第二十三話
あの日以降、優樹に日常が戻ってきた。
日月にも日月の父親という男にも二度と会うことはなかった。
今となっては夢でも見ていたような気分だが、リアルに刻みつけられたこの記憶が偽物だなどとはかけらほども考えられない。
記憶は残ったままだった。
消去に失敗したのか、それとも日月が意図的に消去を行わなかったのか。
前者はともかく後者は本人にでも問いたださなければわからない。
そしてその機会がないであろうことは、優樹にもわかっている。
今は記憶が失われていないことに安堵するだけだ。
結局のところ、あの二週間はなんだったのだろう。
妙な少女と出会い、親しくなり、事件に巻きこまれて、互いに惜しみつつも別れた。
自称『未来からきた女』だ。
思い出してみれば明確な証拠を見せてもらったわけでもない。
もしかしたら本当のところはただの電波女で、その仲間もろとも優樹は単に巻きこまれただけ、ただそれだけの話なのかもしれない。
もちろん、そんなわけがあるか、と自分自身すらごまかせないほどのこっけいな仮説であったが。
なにより学校のあちこちが破壊されていたのはまぎれもない事実なのだ。
それらは犯人が不明とされているが、警察ではいわゆる悪質な不良グループの仕業とみて捜査をしていた。
もっとも、捜査は難航しているようだ。深夜に大規模な破壊活動が行われたにもかかわらず、近隣の住民たち――とはいえ最も近いところで三百メートルは離れている――に聞きこみをしてもそれらしき集団を見た者がひとりもいないのだ。
それどころか皆が皆、物音すら気づかなかったと証言する始末である。
当事者と言っても良い宿直担当の教師だったが、こちらは結構大変だったようだ。
気がついたら血だまりの中に倒れていたらしい。あわてて自分で救急車を呼んだものの、救急隊員が調べてみるとどこにも傷は見当たらない。さらに搬送先の病院で検査するも、貧血気味だった以外はいたって健康体だったとか。
だが実際に現場には尋常ではない量の血が流れており、学校中に破壊の痕跡があった。ちょっとした……、いやかなりのミステリーということで、これに飛びついたのがワイドショー番組だ。
その結果、今や優樹が通う学舎は日本で一番有名になった渦中の学校となっている。
登下校の生徒を待ち構えてインタビューするレポーターが校門前に群がった。
夕方のニュースで、聞き慣れた自分の学校名が各局のアナウンサーによって読み上げられているのは優樹にとって何とも妙な気分だった。
あの晩、優樹は消えた日月を探してしばらく学校中を歩き回り、ほどなくあきらめて家路についた。
だがもし下手に目撃されていれば、今頃どうなっていたことか。考えるだけでもぞっとする。
けが人は出ていないが、もしかすれば校舎破壊の罪を背負わされることになっていたかもしれない。
宿直の教師も当時の記憶があいまいでハッキリとしないため、健康体にもかかわらずしばらくは入院生活を送ることになっていた。
優樹はすっかり暖かくなった日差しを浴びながら、並木通りを歩いて行く。
日ごとに心地よくなっていく風が、薄ピンク色に彩られた木々を優しくなでる。
季節は春。
誰ひとり疑いを抱くことなく、そう断言できる光景が目の前に広がっていた。
一年でこの季節だけその身を満開の桜色で着飾るソメイヨシノが、風にゆられるたびに花を散らしている。
枝を離れた花弁はその身をたゆたいながらゆっくりと降りてくる。
一度きりのチャンスを演じきるため、足場さえおぼつかない舞台上で力の限り観客を魅了し、ほんの刹那の出番を終えると去って行く。
そして息つく間もなく舞台には次の踊り子が降りてくるのだ。
素直に美しいと思った。
そしてこのすばらしい光景を日月に見せてあげたいとも。
あんなに桜が咲くのを楽しみにしていたのだ。
きっと優樹があきれるほどにはしゃいだことだろう。
あの丘に植えられた桜も明日にはおそらく満開になる。
その開花を一番待ち望んでいた少女にお披露目することもできずに。
ああ、そうか――。
優樹はようやくわかった気がした。
なぜ桜の花が人の心に強く訴えかけるのか。
どうして大人たちがあんなに桜の花を愛してやまないのか。
きっと桜を見ている人たちは、その花を通して見ているのだろう。これまでに出会った人たちを。
そして桜が散る度に思い出すのだろう。これまでに別れた人たちのことを。
歳を重ね、出会いと別れを繰り返す度に桜がまぶたと心に刻みつけられる。
だからこそ桜の季節を待ち焦がれるのだ。
新しい出会いに胸躍らせ、過ぎ去った時間に心つなぐため。
きっと優樹は桜を見る度に日月のことを想うだろう。
来年も、再来年も、その次の年も。
桜の花が咲く限り、優樹はあの日々を忘れない。
だからこそ、この光景を守り続けたいと思った。
日月は言った。過去を変えることは許されないと。
彼女には過去であるこの時代に干渉することができない。
優樹から日月へと続く途上の時間は彼女にとって動かせない決定事項だからだ。
でも日月はこうも言った。『ボクたちにできるのはこれからを変えることだけ』と。
そう、日月にとっては過去のことでも、優樹たちにとってはこれからのことだ。
だからこの時代を変える権利があるのはこの時代に生きる優樹たちだけ。
人ひとりにできることはたかがしれている。
優樹ひとりが気を張ったところで未来は変わらないかもしれない。
そうじゃない。
そうじゃないんだ。
優樹は自分を叱咤する。
地球環境とか、人類全体とか、そんなたいそうなことを考えているわけではないのだ。
優樹はただひとりのために守りたいと思った。
落ち着きがなくて、コロコロと表情の変わる、跳ね回る子犬のように元気な、それでいて妙に大人びた表情を時たま見せる、白い肌とちょっと赤みがかったショートカットのあの少女。
彼女が笑顔でいられるなら、自分にできることはなんでもやってやる。
他の誰かなんて知ったことか。
優樹の心に生まれたのは、どこまでも自分勝手で自己中心的で、そして純粋なエゴイズムだった。
だが優樹にとって日月の存在は既にエゴイズムの内側にあるのだ。
この瞬間、優樹は自分の進むべき道を模索しはじめた。
彼はもう子供ではない。
たくさんの人々が、桜色のカーテンの中を行き交っていた。
その最中、甲高い音を立ててどこからか空き缶が道を転がってくる。
中身がこぼれていないところを見ると、花見客か通行客が投げ捨てたのだろう。
これまでの優樹なら、ためらいながらもそのまま捨て置いて立ち去ったかもしれない。
だが今の優樹にはもはやそんな小さな保身は必要ない。
何のためらいもなく拾うと、近くのゴミ箱へ歩み寄って缶を放り投げた。
すぐ側でそれを見ていた若い男女ふたりが聞こえよがしに会話する。
「おお。優等生がいるぜ。優等生が」
「ちょっとー、そんな言い方したらかわいそうでしょー。アハハ」
「だって道端のゴミ拾ってゴミ箱に捨てるヤツとか初めて見たもん。オレ」
「やめなさいよー。本人は良い事してるつもりなんだからー」
一見、冷やかす男とそれをたしなめる女ともとれる。
だが実は女の方がよほど失礼な物言いであることを本人たちは気がついていない。
こんな時、きっと一ヶ月前の優樹であったら耳まで真っ赤に染めて、そそくさとその場から逃げ出していただろう。
だが今は違う。
自分が描く未来がある。
自分が進む道がある。
自分が信じる想いがある。
だから優樹の心は揺れない。
正しいとか、偉いとか、すごいとか、そんなお仕着せの価値基準に左右されなくなったから。
借り物の価値観を脱ぎ捨てて、自分で手に入れたそれが、優樹をこれから支えていくのだ。
だから――。
優樹は想う。
俺は日月のもとへきっとつなげてみせる。この未来を。
『それでこそ優樹だよ』
聞こえるはずもない声が届いたような気がした。
『さっすが優樹!』
もしあの少女が目の前にいたら、きっとそう言ったに違いないから。
そして相変わらず自分のことのように誇らしげな顔で、幼さの残る胸をせいいっぱい張って、次の瞬間には桜吹雪の舞う中を駆けだしていくのだろう。
優樹が守ると誓った無邪気な笑顔を見せながら。