第十八話
立ち止まるでもなく、駆け出すでもなく、ただ淡々と優樹は校門から町へと続く坂を下っていた。
足取りは重い。
重いはずなのに一向に歩みが鈍る気配すらない。
それは単に下り坂だからと言う物理的な原因だけではなく、半分は優樹の心がそうさせているのだ。
嫌だ。
痛いのは嫌だ。
斬られるのは嫌だ。
血を流すのは嫌だ。
死ぬのは嫌だ。
怖いのは嫌だ
嫌なのは――、嫌だ。
優樹は子供のように大声をあげて泣きじゃくりたかった。
あんな思いはしたくない。
早く明るい場所へ行きたい。
一刻も早く安全な場所に身を置きたい。
父と母に今すぐ会いたい。
いつもの日常へもどりたい。
それは単純な本能。
命の危険を回避しようとする生物としての反射的な行為。
恐怖から遠ざかろうとする生物としての無意識の行動だった。
自分の生命を守ること。
生物であれば何者も非難することはできない、明確かつ正当な理由である。
いったい誰にそれを責めることができようか。
――ただ一人、優樹自身をのぞいては。
日月とあの男が親子であることは、ふたり共が認めている。
ならば男も娘である日月に対して非道なことはしないだろう。
――そう言い訳をする自分がいる。
自分があの場所に居たところでただの足手まといにしかならない。
現に二度も日月に助けられている。
自分がいても日月の手を患わせるだけだ。
――そう自己弁護する自分がいる。
何より日月が望んだのだ。
関わらないでくれと、ここから立ち去れと、日月自身がそれを願ったのだ。
――そう正当化する自分がいる。
そう、逃げ出したのだ。
歩けば歩くほど安全な場所へと近づき、危険からは遠ざかっている。
しかし歩けば歩くほど、心に突き刺さったままの棘が優樹の弱さをえぐり続ける。時間がたつほどに強く、激しく。
逃げ出したのは本能。
だが心に突き刺さるのは後悔という名の針。
どう言い訳をしても、どう自己弁護しても、どう正当化しても、日月を見捨てた事実は変わらない。
優樹の心を傷つけるのは生物としての本能ではなく、人としての想いだ。
生命の危険から逃げ出したことではなく、ひとりの少女を危険の前に置き去りにし、自分ひとりが安全を得ようとしているこのあさましさだ。
それが優樹を責め続ける。
一歩進むごとに、優樹の体を重くする。
道なりに植えられた街路樹が風で揺れる。
まるで優樹の卑しさをあざ笑うように。
道端でうずくまる三毛猫が優樹の目を見つめる。
まるで優樹の醜さを責めるように。
街灯りでその数を減らした星が遠慮がちにまたたく。
まるで優樹のふがいなさを慰めるように。
雲から抜け出した三日月が容赦なく優樹を照らす。
まるで優樹の意気地ない心をさげすむように。
街から流れてくるざわめきが、点滅する街灯の明かりが、どこからか聞こえてくる赤ん坊の泣き声が、全てが優樹を糾弾しているように感じられた。
逃げ出したい、と本能が訴える。
同時に躊躇なく襲いかかってくる男の姿が脳裏に浮かぶ。
意気地無し、と心が声高に叫ぶ。
その瞬間、無邪気に微笑むショートカットの少女がまぶたに映る。
そのせめぎ合いの中、やがて優樹の足が止まった。
何も聞きたくない。
何も見たくない。
何も言いたくない。
放って置いてくれ!
俺に何をしろと言うんだ!
俺はただの中学生だぞ!
あんな危ない目をした人間に、刃物で襲われて平気でいられるわけないだろう!
怖いから逃げて何が悪い!
逃げて当たり前だろう!
文句があるなら代わりにお前らが日月を助けてくれよ!
立っているだけでも足が震えている。
ゆっくりと歩いていただけなのに呼吸もひどく乱れていた。
頭の中では不快な音が響き続ける。そして心は相変わらず痛い。
「うぷっ」
優樹は強烈な吐き気に襲われた。
その場にひざをつき、地面に倒れこみそうになる上半身を両手で何とか支えると、優樹以外は誰ひとりいない道の真ん中で嘔吐した。
自然と涙がこみ上げてくる。口の中に広がる不快感に、そして自分のふがいなさに。
薄暗い街灯に照らされた少年は、四つんばいの状態から上体をあげてアスファルトに腰を落とすと、放心したように夜空を見つめた。
口の中に広がる胃液の酸味が彼をゆるやかに現実へと引き戻す。
自分がみっともなく泣いていることに気がつき、そんな惨めな自分にまた泣きたくなった。
なんとふがいないことだろう。
少しは大人になったと思っていた。
同時に子供のころと比べれば多少は強くなったと思っていた。
昨日までのそんな自信がただの幻想であったことを、優樹は今思い知らされている。
『さすが勇気! 勇気の名前は伊達じゃないよね!』
日月の言葉が脳裏で反復する。
「勇気……、なんか……じゃ……」
ない、と口から言葉が漏れ出る。
同世代の可愛い少女に褒められて、優樹だってまんざらではなかった。
知らず知らずのうちに思い上がっていたのかも知れない。
本当の自分は、そんな立派な人間じゃなかった。
傷ついてもいないのに、傷つくことを恐れて逃げ出した。
『さすが勇気!』
やめろ! 俺はただの意気地無しだ!
『さすが優樹!』
言うな! 俺にそんな賞賛を受ける資格はない!
日月の言葉が優樹を追い詰める。
『だって優樹だもんね!』
だから俺をそんな言葉で非難するな!
俺をそんな目で見るな――、見る……。
優樹のまぶたに日月の顔がいくつも浮かぶ。
どの日月も優樹に笑顔を向けていた。
どれひとつとして優樹を責めるような顔はない。
まるで自分の事のように誇らしげに、嬉しそうに、満面の笑みを優樹に差し出していた。
そう。
日月はいつも優樹に笑顔をくれていたのだ。
率直に自分を認めてくれるその笑顔に、どれだけ優樹は満たされたことだろうか。
呆然としていた意識が、輪郭を浮かびあがらせるようにハッキリとしてくる。
それまで思考をつつんでいた濃霧がとりはらわれると、優樹は猛烈な自己嫌悪に襲われた。
「な、に……、やってん……だ……。おれ……」
凶器を持った男の前に女の子ひとり残して自分だけ逃げ出した。
いや、そうではない。
凶器を持った男の前に『日月をひとり残して』自分だけ逃げ出した。
その事実が優樹の理性に真正面から突きつけられる。
優樹はさっきまでの自分を全力で殴りつけたくなった。
確かに怖い。
確かに恐ろしい。
だが、だからといって日月ひとりを危険にさらして自分が逃げて良い理由にはならない。
なぜなら日月は、優樹にとってその他大勢のうちのひとりではないから。
あの笑顔を曇らせたくないと感じたのは、まごう事なき優樹の本心なのだ。
親子だから大丈夫?
あの男は普通じゃない。娘だから危害を加えない、なんて普通の親と同じに考える方がおかしい。
足手まといになる?
役に立つか立たないかじゃなくて、役に立ちたいかどうかじゃないのか。
日月がそれを望んだから?
馬鹿を言うな。
無関係な人間を助けるために、逃げ出すことを正当化できるように言ったに決まっている。
本当に情けない。
優樹は自分を責めた。
自分がここまで愚かだとは思っていなかった。
恐怖は今も心にまとわりついている。
気を抜けば押しつぶされそうな程に。
命は惜しい。
当たり前だ。
傷つきたくない。
当然だ。
だがあの少女を傷つけられるのは、自分が傷つくよりも許せなかった。
「だったら! 俺は!」
まるで別人がのりうつったかのように瞬間的に身をひるがえし、優樹は全力で坂を登り始める。
それが英雄願望に捕らわれた少年の衝動的な行動なのか、優樹本来の姿であるのかはわからない。
もっとも、本人にとってはおそらくどうでも良いことにはちがいないだろうが。