第八話
どこまでも白く続いている終わりの見えない空間に男は立っている。
男以外なにも存在しないその場所に変化は訪れない。
一見して何の特徴も感じられないその光景は、まるで白一色で塗りつぶしたキャンバスのようだった。
「はい。動向はつかんでおります」
停止した世界の中で、唯一の存在である男の声が響く。
二日前に日月へ本館からの指示を伝えた男だった。
「――――――――――――――――」
男の目の前に鈍い輝きを放つパネルが現れると、その表面が不規則な信号のように点滅を繰り返す。
「直接手を下しても良いのなら、すぐにでも。ですがそれはまずいのでしょう?」
すらりとした体格の男は、目の前にあるパネルへ話しかける。
「――――――――――」
「もちろん心得ております。もう少しお時間をいただければ、ご期待に添えるかと」
「――――――――――――――――――――」
「はい。しかしそれでは複製体を捨てて逃げられるだけでは?」
「――――――――――――――――――――――――――――――」
パネルから送られる返事を受けて、男が歳不相応の乾いた笑みを浮かべる。
それまで無表情だった彼がはじめて見せた変化だった。
「これは失礼いたしました。」
そう謝罪すると、ゆるやかに腰をおる。
若々しい見た目とは裏腹にその動きは重々しい。
「――――――――――」
「ではこちらは彼らの動向に目を光らせておきます。尻尾の毛先程度でも見せてくれれば、早々にご退場いただくことになるでしょう」
「――――――――――」
話が一段落したところで、男が切れ長の目を細めて問いかけた。
「ところで、先日ご報告した私の部下の件ですが」
「――――――――――――――――――――」
「はい。むろん指示は伝えておりますが……、良いのですか?」
「――――――――――」
「記憶消去の猶予期間です。経験上、こういったケースの場合は長くても百二十時間程度だと記憶しております。まして今は彼らへの対応も必要なのですから、懸念事項は早めに片づけておいた方が良いのではないですか?」
それまで間を置かずに来ていた返答が、この時ばかりは少し遅れた。
「――――――――――――――――――――――――――――――」
「……なるほど。あまり深入りしない方が良い、と?」
「――――――――――」
「わかりました。今はそれで納得したということにしておきます」
「――――――――――」
「はい。以上で定期報告を終わります」
その言葉を最後に、パネルを覆っていた淡い光が消え去る。
男はそのままの位置で目を伏せ、しばらく立ち続けていた。
遠目に見る者が居れば、それは真っ白な世界にポツリと一点、紫紺のシミが残っているように見えただろう。
やがてそのシミは見る間に薄くなり、跡形もなく消えていく。
あとにはどこまでも続く空虚な光景が残っていた。
翌日、日月が動物園へ行きたいと言い出した。
正確には馬が見たいと言い出したのだが、ふと優樹は疑問に思う。
「馬って……、動物園にいたっけ?」
競馬場にいけば確実にいるだろうが、未成年の優樹たちが保護者もなしに入場するのは要らぬ騒動のもとだろうし、そもそも近場に競馬場がない。
動物園なら電車に乗って日帰りでいける距離にあることはあるが……、はたして馬はいるのだろうか?
「まあ、たぶんシマウマはいるだろうしな」
と、いきあたりばったりでやってきたのは、電車で一時間ほど離れた場所にある市営の動物園だった。
結論から言うと、優樹はひどく後悔した。
それはもう、数時間前の自分を恨むほどに。
馬を目当てに来たはずの日月は、見る動物すべてに目を輝かせ終始ハイテンションで優樹を引っ張り回した。
「ねえ、勇気! 見て見て! キリン! キリンだよ! 首ながーい!」
「あっち! あっちに象がいる! すごーい! おっきーい!」
「あ! カバだ、カバ! あくびしてるー!」
そのはしゃぎようは、優樹が若干引き気味になるほどだった。
動物園に来てテンションが上がるのは、……まあいいだろう。
動物好きにとってここは楽園に最も近い場所だろうから。
だが、その騒いでいる当人が優樹と同じ年頃に見える少女というのがいただけない。
はじめて動物園に来たわけでもないだろうに、ショートカットの超ハイテンションガールは周囲の視線を独り占めである。正直恥ずかしい。
他人のふりをしようと距離を置こうと試みるも、有無を言わさず優樹の手を取り引っ張っていくこの少女は優樹が逃げる隙を与えてくれなかった。
そういえば、と優樹は半分あきらめ顔で思い出す。
年下のいとこと動物園に来た時もこんな感じだったなあ、と。
でもあのいとこは確か当時五歳だったはずだ。
優樹のとなりで歓喜の声をあげている少女はいくらなんでも五歳には見えないだろう。
日月の見た目が五歳の幼女なら特に周囲の目を引くことはない。
だが残念なことに十四、五歳に見える女の子がやれライオンだ、やれタヌキだと満面の笑みでかけ回っているのだ。目立たないわけがない。
「ねえねえ、勇気。次はアライグマ! アライグマ!」
「だから引っぱるな! 服がのびるって! 走るな! 危ねえだろ!」
今日も日月は絶好調だった。
あちこちと引っ張り回された優樹が一息つけたのは、日が傾きはじめてからだ。
いったい今日一日でどれくらい走らされたのだろう。
体力には自信のある優樹だったが、さすがに昼ご飯をはさんで一日歩き詰め――しかも半分以上は走らされた――は疲れた。
だが当の日月は終始キラキラとした目で楽しそうに動物たちを眺めている。
完全に体力負けだ。
となりで無邪気に笑う少女のおかげで微妙に男の子としての自信をなくした優樹が、大人げもなく八つ当たりする。
「はあ……。子供じゃあるまいし、動物見て回るだけでよくそんなに楽しめるな」
「えー? 楽しいじゃない」
「ガキの頃はそりゃ楽しかったけどさ。この年になるとな。考えてみりゃ、こいつらだって本当は自然の森とか草原とか、そんなところで自由にかけ回りたいだろうに。人間の勝手でこんなせまい檻にとじこめられて一生ここから出られずに死んじまうんだぜ」
別に動物愛護を訴えるつもりはないが、ついつい水をさすようなことを言ってしまう。
「んー、そうかなあ……。確かにそういう考えもあるだろうけど、この子たちが不幸だなんて決めつけるのもどうかと思うよ?」
人さし指を自分の鼻にあてて、すこし思案した後に日月が言った。
「勇気の言う自然にいれば、もちろんもっと広いところをかけ回ったりできるだろうし、行きたいところに行けるだろうね。でも、自由って事は逆に言うと何の保護もないってことでしょ? 食べ物が見つからなくて飢え死にすることもあるだろうし、天敵に捕食されちゃうことだってあるんじゃない? 寿命がつきるまで生きのびるのってほとんど無理でしょ?」
「そりゃ……、そうかもしれないけど」
「でもここにいれば少なくとも食べるものに困ることはないし、病気になったら治療も受けられる。それに天敵に殺されることもない。たぶんここにいる子たちの半分以上は天寿をまっとうできるんじゃないかな? それにさ……」
日月が声のトーンを落として言う。
「ここで生まれた子たちは、自分が不幸だなんて考えもしないと思うよ。だって、生まれた時からこの檻の中が世界のすべてなんだから。最初から檻の中しか知らなければ……、外の広い世界を知らなければ、閉じこめられているって思うこともないんだし」
少しだけ寂しそうに日月がつぶやく。
「でも、一度きりで良いから……、この子たちにも外の広い世界で思う存分かけまわる楽しさを教えてあげられたら、良いんだけどね」
愛らしい姿をしたアライグマが日月の方を見る。
日月はそのアライグマをただじっと見つめていた。
やがてアライグマが檻の奥へと走り去ったあと、少女は再びいつもの笑顔を浮かべて優樹に顔を向ける。
「じゃ、次はフラミンゴね! フラミンゴ!」
「まだ見るのかよ……」
さきほどまでの暗い空気を吹きはらうように、日月の明るい声が響く。
「今日で全部見るの!」
「無理だろ、おい! 何種類いると思ってんだよ!」
「大丈夫! 残りぜんぶ走れば閉園時間には間にあうよ!」
「動物園はそんなアクティブな施設じゃねえ! って、引っぱるな! おい!」
マントヒヒ、カワウソ、チーター、ダチョウ、ひつじ、チンパンジーにムササビにバクにクマ……。
思い出すのも面倒になるほどの動物を見て回り、満足した日月と疲弊しきった優樹が動物園を後にしたのは、すっかり周囲が赤く染まってからだった。