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「私もここを譲るわけにはいかないの。たかだか十年とちょっと前に生まれたあなたなんかに、そんな事情が解るわけないわよね」
花園さんの見た目でそんな事言うんだから不思議な感じだ。多分犬神も狐と同じくらい長生きなんだろう。
「葛葉さんの事情なんて関係ない。アメノヒ達の家だった所を奪っておいて、事情も何も無いだろ」
「あるわ」
埒が明かない。力押しに解決する事が出来ない以上、話し合いで解決するしかないと思っていた。けれどここまで話が通らないのにどうやって話し合いで解決するのだ。僕にはさっぱり解らなかった。
ただ、下手に出るのはダメだと、直感が教えてくれた。こいつに下手に出るのは、こいつの思いを正当化する事だし、同時にアメノヒの願いが当たり前な事である事を見失ってしまう事と同じだからだ。
「ここは君が居て良い所じゃないじゃないか」
だから、いつか、僕の言葉に葛葉さんがキレるときが来ると思っていた。
それがこの言葉だったなんて。
「消え去れ小僧」
目の前を黒い影が通り過ぎ、気付けば僕の体は宙を舞っていた。地面に叩き付けられ、一瞬遅れてみぞおちに痛みを感じる。
僕の体はゴミみたいに地面に投げ出されていた。
「お前は……、お前は……」
葛葉さんの顔を見た。
目尻に涙が輝いている。
葛葉さんはそれをぐいっとぬぐい去ると、僕に、夜空に向かって吠えた。
「何も解ってないっ!!」
あの日、僕が神社で聞いた声と、本当に良く似ていた。
と、体勢を立て直そうとした僕の所に、葛葉さんは一瞬で間をつめると、僕の腹へ拳をめり込ませた。
内蔵が口から飛び出そうな衝撃と、腸がそのまま腹を突き破って外に出て来そうな痛みが体を走る。
「解ってない! 解ってない! 解ってないんだ!」
頬、腹、みぞおち、背中。全くでたらめに僕の体に拳が突っ込んだ。反撃しようとしても、逃げようとしても、葛葉さんは信じられない力で僕を引きずって転ばせ、またのしかかった。
「おい! やめろよ!」
篠田が叫び、のしかかる葛葉さんの後ろから羽交い締めにしようとした。が、葛葉さんは振り向く動きで篠田を振り切ると、バランスを崩した篠田をそのまま、何の躊躇も無く殴った。と思った瞬間には逆の拳が篠田をおそい、いとも簡単に篠田の気を失わせてしまった。
花園さんは完全に体を葛葉さんに乗っ取られているのだ。それを見て、何故だか僕は冷静になって、そんな事を思った。
篠田に構っている好きに逃げ出そうとした僕を、葛葉さんは強引に捩じ伏せ、石畳の上に押さえつけた。仰向けの視界に、馬乗りになった葛葉さんと、湿気のせいか、全く澄んでいない、ブラックホールみたいな夜空が見える。
「お前は解ってない! 私のこの気持ちも! 年つきの長さも! 重さも!」
口の中に血がにじむ。葛葉さんは二度、三度、と僕の頬を殴った。何発かみぞおちにも入った。僕は必死で葛葉さんの拳を防ごうとした。馬乗りになっている葛葉さんの下から逃れようともした。
でも、その度に信じられない力で押さえつけられ、殴られた。
「痛っ! うっ!」
「お前は! 私からこの神社を! 奪おうと言うのか! クソっ! 死ね! 死ね! 消えてしまえ!」
そして、葛葉さんははあはあと肩で息をした。その間に、少し我に帰ったみたいだった。
「ダメだ、人間の体は。弱すぎる」