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第十九話

 日月(ひづき)に向けられる刃は緩慢(かんまん)()を描く。

 明確な殺気を感じさせることはないが、かと言ってじゃれついているわけでもない。

 気をぬけば父親が振るう刀は彼女の体をいとも簡単に切り裂くだろう。


 日月(ひづき)自身、優樹に向けて言った自分の言葉をわずかばかりも信じていない。

 目の前の男はもはや精神の安定を失った危険人物であり、例え自分が娘であろうとも安全だとは思えなかった。

 まして複製体(コピー)であるこの身を相手がおもんばかるわけもない。


「どうした日月。もう手詰まりか?」


 手持ちの閃光弾(せんこうだん)をすべて使い尽くした日月は、なすすべもなく追いつめられていく。

 身を包むのは防御力などないも同然のごく一般的な服。

 その手にはもはや何も握られていない。


 優樹が立ち去ってから日月は一方的な防戦に追いやられていた。

 だが逃げながらも決して父親の視界からは立ち去ろうとせず、虎視眈々(こしたんたん)と何かのタイミングを図っているようだった。


 もちろん男もそれを感じ取っていた。

 だからこそ一気呵成(いっきかせい)に踏み出すことを躊躇(ちゅうちょ)している。

 軽いフェイントを繰り返し、決して深く踏みこまず、じわりじわりと獲物を追いつめていった。


 やがて、あとずさる日月の足が壁にぶつかる。

 学校の校舎という物はほとんどの場合単純なパターンで構成されている。

 二階と三階の構造に違いは無いし、階段は廊下の端に設置されていることが多い。

 また、同時期に建築された(とう)であればその設計も差異(さい)がないことの方が多い。

 もともと日月にその知識はなかったが、校舎の中を逃げ続けるうちに知らず知らずその構造を勝手に頭の中で作り上げてしまっていた。


 だが、日月が逃げ続ける間に入りこんだ校舎の廊下は、こともあろうにその階だけ行き止まりだった。

 一階と三階にはとなりの棟へ向けて続く渡り廊下が架かっている。しかし二階にだけは渡り廊下がなかった。


 建築当初は二階と三階両方に渡り廊下がない場所だったが、となりの棟へ移動するのに三階からわざわざ一階まで降りるのが大変だからと、後になって三階の渡り廊下だけが増築されたのだ。

 もちろん二階にも渡り廊下を()けようという意見もあった。

 だが予算の関係上、三階だけが増築の対象になったため、二階だけに渡り廊下がないという(いびつ)な構造になったのがこの校舎である。


 そんな経緯を日月が知るわけもない。

 一階にも三階にもあった。だから二階にもあるだろう。

 そう考えたのも無理はなかった。

 結果的にその思いこみが日月の退路を断つことになる。

 じりじりと男が間合いをつめてくる。


 日月はすばやく周囲に目をやり、次いで逃げ場がないことを知った。

 覚悟を決めて父親に視線を向けると、半身に構えて相手から見えないよう上着のポケットに右手を静かに差し入れた。


 男も警戒したのか、歩みが止まる。

 無音の時間が訪れた。


 男も少女も互いの一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)を見逃すまいと、神経を張りつめる。

 ほんの数秒間の静けさ。それを男の後ろから駆け寄ってくる足音が破った。


「ああん?」


 いぶかしんだ男が日月に刀の切っ先を向けたまま首だけ振り返る。

 振り返って最初に男が目にしたのは、自分に向けて放物線を描き飛んでくる赤い物体だった。


「ちいっ!」


 男はとっさに刀でその円筒形の物体をはじこうとする。

 だが思いのほか強い力で押し返されてしまう。物体は男が予想した以上の重量を持っていた。


 体勢を崩された男に第二撃が襲いかかる。それは先ほどの大きな物体とは違い、刀で物理的に防げるものではなかった。

 なにかの吹き出し音と共に男へ向けて白い霧が襲いかかる。

 瞬時に視界が白く染まる前、霧の向こうにさっき逃げ帰った臆病者が見えた気がした。


「ぐっ、ぐそ、げほっ、なに、ごほっ……」


 白い霧は男の視界をふさぐだけではなく、その呼吸器官に侵入して男の(のど)と肺に拒絶反応を起こさせた。


「日月! 今のうちだ! 走れ!」

「優樹!?」


 日月は視界を失い()きこむ父親を見て、ポケットに入れた右手に力をこめる。

 そして父親へ向けて一歩踏み出そうとしたが、次の瞬間には何かに思い至ったように表情を変え、あいていたスペースをすりぬけて優樹のもとへ駆けていった。


「優樹。どうして!?」

「いいから走って!」


 優樹は日月の小さな手を取ると、引っぱるようにして走りはじめた。

 先ほどの攻撃が一時的な時間稼ぎでしかないことを知っている優樹は、必死に安全な場所を記憶から探りあてようとする。


 最も安全なのはこの隙に学校の敷地から出てしまうことだ。だがおそらく日月はそれを良しとしないだろう。先のビジョンを何も持たない優樹だが、目的はただひとつだった。


 一時の安全を求めて、しばらく二人は無言で走った。

 学校というのは夜間、基本的にはどこも鍵がかかっている。だからこそいったん隠れてしまえば外部からの接触を拒める場所もある。

 優樹はこの学校の生徒だ。鍵がついているにもかかわらず『その鍵が壊れている場所』をいくつか知っている。

 そして本来であれば鍵が壊れていることを学校側に報告しなければならないにもかかわらず『生徒の都合で報告されずに壊れたままとなっている場所』もあることを知っていた。

 体育館内の倉庫もそういった場所のひとつだった。


 体育館ととなりの校舎の狭い隙間にある窓からは、体育館内の倉庫へと入ることができ、しかもこの窓の鍵は意図的に壊れたまま放置されているのだ。

 これは『一部の不真面目な生徒』の間では暗黙の了解となっていた。

 体育館自体は全体が施錠(せじょう)されているため、少なくともこの秘密の入り口を知らない人間は夜間に体育館へ入ることが出来ない。


 優樹と日月はつかの間の安全を得るため、体育館の倉庫へと逃げこんだ。

 倉庫内のマットに座りこみ、息を整えると最初に優樹が口を開く。


「ごめん、日月」


 静まりかえった倉庫の中で優樹の声だけが響いた。


「ごめんな……」


 それは少年の懺悔(ざんげ)だった。


「……なんでごめんなの?」

「怖かったんだ。ただ……ただ怖くて」


 優樹の顔がゆがむ。


「日月をおいて逃げたんだ」


 暗がりの中、窓からかすかに差しこむ光がふたりを照らす。淡い光に浮かんだ優樹の表情は今にも泣き出しそうだった。

 自分の情けない顔を見られたくない優樹は、とっさに顔を背ける。


 それを見た日月も悲しい気持ちになった。

 自分が優樹を巻きこんだのだ。

 彼が恐怖を抱いているのも、それを乗り越えるために無理をしようとしているのも、全てが自分のせいだとわかっていた。


「……逃げても良かったんだよ? 誰も優樹を責めたりしない。少なくともボクは責めないよ」

「それじゃだめなんだ。俺は確かに臆病者で弱いけど……、どうしようもない腰抜けだけど……、でも!」

「ねぇ、優樹」


 日月の優しい声が優樹にとどく。


「怖いのは当たり前じゃない。臆病でも腰抜けでも良いんだよ」


 感謝をこめて。


「自分の弱さを受け入れて、正面から向き合えるのは……、それがきっと、本当の勇気だよ」


 敬意をこめて。


「怖いのに。危険なのに。それでも戻ってきたのは、ボクのこと心配してくれたから?」


 優樹がおそるおそる振り向く。

 当たり前だろう、とその表情が物語っている。


「ホントはこの時代の人をボクたちの勝手な都合に巻きこんじゃいけないって、わかってる。わかってるけど……」


 物音ひとつしない倉庫の中でさえ、かすかに聞こえるくらいの声で日月が言う。


「でも……、嬉しい」


 その刹那(せつな)、優樹の体をやわらかな風がそっと吹きぬけていった。

 さっきまで感じていた恐れ、そして不安、迷いが溶けるように消えていく。


 こわばっていた顔が緩み、自然と笑みがこぼれそうになったその時、遠くからガラスの割れる音が聞こえてきた。

 一枚や二枚ではない、次々と響くその音が二人を現実に引き戻す。


 まだ何も終わっていないのだということを、否が応にも突きつけられていた。

 優樹はすぐに思考を切り替える。


「日月。あいつは何をしようとしてるんだ?」

「あの人は……この時代を憎んでるの。この時代の人間が幸せに暮らしているのがまぶしすぎて、苦しいんだと思う」


 そう語る日月自身も苦しそうであった。


「手が届かないのなら苦しまなくて良かったのに……、この時代に干渉する手段があるばかりに……」


 時間を越えられたがために、振り上げた拳の叩きつける先を見つけてしまったのだ。


「あの人のやってることはただの犯罪。だから止めないと」


 それは文化調査士としての義務ではなく、娘としての責任。


「さっきあの人がボクに見せたの。小さな容器に入った液体を」


 日月は優樹へ父親がこれ見よがしに手に持っていた容器のことを話す。


「夜風にのせて町に散布するって言ってた」

「中身は何だ?」

「わからないけど……たぶん、致死性の散布毒だと思う。皆殺しみたいなことを言ってたから」


 優樹の心臓が大きく鼓動を打つ。

 少し前までの優樹なら馬鹿なことをと一笑に付していたかもしれない。

 だが凶人としか思えない男との対峙を経験した今は、それが日月の妄想であると笑い飛ばすことなどできなかった。


「そんなの……!」

「だから、止めなきゃ」


 日月の決意に満ちた言葉に、優樹も無言で頷く。

 だが、状況は思わしくない。

 相手の手には人を簡単に殺すことの出来る武器。一方の優樹は丸腰だ。

 学校という場所だけに物自体は多いが、その一方で武器になりそうな物は少ない。


 先ほど使ったほうきのように、棒状の物はある。だが刀を相手に振り回すのは難しい。せいぜい突きに専念するくらいか。

 家庭科室へ行けば包丁くらいはあるだろう。しかし相手が持っている日本刀と比べると間合いが短すぎる。


 理科準備室なら薬品も置いてあるが、厳重に施錠されているので持ち出しは困難だ。

 加えて理科の成績が中の下である優樹には、どの薬品が使い物になるのか判断することも出来ない。

 考え込む優樹に日月が言う。


「さっきみたいに一時的にでも相手の視界を奪うことが出来れば……、なんとか出来るかもしれないけど」

「さっき? ……ああ、あれか」


 追いこまれた日月を助けた時のことだと、すぐに優樹は気づいた。


「あれって何なの?」

「ああ。あれは消火器を使ったんだ」

「消火器? それって火災が起こった時に使うっていう?」

「ああ」


 それを聞いて日月は痛恨(つうこん)の表情を浮かべる。

 消火器の知識は持っていたが、実際に消火剤が噴出するところなど見たことがなかった。そのため、たった今優樹から聞くまで気がつかなかったのだ。

 そして同時に、最大のチャンスを逃してしまったことを悟った。


「同じ手は……、もう使えないだろうな。相手も何か対策を立ててるかもしれないし」


 自己完結する優樹の言葉に、日月も(うなず)かざるをえない。

 優樹ですら消火器を実際に使ったのは初めてだったのだ、日月が知らなかったのも無理はない。


「目くらまし、か……」


 日月の思いをよそに、優樹は思案する。


「体育館……、視界……。……………………いけるか?」


 しばらく考えこんでいた優樹が声をあげる。


「日月。あいつの視界を奪えれば、何とかなるかもって言ってたよな?」

「うん」


 優樹の問いかけに日月が首を縦にふる。


「だったら……」


2021/04/02 誤字修正 消化剤 → 消火剤

※誤字報告ありがとうございます。

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