第二話
日を追うごとにやわらかくなっていく日差しが冬の終わりを告げる。
ときおり思い出したように、なおも未練がましく吹きつける北風が町を駆けぬけていくが、その力は日に日に弱くなっていた。
惰性で使われ続けていた暖房器具もようやくその役目を終え、もはや胸一杯に吸いこむ空気がその冷たさで肺を突き刺すこともない。
時間がやさしく、緩やかに流れていく休日の昼下がり。
優樹の平穏を引き裂いたのは、階下から聞こえてくる耳慣れた声といつもの決まり文句だった。
「優ちゃん! 学校がお休みだからっていつまでも寝てちゃダメよ! あんたも来月からは受験生でしょ! 少しは勉強しなさいよ!」
珍しくやる気を出した優樹が、意を決して自室の勉強机についたのを見計らったかのように響く母親の小言。
声の大きさでは近所でも有名なだけに、優樹の部屋からキッチンの間までを妨げる二枚の扉と二メートルの高低差がある階段、そして直線距離にして六メートルほどの距離などみじんも感じさせない。
あきらかにその声はとなり近所に筒ぬけのはずだが、母親の方は優樹が恥じ入るほどには気にならないらしい。
そのくせゴミを捨てるだけの短い距離を出歩く時には、いちいち身だしなみや化粧を気にするのだ。優樹にはその判断基準がまったくといって良いほど理解できなかった。
どうして寝てるって決めつけるんだよ――。
言いかけて優樹はその言葉を飲みこむ。
別にご近所様への体裁を気にしているわけではなく、だんまりを決めこむことが彼なりの精いっぱいの抵抗だからだ。
声高に主張する相手に対して、同じように声を張り上げても疲れるだけで意味がない――本当のところは口論で親にはまだ勝てない――ことを学ぶくらいには優樹も成長している。
「だったら……」
せっかくのやる気をそがれてしまい、しばらく不満げな表情を浮かべていた優樹は立ちあがると外出用の服に着替えはじめた。
勉強しろと言われればしたくなくなる。反抗期とひとことで片付けてしまえばそれまでだが、気分を害した状態では勉強に身がはいらないというのもまたひとつの真理である気がした。
だったらいっそのこと気分転換でもした方が時間の有効活用という意味では正しいのではないだろうか。
ひとたびそんな思いが浮かんでくると、もはや優樹には机へ向かおうという気持ちが露ほども残ることはなかった。
服を手早く着替え、薄手のパーカーを羽織り、お気にいりのレーシングキャップを少しななめにかぶって足早に部屋をでる。
キッチンの母親に見つからないようにこっそりと玄関から外に出た優樹は、両腕を頭上でのばして一息吐くと、そのままあてもなく住宅街を歩きはじめた。
休日の午後ということもあり、道を歩く人の数は少ない。
日々の労働で疲れ切ったサラリーマンたちは午睡という名の貴重な報酬を堪能しているのであろう。そうでなければ家族サービスという名の義務を果たすため、朝早くから観光地や商業地へ出かけているにちがいない。
暖かな太陽の恵みが、もうじきやってくるであろう春の訪れを感じさせてくれる。
さすがにTシャツ一枚といった装いは見当たらないが、既に厚手のコートを着ている人はいない。
せいぜい優樹と同様に薄手の上着を身につけている人間が見つかる程度だ。
「さて……、どうしようか?」
誰に聞かせるでもなくつぶやきながらも、足を動かし続ける。
感じられるかどうかのゆったりとしたそよ風だけが静かな街路を通りぬけていく。
寒さがやわらいだとはいえ、春と呼ぶにはまだ少し早い。
やがてあてもなくぶらついていた優樹が通りかかったのは、幼い頃によく遊んでいた近所の公園だった。
子供のころは大きな広場だと思っていたが、中学生になった今見るとやけに小さく感じてしまう。
公園にはすべり台のような定番をはじめとして、子供たちを満足させるだけの遊具が一通り備えつけられていた。
それとは別に子供たちの親がくつろぐためのスペース――屋根の下にいくつかのベンチが配置されている――があった。
ベンチから五メートルほど離れた場所には申しわけ程度に設置された公衆トイレがあり、タクシーや宅配ドライバーたちが一息つくための貴重なオアシスとなっている。
公衆トイレの裏には広葉樹が植えられ、普段は街路からの視線をさえぎっている。
ところがこの時はたまたま公園のメンテナンスが行われてから時間がたっていなかったらしい。
余分な枝葉が刈り取られていつもよりも見える範囲が広くなっていた。
何の気なしに道を歩いていた優樹が、視界の端に違和感を持ったのはそういった偶然の結果である。
決して意図的に見ようとしたわけではないが、トイレの裏が視界に入った時、何かが動いた気がしたのだ。
動いた物体へとっさに目をやるのは人間に限らず動物の本能的なものであり、目に入った以上はそこへ意識が向いてしまうのも仕方がない。
普段であれば何もない。何もなければ何も起こらない。だがその日だけは違った。
そこに人がいた。
木の葉が邪魔してはっきりとは見えないが、優樹と同年代くらいの少女がそこに立っている。
ほんのりと赤みがかった髪は耳がかろうじて隠れる長さで、見方によっては少年のようにも見えた。
成長期を感じさせる控えめな胸のふくらみに気がつかなければ、男の子と間違えていたかもしれない。
服装は――ずいぶん独創的だ。上下がつながった『つなぎのような真っ白の服』に包まれ、肌は手先から首元まで一分の隙もなく隠されている。
ダウンジャケットのように少しふくらんだ外見を表現するとしたら、『スリム化した宇宙服』だろうか。
歩みを止めない優樹と立った場所から動かないままの少女は、やがて相対的に位置がずれていく。
互いをつなぐ視線上にゆっくりと広葉樹の幹が近づき、その存在が少女と優樹をほんの数秒だけ隔てた。
そのまま足を止めない優樹の歩みにあわせ、やがて視線を塞いでいた幹が視界からゆっくりと流れ逃げていく。
当然、視線の先に少女の姿が再び現れたのだが――。
「えっ?」
再び目に入った光景に優樹は思わず声がもれた。
そこにいた少女が先ほどまでの奇妙な服装から一転して、白いブラウスに紺のブレザー、チェック柄のスカートという街中でもよく見かける平凡な装いに変わっていたからだ。
さっきのは見間違いだったか、と脳裏に浮かんだのも一瞬。
声を出してしまった優樹に少女の方も気がついたのだろう。
目が合った。
見知らぬ人間と目が合うというのはずいぶんと気まずい。
なんせ優樹は骨の髄まで日本人だ。
人生経験豊かな老人であればにこやかに笑顔を浮かべてあいさつでもするのだろうが、中学生の優樹にそこまでの余裕はまだない。
瞬時に視線をそらせて気づかないふりをしようとした。
「ちょ、ちょっと、キミ!」
だが少女の方はそれですませるつもりはなかったようだ。
慌てたような声で少女が叫ぶ。
まずい。瞬間的にそう感じた。
嫌な予感がする。というより嫌な予感しかしない。
優樹は季節が一ヶ月ほど逆行したような、ひどい肌寒さを感じた。
人気がない公園のトイレ、その裏で少女が何を思って何をしていたのかはわからない。
ただ少なくともそんなところに居たということは、人目を避けたいという意図があったのだろう。
もしかしたら隠れて着替えでもしようとしていたのかもしれない。
しかし別に裸や下着姿を見たわけじゃないのだから、咎められるようなことでもないだろう。
自称『女心のわかるいい男』の友人に言わせると、そう考えるのがまだまだ女心のわからない子供の証拠とのことだが、当の優樹にはそれが理解できるわけもない。
そんな優樹の楽観とは裏腹に、少女の慌てようはひどかった。
「そこ! 動かないでよ!」
強い口調でそう言うと、少女は公園の出口へ向かって走り出した。
どうやら優樹のいる街路まで迂回してやって来るつもりらしい
だが、言われた方の優樹はひどく焦った。悪いことをしたつもりはないし、着替えをのぞいたつもりもない。
百歩ゆずって着替えを見てしまったとしてもそれは不可抗力だし、第一こんなところで着替えている方が悪いに決まっている。
しかしなんだろう、この不安感は。
こんなくだらない理由で警察沙汰にでもされてはたまらないし、友人たちにもきっとからかわれるに違いない。
だから優樹は安易な解決方法を選ぶことにした。三十六計なんとやら。
とどのつまりは少女がやってくる前にその場から走って逃げだすという選択肢を。
だが、結局その後数分間の逃走を経て、あえなく川土手で捕まってしまったわけである。