第九話
女は大きくため息をはく。
閉店後の無人となったお店では、そのため息も誰かの耳に入るわけでもない。
聞く者がいないまま、照明を落とした店内の壁へ染みこむように消えていった。
今日も売上はかんばしくない。
年々売上が下降線をたどっていることに女の気分も落ち込んでくる。
「次のアルバイト先、探した方が良いかなあ?」
ひとりつぶやく。
大学受験に失敗したあと、就職するでもなく、かといって浪人してまで大学に進学したいとも思わなかった。
とりあえず、で始めたCDレンタルショップのアルバイトであったが、気がついてみればもう八年も勤めている。
正直給料は安い。
だが実家暮らしの女にとってそれはたいして問題ではない。
おしゃれをしたりショッピングをしたり、独身の友人達とたまに旅行へ行ったりするなら、そこそこの給料で事足りる。
老夫婦が経営する小さなCDレンタルショップは女にとって居心地が良かった。
孫と同世代の女を老夫婦は可愛がってくれたし、歳をとって夜がつらくなった老夫婦に代わり、今では夜間のお店を閉店まで任せてもらうほどの信頼を得ている。
だが現実は厳しいものだ。
女がアルバイトを始めたころとは状況が大きく変わっている。
周辺ショップの大型店舗化や全国にチェーン展開する大手レンタルショップの出店攻勢により、女が働くお店の売上は下がる一方だ。
もはや個人経営の小さなお店が成り立つ時代ではなくなったのだ。
売上も客足も八年前の半分以下となった今、いつ潰れてもおかしくない。
女は最低限の明かりだけを残した店内で、もくもくと閉店作業を行う。
静寂につつまれた中、伝票整理と売上の集計を終えるとシャッターを下ろしてお店をあとにした。
すでに半分以上が閉店している商店街に寂しさを感じながら歩いていく。
深夜というにはまだ少し早い時間にもかかわらず、通行人はまばらだった。
これでは客足が思わしくないのは当然だ。
商店街の出口周辺にいたっては――夜間営業に向いていないお店が多いこともあって――ほとんどすべてのお店がシャッターを下ろしている。
よって人通りも皆無だ。遠くから聞こえる酔っ払いの声以外、周囲に響くのは規則正しい女の足音だけだった。
いくらいつも通る道とはいえ、若い女が夜にひとりで歩くような場所ではないだろう。
百メートルも歩けば大きな道路に出る。
そこまで行けばまだ人通りも多い。
そう考えて無意識に足を速めた女は、ふと妙な違和感に支配された。
気のせいだろうか、今――そう、今のこの瞬間――誰もいないと思っていた道端に誰かが立っていたような気がしたのだ。
後ろから歩いてくるでもなく、前からすれ違うでもなく、集団で酔って騒ぐでもなく。
ただ静かに道の隅でたたずんでいたような気が。
そんなことがあり得るだろうか。
酔っ払い以外が出歩くことも少ないこの時間帯。
シャッターの閉まった店舗の前でただ立っている人間などいるだろうか。
気のせいかもしれない。
視界の端にちょっとそれらしい影が映っただけだ。
もしかしたら等身大の人形を人影と勘違いしたのかもしれないし、最初からそこにはなにも無かったのかもしれない。
だが一度気になってしまうと、その不明瞭感は瞬く間にふくれあがってくる。
そしてそれが不安へと転換するのは一瞬だ。
不安を感じたまま歩み続ければ、その不安は大きくなるばかりだろう。
だから女は不安を払拭するために、恐る恐る後ろをふり向いた。
ただの勘違いだ。実際には何もなかったりするんだ、きっと。
そう自分に言い聞かせながらふり向いた瞬間、女ののどを何かが横一直線に切り裂く。
「ひぃ……!」
叫び声をあげることすらもできなかった。
大きく見開いた女の瞳に映ったのは、朱く染まったナイフらしきものを手に持つ若い男。
そしてその男が自分の胸めがけて凶器を振りおろす瞬間だった。
女の体がゆっくりとあおむけに倒れる。
若い男は女の体にまたがると、何度も何度も手を振りおろした。
「クズが! クズが! クズが!」
もはや微動だにしない女の体へ、しつように凶器を突き立てる。
冷たい地面を浸食するように血だまりが辺りへ広がっていった。
「クズが! クズが! クズが!」
それでも男は止まらない。
男以外に誰ひとりいない道の真ん中で、ただ商店街の防犯カメラだけがその一部始終を冷たく見つめている。
常人であれば目を背けずにはいられない光景が、延々とカメラの記録媒体に焼きつけられていった。
「また後手にまわったか」
紫紺の長衣をまとった男が冷たく言い放つ。
ともすれば感情の伴わないつぶやきにも聞こえるが、その中にかすかな苛立ちと怒りが込められていることを、長いつきあいの老女は知っていた。
「申し訳ありません」
横柄な物言いをする男と丁寧な言葉で応対する老女。
長幼有序をよしとするこの国では珍しい光景だった。
「責めているわけではない。思いのままに動けぬもどかしさが口をついたにすぎん」
「それは致し方ございませぬ。だからこそ我々が手足となって動いておるのですから」
手押し車に腰掛けた老女がしわがれた声で話す。
見かけは日本中どこに行っても出会うことができそうなありふれた姿である。
今も他人が遠目に見れば、野次馬を外から座って眺めているただの老婆と思うだろう。
まさかそのとなりに立っている細身の男と会話をしているなどと、誰も考えはしまい。
「進展は?」
「上からは三班体制で網を張っております。人物像の解析も完了しておりますので、捕縛特権を発動していただければ四時間以内には確保してごらんにいれましょう」
「特権の発動はない。本館の決定だ」
「では地道に下から攻めるしかありませぬな。一応被害者の遺族を装って複数の探偵に調査を依頼しております。有力な情報は自然な形でリークするよう手配しておりますが……、今のところこれといった情報はまだ」
「被害者の数もこれで五人目だ。人々の間で大きな話題になっていることもあって、確かにこの時代の治安維持機構も躍起になって捜査している。だがいくら追い詰めたところで時間を超えられれば、彼らにはどうしようもあるまい。確保できるまでいったいどれだけの犠牲者がでることか……」
男は瞑目して一呼吸置くと、ひとりごとのようにつぶやいた。
「本館からは我々の手で確保する必要なし、との指示が来ているが……」
「ご自身で片をつけたいのでございましょう?」
しわくちゃの顔をほころばせて老女が笑う。
「できうることならな。これは我々の不始末だ。この時代の人間に尻ぬぐいをさせるなど、本来であれば許されることではない」
「そういう融通の利かないところが、中央に睨まれる原因だと分かっておるでしょうに。不器用な方ですなあ」
老女は愛おしげに男へ視線を送る。
男は黙ったまま、視線を野次馬達の中心へ目を向けていた。
立ち入り禁止のテープが張られたそのエリアには、どす黒い染みが広がっている。
昨晩この場所でひとりの女性が殺された。
深夜の事件であったため目撃者も居らず、通りかかった酔っ払いの通報で救急車が到着した時には既に心肺停止の状態だったらしい。
「保全官や眺察官を動員いたしますか? なんでしたら調査士も」
老女の言葉を耳にし、男が初めて顔を横へ向ける。
「彼らに捜査権はない」
「もちろん捜査権はございませぬ。ですが揺らぎを観測できる人員が相当数増えますゆえ、下からも網を張ることができますぞ。揺らぎをそれなりの情報に偽装してこの時代の治安維持機構へ提供するだけでも、捜査の進展はかなり早まるはず」
「だめだ。自衛権もろくにない士官にそのような危険を負わせられない」
即座に男が否定する。
「そうおっしゃると思っておりましたよ。しかし情報収集うんぬんは別としても、彼ら自身が危険を回避するためにも最低限の情報は提供しておいた方が良いのではありませんかな?」
「……」
「状況を正確に把握した上で不自然な揺らぎを観測すれば、彼らもわざわざ危険に近付こうとはせぬでしょう。それをこちらに報告さえしてもらえれば、解析と情報のリークはこちらで出来ますし、彼らの身を守ることにもつながるのではありませんか?」
「……わかった。本時間から前後七百二十時間以内に配置された保全官、眺察官、および調査士全員に本件の情報開示を許可する。だが目的はあくまでも彼らの護身だ。そこは徹底しろ」
「はい。了解いたしました。結果的に情報が提供される場合は……、まあ、捨てるのももったいないですからなあ。有効に活用させてもらいましょう」
人の悪そうな笑顔を浮かべると、老女は声を出しながら重い腰を上げた。