第二十二話
淡い月明かりがステージの上に立つ演者を控えめに照らしている。
聞こえるのは山からの吹き下ろしが辺りの木々をゆらす音だけ。
風は少し強くなっているようだ。
優樹と日月は校舎の屋上で眼下に広がる町の灯りを眺めていた。
「覚えてる? 優樹とボクが出会ってから今日でちょうど十四日目」
「俺の……、記憶を消す期限。……だろ?」
正確にはあと一日の猶予がある。
だがこれだけの騒動になった以上、即時帰還は避けられないだろう。
だからこそ監督官も義務を果たせと指示したのだ。
それを察していた日月は優樹の言葉を訂正することなくただ黙って頷いた。
記憶を消す。
最初に言われた時、優樹は電波話だとばかり思っていた。
しかし今の優樹にはそれを笑い飛ばすことなどとてもできない。
「消されたら、日月のことはきれいさっぱり忘れちまうのか?」
記憶消去が本当のことなら、目の前の少女のことを忘れてしまうのだろうか。
この二週間の出来事も。
自分が抱いているこの感情も。
優樹にはそれが怖かった。
「静かだね……。時間が止まったみたい」
優樹の問いかけには答えず、日月が数少ない星々を見上げて言う。
「ボクね。ずっと文化調査士になって昔にくるのが夢だったんだ。暖かい太陽の光とか、冷たくて清々しい朝の空気とか、風に揺れる緑の木々とか……。複製体を介してだけど、でも直接触れることができるんだもん」
そう言って自分の手のひらを日月は見つめる。
「疑似体験はしてたから知識としては知っていたんだけどね。実際に触れたものは全然違った。人間以外の生き物が街中にあふれているとは思わなかったし、植物があんなに温かいものだとも知らなかった」
視線を眼下の町並みへ戻すと、少し悲しそうな笑顔を浮かべた。
「ボクたちの時代、みんながあこがれる理想の世界がここにある」
優樹が恐る恐るたずねる。
「日月は……、俺たちのことが憎くないのか?」
「全然。……ただ、うらやましいだけ」
全てはそこからなのだろう。
羨望を起点として、人々の価値観は枝分かれしていく。ある者は諦め、ある者は現状に満足し、ある者は嘆く。
日月の父親が取った行動もその行き着いたひとつの結論である。
「優樹たちがこの時代で生きていくしかないように、ボクたちは自分の生まれた時代で生きていく。それだけだよ」
日月の答えは受容。
そこにあるものをあるがままに受け入れることだった。
「ねたんでも、わめいても、ボクたちの生きる状況は変わらない。ボクたちにできるのはこれからを変えることだけ。これまでを変えることは………………、やっちゃダメなんだ」
長いためらいの後、声を震わせながらも自らに言い聞かせるように断言する。
日月は屋上に来てから決して合わせようとしなかった視線を優樹に向けた。
正面から向き合った優樹にとっては、否定してしまいたい現実。
それを日月は言の葉にのせる。
「だから、優樹の記憶もこのままにしておくわけにはいかない」
息苦しさから逃れるように、優樹がのどにつまった何かを呑みこんだ。
「もう、会えないってことか?」
「わからない。これだけの騒ぎを起こしちゃったもの。ボクの資格が剥奪されたとしてもおかしくはないよ。調査士として時間を超えることはもう許されないかもしれない」
軽く左右に首を振ると、日月はうつむきながら小さな声でつぶやいた。
自分でそう言った後、もう一度思い直す。
もともと競争率の高い調査士の仕事だ。席が空くのを待っている人間はいくらでもいる。
中には自分よりも優秀な成績を残した者もいたのかもしれない。
そう考えると、この仕事に就き続けることはひどく困難なことに思えてきた。
「ううん。たぶんこれがボクにとって人生最初で……、最後の旅になると思う」
「……」
残されたこの僅かな時間だけが、日月にとってかけがえのないものになるのだろう。
「だから優樹」
少しだけ語気を強くして日月が少年の目を見つめる。
「ありがとう」
心から。
「あの時ボクを見つけてくれてありがとう」
偶然と運命に。
「ボクのわがままにつきあってくれてありがとう」
お人好しな男の子に。
「一緒にいてくれてありがとう」
共に戦った戦友に。
「はげましてくれてありがとう」
本当は心優しい少年に。
「たくさんのきれいな世界をみせてくれてありがとう」
時代は違えど同じ世界へ生まれた仲間に。
「この時代の人たちは感謝を形にして相手に贈るらしいけど。立場上、ボクにはそれが許されないから。言葉でしか気持ちを表せないけど……」
たくさんのものをもらった。自分ひとりではたぶん見つけられなかったものを。
しかし自分は優樹に何も残すことができない。それどころか彼から大事なものを奪おうとしている。
「その言葉も優樹の記憶からもうすぐ消えてしまうけど、それでも……」
なにひとつ贈ることができない。どうしてだろう。
ルールだから?
時間の整合性を保つために?
失敗を帳消しにするために?
自分の失態が引き起こしたトラブル。
それが全ての原因。目の前の少年には何の落ち度もない。
それなのに自分の勝手で巻きこんだ。
あれだけ助けてもらい、支えてもらったのに、なにひとつ形にしてあげることは許されない。
そして今、優樹に残されている唯一のものを、記憶すらも奪おうとしている。
時間が残されているならば、何度でも感謝を捧げよう。
記憶が消えたとしても、優樹が意味を理解していなくても、そのたびに伝えよう。
たとえ打ち寄せる波にかき消されることが最初から決まっているとしても、砂浜に何度も何度も文字を刻み続けるように。
でもその時間も残されていない。
与えられた三十分という時間はもうすぐ尽き果てる。
砂時計を逆さにする権利も権限も今の日月にはないのだ。
だから消えるとわかっていても言わずにいられない。
消えると知っているからこそ、万感の思いをこめて言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
何度でも言うよ。
「礼……、なんて……」
優樹が望んでいるのはそんなことではない。
だがしかし、日月の真剣なまなざしと今にも泣き出しそうな顔を見れば、言葉をつまらせるしかなかった。
「そろそろ……、時間だから……」
「冗……」
冗談だと言ってくれ。
そう言おうとして、その言葉すらものみこまざるを得ない。
きっと日月の立場は優樹が考えているよりもずっと危ういのだろう。
このうえ優樹の記憶消去すら失敗ともなればどうなるのだろうか。
優樹は日月の立場がいまよりさらに危険になることを危惧した。
そして今の自分にできることを考える。
それはきっと駄々(だだ)をこねて日月を困らせることではないだろう。
「わかった……」
だから優樹は記憶消去を素直に受け入れた。
ふたりの視線が静かに交わる。
何もかもが貴重な時間だとわかっていた。
だから優樹は目をそらすことすら惜しく思う。
「見られてるとちょっとやりづらいから、目を閉じていてもらえるかな?」
少し照れたように苦笑を浮かべ、日月がそう言った。
優樹は日月の顔を両目に焼きつけると、素直にまぶたを閉じる。
目を閉じることで暗闇が訪れた。
そして優樹を包むのはいくつかの音だけとなった。
風で揺れる木々の音が先ほどよりも大きくなっている気がした。
そのざわめきの中、耳を傾けなければわからないほど小さな足音が近づいてくる。
足音は優樹の前までくると、そこで立ち止まり、それから動く気配がしなくなった。
「……日月?」
しばらくしても動きが感じられないことを訝しんだ優樹が声をかける。
「あ、うん……。ごめんね。かなりひどい音がするから、耳もふさいでおいてもらっていい?」
言われたままに両手でしっかりと耳をふさぐ優樹。
ほっとした様子の日月が話しかける。
「優樹、ボクの声聞こえてないよね? ちゃんと耳ふさ――」
「日月。まだいるよな?」
日月の言葉をさえぎって、優樹が問いかける。
「え? まだいるけ――」
「なんか頭の中ぐちゃぐちゃでよくわかんねえけど、一方的に言われるばっかりってのもしゃくだからさ」
再び日月の声をさえぎる。当然優樹には悪意はない。
耳をふさいで日月の声が聞こえていないため、会話自体が成り立たないからだ。
だからその声も必要以上に大きかった。
目の前にいる日月ではなく、遠ざかっていく誰かに呼びかけるように優樹は思いの丈を放っていた。
「どうせ記憶消されるんなら、その前に言いたいこと言わせてもらうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、日月の心臓が跳ねあがる。
考えて見れば優樹はさんざんな目にあったのだ。
今の日月にとって優樹は大切な人であったが、だからといって優樹にとっての自分がそうとは限らない。
無関係だったはずの優樹を巻きこんで、面倒をかけて、恩知らずにも記憶を消そうとしているのだ。
恨み言のひとつやふたつ言われてもおかしくない、そう思った。
聞きたくない。
優樹の口からそんな言葉は聞きたくない。
考えたくない。
優樹が自分を恨んでいるとは考えたくない。
欲しくない。
優樹から浴びせられる罵声なんて欲しくない。
でも――。
そうだよね。と日月は思う。
恨まれても当然のことをやったわけだし、記憶まで消されてしまう優樹には罵声を浴びせる権利くらいはある。
だから、少し悲しいけど、本当は逃げ出したいほど怖いけど、それを甘んじて受け止めるのが自分にできるせめてもの償いだろう。
泣きそうになる目を伏せ、耳をふさぎたくなる衝動を抑えて、日月は優樹の言葉を待った。
「もしかしたら日月は自分が迷惑かけたって思ってるかもしれないけど、俺は全然迷惑だなんて思ってないぞ。怖い思いもいっぱいしたけど、俺はここんとこずっと楽しかったよ。そりゃ最初はなんだこいつ? って思ったけどな。いろいろ教えられたこともあるし、知らなかったこともわかった。逆に俺の方が感謝してる。」
日月が大きく目を開く。
「聞いてるか? 日月?」
目の前にいる大切な、大切な少年の顔を見た。
少年は耳をふさいだまま、目を閉じたまま、相変わらずの大声で言葉を紡ぎ続ける。
「まあいいや、聞いてなくても勝手に言うぞ。未来うんぬんはよくわかんないし、地球のためとか世界のためとかそんなマンガじみたことは言わねえ。それに前もって言っておくけど、俺はただの中学生だから大したことはできないぞ。でもな、日月。もしこの先困ってワラにもすがりたいような気持ちの時は、遠慮なんかするな。俺のところに来い。どうせその時は日月のこと忘れてるんだろうけどさ、俺。でもそんなのは関係ないだろ? さんざん俺のこと引っ張り回して巻きこんじまってもかまわねえ。その時に今のことを何も覚えてない俺がどれだけ文句言っても気にするな。無視しておっけーだ。俺が許す。日月は俺にどれだけ迷惑かけてもいいんだぞ。いいか? 忘れるなよ? 俺が日月にできるのはこんな口約束だけだ。おまけに俺は約束したことも忘れちまうんだろう。でも約束は約束だ。俺の思い出からお前が消えてしまっても、それでもお前が俺を忘れない限り――、この約束は消えない。絶対にだ」
日月の瞳に差しこんだ淡い色の月光が揺れる。
それは瞬く間にあふれると、少女の白い頬を伝っていった。
童のように素直な感情を浮かべ、日月はおぼつかない足取りで踏みだす。
その細い指を目の前の少年にのばしかけて、思い留まった。
失いたくない。この優しさを。
手放したくない。あの温もりを。
離れたくない。この人のそばを。
別れたくない。大切なこの人と。
忘れられたくない。この出会いを。
激しい葛藤に日月の心が揺さぶられる。
二度と会うことはできないだろう。
手を繋ぎ暖かい日差しを浴びながら、ともに歩むこともできないだろう。
今の自分に選べるのは彼の記憶を残すか、――それとも消すか。
風が吹く。
山を越えてきた風が、町を駆けぬけ海へと去って行く。
停止した舞台の上では、たったふたりの演者が立ち尽くしていた。
さらにひときわ強い風が吹く。
風はあたりの木々をゆらし、木の葉が互いにこすれ合う音でそれまでの静寂がかき乱された。
日月の口元がかすかに動く。
目を閉じ、耳をふさいでいる少年へむけて、短い言葉を伝えようとする。
その言葉は果たして声に出して投げかけられたものなのだろうか。
風と木々の音に阻まれ、その言葉を知る者は少女本人以外にはいなかった。
もちろん耳をふさいだ優樹に届くわけもない。
日月はとめどなく流れる涙をぬぐいもせず、満足げに優しく微笑むとそのまま屋上から去って行った。
どれくらいの時間が流れたのだろう。
強く吹いていた風はおだやかになり、校舎の屋上には再び静寂が訪れていた。
視覚と聴覚をふさいだままの優樹は、一向に変化が訪れる様子がないことに戸惑っていた。
いつまでこうしていれば良いのかわからない。
そもそも目も耳もふさいでいるのだ。
肝心の記憶消去とやらが終わったかどうか、合図を受け取る術がない。
てっきり肩でもたたかれるのかと思っていたが、風がやんだ後は何もわからなくなった。
優樹は日月を想った。
忘れていない。まだ憶えている。
ということはまだ終わっていないのだろうか?
それにしても時間がたちすぎている。
さんざん迷った末に、優樹はひとまず耳をふさいでいた両手をゆっくりと下ろした。
静かだった。
風がやんで、木々のざわめきも聞こえない。
もちろん人の足音も。遠くからはかすかに踏切の警報音が聞こえるような気がした。
意を決してまぶたを開くと、優樹の眼には月光に照らされた屋上が映るだけだった。
優樹の記憶は――――消えていなかった。