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第二十話

「くそっ……、あのクズ! 許さねえ! 絶対殺してやる!」


 蛇口から流れ出る水道水を頭からかぶり、髪から水をしたたらせた男は目を血走らせながら吐き捨てる。


「殺してやる! 切り刻んでやる! 絶対だ!」


 男は優樹から不意打ちを食らい、顔を消火剤まみれにされたことで完全に頭に血が上っていた。

 目にしみる痛みをこらえながらほとんど手探りで水場を見つけ、短くない時間をかけてようやく消火剤を洗い流すことが出来たのだ。

 当然日月(ひづき)達の姿は消え去った後である。


「あのクズだけはこの手で殺す!」


 男は感情のまま、周囲にある物全てに怒りをぶつける。

 掃除道具を入れたロッカーを殴り、教室のドアを蹴り上げた後、廊下をねり歩きながら手当たり次第にガラスを割りはじめた。


 殴る。蹴る。投げる。壊す。そして割る。

 目に入る範囲をことごとく破壊し尽くしたころ、ようやく男は冷静さを取り戻す。


 男はポケットから透明な容器を取り出すと、その中に満たされた液体を見つめた。

 もともとここに来たのはこれを散布するためだった。

 それが日月(ひづき)の妨害を受けたため、日月の排除を優先したのだ。


 だが今は邪魔な日月もいない。

 あのクズを見逃すつもりは毛頭(もうとう)ないが、その前に散布をすませてしまおう。家族同胞が死に絶えた後、絶望にうちひしがれるクズを日月の目の前で切り刻む。とても爽快(そうかい)な光景だ。

 男はそう考え、その時に優樹が見せる表情を想像して口角をあげた。


「そうだな、それがいい」


 そうして男が校舎の屋上へ向けて歩きはじめようとした時、視界の隅でひとつの建物に灯りがともった。

 閉められたカーテンの内側からこぼれ出るわずかな光だが、暗闇が広がる学校の敷地内ではひときわ明るく浮かびあがる。


 その意図はあきらかであった。

 この学校の敷地内にいる男以外の人物達、それが自分の存在を主張しているのだ。


「そうか。そこか。……面白い」


 そうつぶやくと男はゆっくりとその建物、体育館へ向けて歩き始めた。






 体育館の入り口は開いていた。


 開くと同時に中からの光が勢いよく漏れ出す。

 月明かりを頼りに歩いてきた男はまぶしさに目を細めた。

 体育館中の照明が惜しげもなく照らされている。

 ステージエリアにあるスポットライトまでもが中央の床面に向けて光を放っていた。


 室内の明るさにひるんだのも一瞬だけのこと。

 男はすぐに体育館の中央に立つ二人へ視線を向ける。


 そこに居たのは優樹と日月。

 二人とも右手に剣道用の竹刀を持ち、じっと男を見つめていた。


 もちろん男は二人が――殺傷能力がほとんど無いとは言え――リーチの長い武器を手にしていることに気づいていたが、それよりも日月が顔に付けている物体に違和感を抱く。

 さっき逃げる時に負傷でもしたのだろうか、日月の右目が黒い眼帯で包まれていた。


 加えて二人の泰然(たいぜん)とした様子も男の不信感を増大させた。

 二人がかりとは言え、竹刀で真剣に立ち向かうほど自棄(やけ)になっているわけでも追いつめられているわけでもないだろう。

 灯りを照らしてわざわざおびき寄せたくらいだ。何か企んでいるのは間違いない。


 男はゆっくりと体育館に足を踏み入れた。

 二人をにらみつつも、左右、そして上下に視線を動かして警戒する。

 広い空間に男の足音と自然に閉まる扉の音だけが響いた。


 入り口から五メートルほど中に入ったところで、男が足を止める。


「さあて、日月。今度は何を見せてくれるのかなあ? 俺としてはとりあえずそっちのクズを切り刻んだ後でゆっくり話しがしたいんだがなあ」


 男が刀の切っ先を優樹に向ける。刃先には赤黒い模様がついていた。

 その時初めて優樹は気づく。

 考えてみればおかしい。いくら山の中に孤立した学校とは言え、宿直の教師くらいはいるはずだ。

 これだけの大騒ぎをして誰ひとり出てこないわけがない。


 そう考えてぞっとした。『出てこない』のではなく『出てくることができない』のではないか、と。

 男が握る刀についたあの赤黒い模様はもしかすると既に犠牲になった誰かの血なのではないか、と。


 日月もその赤黒い色に気づき眉をひそめる。

 非常灯や月明かりのもとではハッキリと見えなかったが、体育館中を照らす光のもとでは、その色もしっかりと確認することが出来る。


「もうやめて。お願いだからやめて。こんなことをしていったい何になるの?」


 日月が懇願(こんがん)する。

 だがその懸命な願いも男には届く様子がない。男は肩をすくめるとため息を吐いた。


「何になるとかならないとかじゃないんだよ。クズどもが犯した罪に相応の罰を与えてるだけだ」

「ボクたちはこの時代では部外者でしょう? 勝手に罪とか罰とかそんなことを決める権利もなければ、人を傷つけて良い道理もないよ!」

「お前は悔しくないのか、日月?」


 奥歯をかみしめるように顔をゆがませて男が言う。


「陽の光を浴びることもできない。風を素肌で感じることもできない。海の水をこの手にすくい上げることもできない。それはいったい誰のせいだ! 五十にも届かない平均寿命。生まれ落ちたその時から始まる原因不明の身体機能低下。そうして緩やかに衰弱していくのは俺たちの責任か!?」


 男が見ているのは目の前の日月達ではなく、遠い故郷の風景だった。


「ちがうだろ! 俺たちが生まれた時にはもうそうなっていた! いったい俺たちが何をしたっていうんだ!」


 男が最初に呪ったのは自分が生まれた時代。

 そして時代に生まれた自分の不運。

 やがてその呪詛は自分が持たないものを持っている人間達へと向けられていった。


「この時代のクズどもが当たり前のように手にしているものが、なんで俺たちの手には欠片ひとつも残っていないんだ! ただ運良くこの時代に生まれただけで、何の努力もしていないやつらが漫然(まんぜん)と幸せを享受(きょうじゅ)しているというのに」


 知らなければ恨むこともなかった。

 知っていても時間を越えることが出来なければ恨むだけですんだ。


「どうして俺たちだけが苦しまなきゃならない!」


 古今東西を問わず、多くの持たざる者が抱いてきた憎悪、怨嗟(えんさ)憤怒(ふんど)……。

 特別なものではない、ごくごくありふれた話だ。


 ただひとつ違うのは、男が生きる時代にはそれまで不可能だった『過去へ干渉する技術』がある、ただそれだけだった。


「相変わらず俺たち全員生きてるだけで悪人扱いかよ。あんたにも言い分があるんだろうけどさ。俺たちだって自分で生まれる時代を選んだわけじゃない。確かにこの時代に生まれたのは運が良かったのかもしれないけど、だからって一方的に恨まれる筋合いはねえよ」

「ふざけるな! お前のような青二才に何がっ……!」


 男が激高して叫ぶ。


「お前にわかるか? 我が子が生まれると知った時の喜びと、出生検査でその子が生まれながらに外気拒絶疾患(がいききょぜつしっかん)だとわかった時の悲しみが! 生まれてから死ぬまでの数十年間、食べることも、見ることも、声を上げて笑うことも、涙することさえ許されずに、保護機(ほごき)の中で一生を終えることがどれほどの苦しみか! それを見守るしかない俺たちがどれだけの絶望を味わったか! ぬくぬくとこの時代でまどろんでいるだけのお前らに、わかるとでも言うのか!」


 一気にまくしたて、最後に怒気をみなぎらせて言葉を優樹へ突き刺した。


「いいかげん気づけよ! 自分の罪に!」


 激しく乱れた男の息づかいだけが静かな空間に響く。

 優樹はとっさに反論しかけたものの、何も言わずに言葉をのみこんだ。

 男の言っていることを信用したわけではない。例え男の言っていることが本当だとしてもこの凶行を許せはしない。


 だが何も言えなかった。目の前にいる男が先ほどとは別人に見えたからだ。

 そこにいたのは刃を振り回し、あからさまな殺意で優樹の体を断たんとしていた男ではなかった。

 優樹たちへの(いきどお)りを内に秘めながらも、その瞳に映るのは狂気ではない。

 そこにあるのは決して手に入れることのできないものへの渇望(かつぼう)悲哀(ひあい)

 その声にこめられたのは冷たい現実を前に無力な自らを呪う慟哭(どうこく)

 生まれた時代が悪かった、と。

 それだけの言葉では癒されるわけもない悲しみだった。


 優樹はふと思ったのだ。

 この男は狂っているわけではない。

 悪人というわけでもない。

 現実を受け入れて乗り越える強さがなかっただけの心(もろ)い人間、ただそれだけの話ではないかと。

 幼い子供が夏の寝苦しい夜、眠りにつくことができない不快感を解消する術がわからずに、泣いて周囲にあたりちらすのと同じではないのかと。


「ボクは……」


 そんな優樹の思考をさえぎったのは日月の言葉だった。


「あの時代に生まれてよかったと思ってる」


 訴えかけるように男へ向けて言葉をかける。


保護機(ほごき)があるから死なずにすむし、複製体(コピー)の技術があるからこうやって時間を超えて、たくさんのものに触れることができるもの」

「ちがうだろ! もっと安全な時代に生まれていたら、あんな病気で苦しむ必要すらなかったじゃないか」


 声量とはうらはらに男の声は弱々しい。


「すがるような思いで特試(とくし)医療をいくつも受けさせた。たくさんの名医に診断してもらった。民間療法から迷信のたぐいまで、知る限りの手は尽くした……。それでも何も変わらなかった」


 そこにいたのは凶人ではなく、ただ娘を案じるひとりの父親だった。


「せめてもと、未来への希望を託して名を『日月』と……、でもお前の未来には……」

「ボクは好きだよ。自分の名前」


 優しく言い聞かせるように語りかける。


「とてもすてきな響きだし、何より……、こめられた想いがちゃんと伝わってくるもの」

「だが、名前以外に何も与えてやれなかった」


 唇をかみ、男が表情をゆがめる。


「この時代以降の人口を二十億に保ち続ければ星は壊れずにすむと、結論は二百年も前に出ていたはずだ」


 その目に黒い輝きが再び灯る。


「だが誰ひとりとして直接介入をしようとしない……。だったら!」

「どうしてそうやって安易な結論を出すの!?」

「結論を出さざるを得んからだ!」

「まだ早すぎるよ! ボクもこの数日間でいろんなことを知った。水が肌を流れていく感触とか、木の葉の隙間を通して浴びる日差しの温かさとか。記録を読んで、疑似(ぎじ)体験して知っているつもりでも、実際に手で触れてみるとぜんぜん違うの。」

「そんなこと、俺だってわかってる」

「わかってない! わかってないよ! 人だって同じだよ。この時代の人たちが全て善人だとは言わない。でも悪い人ばかりとは言わせない。ひとりひとりが生きてるの。その生活を奪う権利はボクたちに無いんだって――」

()いとか悪いとかじゃない! 幸せなのが許せないんだ! 俺たちが背負う不幸の上に積み上げられた幸福が憎いんだ!」

「そんなの……、勝手だよ……。ただの逆恨みじゃないの」

「逆恨みじゃない! ただの因果応報(いんがおうほう)だ。この時代のクズどもが進むべき道を間違わなければ、俺たちが苦しむこともなかった。お前が苦しむこともなかった。俺たちにとっては当然の、正当な権利だ!」

「お前が決めるな!」


 男と日月の対立に優樹が口を挟む。


「優樹?」

「あいも変わらず勝手なことばかり言いやがって。この時代のことは俺たちが決めるんだ。お前が口を出すことじゃない!」

「そういうセリフは責任を取る覚悟を決めてから言え。あとの時代に怠慢(たいまん)のツケを残すな!」

「俺たちにとってはまだこれから先のことだ! まだ来てもいない未来のことで文句を言われる筋合いはない!」

「俺たちにとっては()まわしい歴史なんだよ!」


 殺気を帯びた男の視線が再び優樹に向けられた。

 それを見た日月が泣きそうな表情で呼びかける。

 優樹にしか聞こえないように小さな声で。


「優樹。もういい。もういいよ。…………終わりにしよう」

「……ああ」


 優樹の返事を待っていたかのように、体育館内を煌々と照らしていた白銀灯(はくぎんとう)とスポットライト、その他ありとあらゆる光源が消失した。

 通常ならば全ての照明を落としても真っ暗になることはない。

 出入り口を含め、非常灯が緑色に鈍く輝いているはずである。

 だがあらかじめ優樹によって非常灯という非常灯がその電源をカットされていた。

 四方に備えつけられた大きなガラス窓も隙間なくカーテンで覆い隠され、月明かりすらかけらも差しこんでこない。


「なっ!」


 暗闇の中、男の困惑が口をついて漏れる。

 優樹はズボンのポケットへ入れていたリモコンを取り出し、ボタンを押した。


 その瞬間、体育館中のスピーカーから最大音量で音楽が流れ始める。

 クラシックの名曲が並ぶ音響室の中から優樹が選んだのは、おそらく不届きな生徒が持ちこんだであろうロックミュージックだった。

 出だしから激しいメロディのその曲は、足音を隠すという目的に最適だったのだ。


 音楽が流れると同時に、優樹は右手の壁に向かって走りはじめた。

 一方の日月は、照明を落とすために使用したもうひとつのリモコン――優樹が持っていた音響用のリモコンとは別の、照明操作用のリモコン――を左手に持ち替える。


 そして心の中でカウントしながら、右目を覆う眼帯を取り払う。

 照明の明るさに慣れきった左目は全く使い物にならない。

 だがまぶたを閉じ、眼帯の内側に救急用の包帯を折り重ねて暗闇に慣れさせた右目は、漆黒(しっこく)の世界でも男の存在をしっかりと捕らえていた。


 視覚と聴覚を同時に失った男は、左右をせわしなく伺いながら時折思い出したように刀を振りおろして牽制をしている。


 五、六、七……。


 日月は竹刀を床に置くと、ポーチの中から手探りで円柱状の物体を取り出し、男に向かってゆっくり歩き始めた。

 気持ちがあせる。早くしなければ男が視界を取り戻してしまう。

 だが急いではいけない。タイミングを合わせなければうまくいかない。


 十、十一、十二……。


 男はまだ視覚を失ったままだ。日月は右目だけを頼りにして、チャンスを逃すまいと息を呑む。


 十四、十五!


 あらかじめ決めたカウントに到達した。

 日月は優樹の位置を確認して少し躊躇(ちゅうちょ)したが、当初の打ち合わせ通りに動く。

 これ以上時間をかければ男の視力が回復してしまうからだ。


 日月は右手に持った物体から絶縁体(ぜつえんたい)代わりに挟みこんでいたプラ板を引き抜き、すぐさまその先端を男の顔に向ける。

 その先端からは弱々しい光が放たれていた。

 日月が持っているのは非常用の懐中電灯。

 さほど強い光ではないが、暗闇に慣れつつあった男の視力を一瞬奪うには十分だった。


「ちっ!」


 男が舌打ちをした。

 向けられる光線から片手で顔をかばいつつ、かろうじて目を細く開くのが精一杯だった。

 その両目に写し出されたのは、視界の中央を占める焼けつき(こん)と、その向こう側にいる少女の姿。


 とっさに刀を正面の相手に向けた男は、もうひとりいるはずの敵を警戒した。

 男が周囲を見回そうとしたその時、消えていた体育館内のスポットライトが点灯し、日月と男を照らし出す。

 ライトは全て日月の背後から男に向けられているため、懐中電灯とは比べものにならない光量が男へ降り注ぐ。

 視界を奪うほどのものではなかったが、反射的に光源へと目を向けずにはいられない。

 それはほとんど本能的な行動だったが、日月たちにとってはその一瞬の時間が唯一の勝機であった。


 次の瞬間、男の背中に衝撃が走る。

 背中の一部分から発生したそれは瞬く間に全身を駆け巡り、男から体の自由を奪っていった。


2021/04/04 ルビ不備修正 当然日月ひづき → 当然日月(ひづき)

2021/04/04 誤字修正 消化器 → 消火器

※ご指摘ありがとうございます。

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