、尊厳も、穏やかささえもない。
改めて考えると、物凄くつまらない事の様な気がする。が、今更そんな事を考えていても仕方ない。
僕は目を閉じた。固く、一条の光すらも通さぬ様に、瞼を落とす。
“走馬灯”は消え、瞼の内側はただの暗闇だった。
嫌だ。
死にたく無い。
怖い。
怖い。
助けてくれ。
そんな思いに蓋をするつもりだったのに、心の深い所から、低く怪しく呼びかけてくる。
ふと、耳元で、何かの囁く声が聞こえた。決して大きな声ではないのに、光が閉ざされた中で、その声は驚く程はっきりと耳に届いた。
「こんな所で、死んではいけません」
鈴振る様な声だ。
あどけなさの中に、悟った様な響きが混じっている。命令する口ぶりではないのに、逆らう事を許さない。柔らかい声音なのに、中には一本の芯が通っている。
不思議な声に、僕はゆっくりと目を開けた。
高く上がりきった五月の朝日を受けて、彼女は微笑んでいた。
金色の髪、白い頬、全てを貫き通す様な真っ赤な瞳。全てが陽の光を受けて、柔らかく輝いている。そのまま目線を下へ降ろすと、厚みのある布地の山吹色の豪奢な着物が目に入った。金糸の様な髪の毛に合わせて誂えたかの様に、着ている彼女と調和している。
そして、耳だ。普通の人間なら何もない頭のてっぺんに、ピンと立った狐の耳が二つ付いていた。髪と同じ金色をし、太陽の光に照らされると、柔らかく光を返した。
優しい光に包まれながら、僕は彼女に抱きかかえられていた。彼女の身長は僕よりもいくらか低いだろうに、全く大変そうな感じが見えない。それどころか、涼しげな顔さえしている。
君はだれ、と訊こうと思った。けれど、思った様に口は動かず、ただ呆けた様に、彼女の微笑みを見ている事しか出来なかった。
僕達を取り囲む明るさの中で、彼女の姿は夢の中で見たかの様にはっきりせず、夢のものの様に、美しかった。
宝石の様な赤い目が、僕の瞳を覗き込む。なぜかその瞳から目が逸らせない。
彼女はそのまま、何も言わずに僕を少し離れた地面に降ろすと、くるりと僕に背を向けた。何も言わず、ここではないどこかへと、立ち去って行く。せめて、君が誰かだけでも知りたい。お礼を言いたい。なのに、喉だけ金縛りにあったみたいに、全く声が出なかった。
光が君をかき消して行く……。
めちゃくちゃな金属音で、僕は我に帰った。
大きな音が止み、続いて水を打った様な静けさが訪れる。誰もが息を止め、何もかもが動く事を止めた様な、重苦しい静寂だ。
僕は尻餅をついていた。振り返ると、僕のすぐ後ろでは、車が建物に頭から突っ込んでいた。建物には大穴が開いて中が丸見えになっている。どうやら僕の脇を通り抜けて建物へと突っ込んだようだ。
危ない所で、僕は助かったのだ。
「君! 大丈夫かい!?」
「誰か! 警察呼べ! 警察!」
辺りの人達が騒ぎ始めて、静寂は綺麗にぬぐい去られた。
同時に、自分が死ぬかもしれなかった、と言う事実に、えも言われぬ恐怖が蘇ってくる。心臓が拍動を増し、首から、手のひらから、嫌な汗が吹き出てくる。
「君、怪我はないかい?」
「あ、はあ。大丈夫、です」
彼女はきっと、僕を助けてくれたんだろう。それは解る。僕を取って食おうとしていたわけじゃないだろう。
でも、今この四つ角に、彼女の姿はなかった。たった数秒の間に、どこへ消えてしまったと言うんだろう。
情けなく尻餅をついたまま、僕は彼女の姿を探し続けた。
けれど、空気に解けてしまったかの様に、髪の毛の一本すらも見つける事は出来なかった。




