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闇へおいで

闇ヘ オイデ

作者: 方舟

 ――一面白い、真白い雪。

 鳴り響く教会の鐘の音さえも凍りつく雪の中。


 もう何日食事をしていないだろう。それよりも袖の破れたシャツ一枚で、靴もはかずに冬の街をさまよった少女の小さな体は、雪に溶け消えそうなほど白く白く冷え切っていた。


 街に蔓延した流行病は瞬く間に家族の命を刈り取っていった。最初に逝ったのは父。働き手を失い、必死で子供を養おうとした母も過労がたたって同じ病にかかった。

 年頃の姉は一足先に繁華街のある店へ働きに出たという。泣きながらその店から受け取った金を抱きしめ笑う母に、もう二度と姉とは会えないのだと直感した。


 そして、今度はその母も。


 お医者様に薬をもらってくると言って家を飛び出したけれど、お金など持っているわけもない。そのうえ町中に広まったこの病に、今町医者は頭を痛めているという。


 薬など、もらえるわけがないのは明らかだった。


 母はこのまま父のもとへ逝くのだろう。幼い頭でもそれくらいのことは何となくわかった。教会の影を見上げて、寒さにかじかんだ指を伸ばす。


 一度母はこの教会へ少女を預けにきた。ほんの少しの間で良いから、ここで養ってはもらえないかと。しかし神父はにべもなく二人を追い返した。父の命を奪った病は医者にも治療法のわからない恐ろしい病気。そんなものを身内から発症した少女を、この教会におけるわけがないと。


 父と母はちゃんと天国へいけるだろうか。流行病にかかったことで、この教会から少女が拒絶されたように、神に拒絶されたりはしないだろうか。お金がないからと言って、いじめられたりはしないだろうか。


 雪に足を取られて転倒する。立ち上がろうとしたけれど、かじかんだ手足はうまく動くことはなく、この寒さで体温と体力を奪われた小さな体は、もはや歩くこともかなわないほど衰弱しきっていた。


 父や母と同じ場所へ行くのだろうか。いけるのだろうか。


 朦朧とした意識の中でふとそんなことを思う。目の前にある教会の神父は、冷たくなった少女を見て、ちゃんと神様のもとへいけるようにと祈ってくれるだろうか。


「神様……」


 か細い声と一緒に手を伸ばす。自分の手がこんなに重いものだと思ったことは一度もなかった。降り積もる雪の中で見失いそうな白い自分の手。細い細い手。


 その手が力を失って落ちる直前、大きな掌が掬いあげた。


 雪に凍えた手にもはっきりと冷たいとわかる、氷のような手。視線だけあげて、少女は手の主を見上げた。


 黒い髪を後ろで束ねた男が、白い顔を自分に向けている。男は少女の手を握ったまま、あいた手で少女の体に積る雪を払い落しながら、その深紅の瞳を細めた。


「月に誘われて来てみれば、子供の死に目に会おうとは。その上哀れな、病魔にとり憑かれておる」


 深い声に体が震え、深紅の瞳に魅入られる。

 昔語りに、母から聞いた覚えがある。夜にしか現れぬ、人の血を吸って生きる闇の魔物。


「この場で看取るはたやすいが……子よ、よいのか? このようなところで果てたのでは、神のみもとへ送ってなどもらえぬぞ?」


 その言葉に、少女の目から涙が溢れた。もう泣く力さえ残っていないはずだというのに、魔物の言葉が少女の胸を深くえぐる。


 きっと父も母も神のもとへなど行かせてもらえなかったのだ。病にかかったせいで、お金がなかったせいで。

 ぽろぽろと涙をこぼす少女のほほを、魔物の指が静かに拭った。


「ああ、泣くでない。そのように泣いたのでは、せっかくのかわいらしい顔が台無しではないか」


 不思議と、そう言ってほほを拭う魔物の指は温かく感じられた。先ほどから握りられた手も、なぜだかほんのり暖かい。

 無意識に握り返した手の感触に気がついたのか、魔物はふと笑みを深くして問いかけた。


「私と来るか? 私ならば、その病を覆してなお余る屈強な身体を、そなたに与えることができよう。――代わりにもう二度と、神の守る太陽のもとへは出て行けぬが……いや」


 魔物は、途中で口を閉ざしてかぶりを振る。それから倒れたままの少女を抱き起し、その耳元に小さな声で囁きかけてきた。


「言い方を変えねばならぬ。私はいささか、一人でこの夜を過ごすのに厭いているのだ。……共に来てはもらえぬか」


 魔物を見上げれば、深紅の瞳はひどく寂しげな色を湛えていた。魔物というにはさびしすぎ、男というには深すぎる瞳の色に、幼いながらも少女は言い知れぬ悲しみを見た気がした。


 父も母も神のもとへは行けなかったのだろう。そしてきっと少女も。もう二度と太陽のもとへ出られないとしても、神を裏切って背徳を重ねる身になったとしても……きっと少女は後悔しない。今まで神の恩寵をこうむったことなど、一度たりとてないのだから。


 こくりと小さくうなずいた少女に、魔物は一度驚いたように目を瞠り、それから優しく微笑んで静かに少女を抱きすくめた。


「……有り難う、優しい子だ。――名前は?」


 自分を抱きしめるのは体温のない魔物だというのに、ひどく暖かい気がするのは、かすかに香るコロンのせいなのか。かの魔物が身につけた仕立ての良い服のおかげなのか、それとも。

 不思議に思いながら、少女は口を開いた。


「……レーナ」

「――よい名だ」


 魔物の囁いた声が少女の……レーナの首筋に当たる。これから始まる行為を予見させて、レーナは小さく体をこわばらせた。


「大丈夫。痛みは最初の一度だけ。次に目を開いた時、そなたは私とともにある……。さあ――」


 ――闇ニ、オイデ。


 魔物の発した首筋に当たる冷たい声が少しくぐもって。


「あ――」


 ――その時、何を感じたのかはもはや覚えていない。ただすがるものを求めて魔物の背に手をまわし、レーナの記憶は、そこで途切れた。







 暗闇の中で目が覚めて、レーナはあおむけになって胸の上で組んでいた指をほどくと、視界をさえぎる目の前の厚い壁に手をあてた。


 かたりとそれを外し起き上ってみれば、いつも見慣れた棺桶の中。時計は夜の9時半を指していた。どうやら柄にもなく、夢を見てしまったらしい。


 ひとつため息をついた後、枕元に置いておいた服を身につける。かわいらしいセーラー服とスカートで、たしか私立小学校の女生徒の服だと言っていたはずだ。どうしてそんなものを手に入れられたのかは知りたくもないが。


 その上から黒のマントをはおってふと傍らを見る。隣にあるレーナのものより一回り大きな棺桶は、レーナを今の種族へ……吸血鬼へ変えた血親が眠る棺桶だ。その蓋はすでに開いていた。


 しまった着替えを覗かれた。もし見てたら絶対にシバいて今の記憶を脳内から削除してやる、そう決意を固めた後、レーナはその棺桶を覗きこむ。そこにあんまり見たくないものを見て、ほほをひきつらせた。


 かわいらしい女の子……多分12歳とかその位をこえてないだろう女の子がやたら露出の高い服をあり得ないくらい着崩して上目づかいに見上げている絵が描かれた表紙の、薄い本を抱きしめて、やたら幸せそうな顔で寝ている男。


 黒い髪を後ろで束ねてナイトキャップをかぶり、満面の笑みを浮かべたまま夢の世界をさまよっているらしいその姿は、120年見ても決して嫌悪を感じなくなるものではない。すっかり見慣れた自分が情けないとは思うが。


 美しい顔は三日見れば飽きる。

 醜い顔は三日見れば慣れる。


 この場合はどちらに該当するのだろう? こうでなければそれなりの顔をしていると思うのは、身内であるレーナの色眼鏡なのだろうか? 身内であること自体が恥だと思うのは、この場合間違っているのだろうか?


 120年前、この男に身をゆだねてしまった自分をシバき倒してやりたくなりながら、レーナはそばにあった本を手に取った。こっちは明らかに18歳未満のよい子は絶対見ちゃいけませんよって感じのイラストが表紙の本だ。なるべくそれを見ないようにしながらくるくると丸め、大きく振り上げて体全体の勢いを乗せながら男の頭に向かって振り下ろす。


 ゴッ、という明らかに本で殴った音とは思えない音が聞こえてきたような気がしたが、気にしないでレーナは口を開いた。


「ルーベン=フォン=リヒター卿、夜ですわ」


「……レーナ、そなたもう少し優しく起こすことは出来ぬのか……『お兄ちゃん、もう夜よ。ほら起ギッ」


 セリフの途中でゆるりと起き上った血親の顔面めがけてもう一度本をたたきつけてから、静かにレーナは反論した。


「優しく起こしても起きて下さらないとこの長い付き合いで気がついたからこういう方法をとっているのではありませんの。それから誰が『お兄ちゃん』なんぞと呼ぶかこの馬鹿ロリコン血親が」


「……ぜめで口より先に手が出るのだげはなんどがでぎぬが……」


 顔面を押さえながらおびえた声でそう言い返した血親を無視してレーナはクロゼットから出した服をその頭にばさりと落とす。


「さ、とっとと着替えておしまいになって。その恰好ウザいったらありませんわ」


 言って背を向けると、よよよと泣き崩れる声が聞こえてきた。


「ああ、連れてきた当初は純真無垢でかわいらしかったものを。一体素直でかわいいレーナを何がこうまで変えてしまったというのガッ」


 振り返りざまに閉めようとしていた自分の棺桶のふたを振り回すと、ルーベン=フォン=リヒター卿と呼ばれたその男のこめかみに角がクリーンヒットした。


「あたしがここまで強くなれたのはねあんたのその性癖のおかげよどーもありがとうこのロリコン!!」


 敬語もすべて取っ払って叫ぶレーナの目の前で、ぐにゃりとルーベン卿の体が棺桶からはみ出て倒れ伏す。さすがにやりすぎたかと棺桶のふたを戻してレーナが伺えば、きっかりその二秒後、ばねが元に戻るようにビヨン、とルーベン卿は身を起こした。


 もう少し強く叩きつけるべきだったかと物騒なことを考えながらみていると、不意にパタパタと羽音がして、小さな蝙蝠がルーベン卿の差し出した腕にとまる。それに視線を向けていた卿が小さくうなずくと、また蝙蝠は飛び上がり、どこへともなく飛び去ってしまった。


「……今日は雪のようだな」


 静かに聞こえてきたその言葉に、夢の中の光景がよみがえる。あの日ルーベン卿がレーナを見つけていなければ、レーナはそのまま死んでいただろう。そのあと神のもとへいけたか、それともいけなかったかはわからない。けれど今こうして、レーナはルーベン卿と共にいる。あの日さびしげに囁いたこの男の声は本物だったと、今でもそう、確信しているから。


「そなたと出会った日も、雪の日だったな」

「……そうですわね」


 120年前、レーナの体は成長をやめた。それ以来この体は12歳のまま。それでもいいのだ。いまは後悔してない。


「同じ雪の日だというのに、昔のそなたが懐かしいぞよよよ……」


 しくしくと泣き始めたルーベン卿に、レーナは一度は手を離した棺桶のふたをもう一度持ち上げ、振り上げる。無言でスウィングするために大きく体をひねり、その勢いのままもう一度ルーベン卿のこめかみめがけて振り回した。


 しかし、ぱしっと軽い音をたてて蓋はルーベン卿の掌に止められる。120年生きてきたレーナ全力のスウィングを片手で軽々と受け止めた卿は、ふと微笑んだ。


「……あの日、そなたがうなずいてくれたこと、今でも感謝している」


 はっとして顔をそむけたレーナに、静かにふたを押し返して、ルーベン卿はそのままの口調で言葉をつづけた。


「願わくば、この日が永遠に続けばよいな」


「……それより、卿の性癖がまともになってくれることを神に祈るといたしますわ」


 やれやれ、神に祈るとは素直ではないとぼやいたのち、ルーベン卿はふと笑みを深くして言葉を継ぐ。


「ならば私も神に祈るとしようか。一日も早くレーナが私を『お兄ちゃん』と呼んでグッ」


 即座に持ったままだった棺桶のふたを振り回し、レーナは卿のこめかみをしたたかに打ちすえた。


「やっぱり死ね、全力で死ねこのロリコン馬鹿エロオヤジがぁぁぁっ!!」

「ちょ、ちょっとマテ、これ以上殴られたらホントに死ぬ、や、やめるのだレーナ、ふたを下せ―――!!」


 暴れながらレーナは思う。


 やっぱりあの日、この男の言葉にうなずいてしまったのはここ120年の中で最大の汚点なのだ……と。







「……そうだレーナ、着替えは周りで誰も見ていないことを確認してからするのだぞ? 見ていたのが私だったからよかったようなものの……」


「やっぱり覗いていやがったかこのロリコンエロ馬鹿吸血鬼がぁぁぁぁ!!!」

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