第十七話
「はっはっはっ! 閃光弾か!? よくもまあ、そんな物を!」
暗い廊下に男の声が響く。
閃光弾が作り出した一瞬の白光もすでに消え去り、周囲は緑がかった闇色に包まれている。
「そんな物より、ほれ。こういう物を持ってこなきゃだめだろ」
男が手に持った得物を目の前の人物に向けて突き出してみせる。
非常灯の薄明かりに照らされ、刀身を鈍く光らせた一振りの日本刀が浮かび上がった。
静寂に包まれた建物の片隅。
机や椅子が並ぶ教室の前で、ふたりの人物がにらみ合っていた。
刀を持っているのは細身で背の高い男、青年と呼ぶには少し早いかもしれない。
まだ幼さを残した顔つきには、少年らしさが抜けきれない若さが浮かんでいる。
だがその視線は若者特有の熱を持っておらず、ただ冷ややかに目の前の少女へ注がれていた。
男が向けた刀の先にはブレザーに身を包んだ少女がいる。
耳が隠れる長さの髪は本来ならやや赤みがかっているはずだが、闇色の染みこんだ廊下では純粋な黒と見分けもつかない。
普段は身につけないポーチを腰に巻きつけ、その白磁のような右手で円筒形の物体をしっかりと包みこんでいる。
「なあ、日月」
男の口が少女の名を呼ぶ。
日月は刺すような、しかし憎悪の感じられない視線を男に向けたまま身構える。
ため息をついた男は軽く首を左右に振ると、諭すように日月に語りかけた。
「お前は本当に悪い子だ。俺の言うことが聞けないのか」
「子供扱いしないで!」
とっさに日月が言葉を返す。
数瞬のにらみ合いがあり、やがて日月が再び口を開く。
「子供じゃ……、ないんだから」
日月の顔に浮かぶのは刹那の迷い。
それを振り切るように強い意志をこめて少女は言った。
「ボクはボクの意思であなたを止めに来た。……もうこれ以上はやめて」
男は日月に向けていた刀をゆるやかに構えると、無表情で言い放つ。
「仕方ねえな……、複製体を破壊して無理やりにでも帰ってもらうとするか」
暗く無機質な通路を男は一歩、また一歩と距離をつめていく。
その足音だけが静まりきった校舎の中に響いていた。
日月の右手に力が入る。
その瞬間、男が大きく踏み出し、振りおろされた刀が日月を襲う。
「くっ!」
かろうじて身をよじり、刀の軌道から逃れる。
幅の狭い廊下では、体勢を崩した状態の日月に追撃をかわす空間は残されていない。
だが男からの二撃目はやってこなかった。
日月自身にもわかっている。男は本気で襲いかかって来ているわけではないのだ。
猛獣が獲物をいたぶって遊ぶように、日月を追いつめて楽しんでいるのだろう。
日月が体勢を整えると、それを待っていたように男が刀を振り上げる。
日月が逃げ場を失うと、わざと大ぶりをして逃げ道を作り、また一から追いつめていく。
もてあそばれていることがわかっている日月は、それでも粘り強く反撃の機会をうかがいながら襲いかかる刃をかわし続けた。
廊下を抜け、階段を下り、さらに長い廊下を逃げ続ける。
気がつけば一階の建物同士を結ぶ見通しの良い渡り廊下に日月は立っていた。
例え男が本気でないとしても、かわし損ねれば少女の体などひとたまりもない。
神経をすり減らしながら攻撃を避け続ける日月は既に肩で息をするようになっている。
「どうした。もう限界か? 息があがってるぞ」
男が愉快そうに笑う。
日月が口を開いて反論しかけたその時、向かい合うふたりの横から何かが飛んでくる。
「痛っ!」
男がとっさに腕ではらったそれは、学校ならどこにでもおいてあるごくありふれた掃除用具。
T字型のいわゆる自在ほうきと呼ばれる物だ。
もちろんほうきが勝手に飛んでくるわけがない。
ほうきが放たれてきた方向にその原因が立っていた。
そこには男と日月以外の、この場にいるはずのない人間。
やや幼さの残る顔立ち。クセのある黒い髪の毛。
年の頃十四、五の少年がほうきを投げつけた後の体勢で立っていた。
その少年の顔を見るなり、ふたりの表情が変わる。
男は忌々しそうに眉をしかめ、少女は驚きとともに目を見開く。
「優樹!?」
「日月!?」
互いの名を呼んだ後、続く言葉でふたりの声が重なる
「どうしてここに!?」
突然の驚きに一瞬だけ状況を忘れた日月が、すぐに気を取り直して叫ぶ。
「優樹。ここにいてはだめ!」
男に注意を払いながら、言葉だけを優樹に向ける。
「すぐにここから離れて!」
「またそれかよ!」
強い光に誘われて夜の学校へやって来た優樹だったが、聞こえてくる声や物音から誰かが争っているのを理解していた。
状況がわからないながらも、とりあえずは手近にあった武器になりそうな物――ほうき――を持ってこの場にやって来たのだ。
やがて息をきらせて走ってきた場所には、襲いかかる長身の男と小柄な女の子が居た。
本能的に男に対して牽制のつもりでほうきを投げつけた優樹だったが、一方の当事者がまさか探し続けた日月であるとは思ってもいなかった。
再び会えたことの喜びもあったが、それ以上にその場を包む張りつめた雰囲気を前に混乱を御しきれないでいた。
そんな優樹へ男が不機嫌に言い放つ。
「ふん。またお前か?」
「あの時の!」
三日前、廃材置き場で日月を襲っていた男だと気づくのに時間はかからなかった。
男は心底うんざりした様子で、面倒くさそうに告げる。
「とことん邪魔をするやつだな。……やっぱり死んどくか?」
その声色と男の視線に、優樹の背筋を冷たい汗が流れる。
「やめて! 優樹は関係ない!」
「はんっ。そいつもしょせんはクズのひとりだ。この時代のな!」
言い終わるのを待たずして、男は優樹へ向けて駆けはじめる。
「やばっ……!」
その手に刃物を持って向かってくる男を見て優樹があせる。
十メートルほどあった彼我の距離はまたたく間につめられたが、優樹の足は地にぬいつけられたように動かない。
この時代の人間は大部分がそうであるように、優樹にしてみても刃物を持った人間に襲われたことなどあるわけがない。
いきなり刃物で襲いかかられて、冷静に回避行動を取れる者などそうそういないであろう。
ろくにケンカもしたことのない中学生ならなおさらだ。
これまで感じたことのない危険への恐怖。
その恐怖が優樹の四肢を鉛のごとく重くしていた。
動かない優樹を見た日月は、手に持った閃光弾をとっさに優樹の後方へ投げこむ。
着弾と同時に放たれたまばゆい光線が、優樹に向かっていた男の視神経を襲った。
「ちっ!」
突然の光に狼狽する優樹だったが、それをきっかけとして体の自由を取り戻した。
目を覆いながらでたらめに刀を振り回す男を迂回し、日月のいる場所へと走り寄る。
「今のうちに逃げよう!」
「今のうちに逃げて!」
ふたりの声がまたも重なった。
いらだちを抑えつつも優樹が日月に言う。
「馬鹿! お前も逃げるんだよ!」
そこへ閃光弾のダメージから回復した男の声が届く。
「くっそ! ふざけやがって! とことん邪魔するんだな、お前! 先にお前からやってやるよ!」
「自分の言ってることがどういうことかわかってるの? 重犯罪ってわかってるでしょ?」
日月が優樹をかばうようにして進み出る。
「犯罪だあ? 関係あるか! クズがどれだけ死んだところで!」
「時間への干渉も、この時代の人間を傷つけることも、全部許されないことよ!」
「はっ! これは天罰だ。自分たちがこの世界にどれだけ不要な存在か、考えようともしない奴らへの」
「それはボクたちが決めることじゃない!」
「決める必要は無い。とっくに結論は出ている」
日月の声は男には届かない。耳には届いていても心にまでは決して響かない。
「お前にだってわかってるだろう? この時代のクズどもが、ただいたずらに消費し、自らの行いを省みることなく地球を食いつぶしていく寄生虫だってことくらい」
男の目に映るのは先ほどまで満たされていた狂気ではなく、憤りの小さな炎。
「日々の快楽に流され。にじりよる暗い未来から目をそらし。警告を発する者たちに後ろ指を指して耳をふさぎ。知るべき責任を軽視したあげく放棄する。その結果、この星がどれほど疲弊したか……、知らんとは言わせんぞ!」
「なん……だよ、それ」
それまであっけにとられていた優樹が腹立たしげに口を挟む。
「さっきから黙って聞いてりゃ、言いたい放題勝手なことばかり」
優樹には男が何を言ってるのかよくわからなかった。
だが一方的に非難されていると言うことは何となく感じていた。
もちろん男が非難している人間には自分も含まれているのだろう。
そう考えるとふつふつと怒りがこみ上げてきた。
「まるでこの時代に生きてる人間が全員悪いみたいじゃねえか!」
「悪いんだよ。生きてるだけで!」
とっさに男が吐き捨てるように言い返す。
「だから死んでくれよ……、俺たちのためにさあ!」
右手に握った刀を振りかぶる男の動きを見つめながら、優樹は自分自身を叱咤する。
動け! 避けろ!
何をやっているんだ! 俺の体はなんで動かない!?
優樹の両目は襲いかかる男の凶器に釘づけになり、その動作の一部始終が視覚を通して脳に漏らすことなく伝えられている。
だがそれだけだった。
男から遠慮なくぶつけられる敵意にさらされ、命の危険を感じながらも身じろぎひとつできない。
恐怖は感じる。
しかし何か他人事のような、映画の一場面に見入ったかのごとく現実感が薄かった。
怖い。
あの刀は本物か?
怖い。
本気で斬るつもりなのか?
怖い。
これは夢? 現実?
怖い。
あんなのに斬られたら痛いよな?
怖い。
殺される……のか?
怖い。
怖い。
怖い。
優樹の頭が一瞬で情報を整理する。ただ体がそれについていかない。
その時、横から手が伸びてきて、強い力で優樹の体を引っぱった。日月だ。
日月に引かれ、優樹はようやく体の自由を取り戻す。
体勢を崩しながらも身をひるがえすことに成功したその横で、刀が地面にぶつかり重い音をあげていた。
男は本気で優樹へ斬りかかっている。脅しや牽制ではなく、本当に殺すつもりなのだろう。
そう考えたとたん、優樹の背中を冷たいものが駆けあがっていった。日月が腕を引いてくれなければ今頃どうなっていたかわからない。
日月は優樹の腕をさらに引き、大ぶりで体勢を崩している男から距離を取る。
「やめてよ! この時代の人たちを害して、それで何かが解決するわけじゃないでしょ?」
「病原菌が減れば少しはマシになるだろうさ」
「だからなんで最初からそう決めつけるの? あなたが言うような人たちばかりじゃない! この時代の人たちの中にも未来を本気で考えている人はたくさんいるのに!」
「口先だけなら何とでも言えるだろうさ! 心配するふりもな!」
忌々しそうにツバを吐き出す。
「だが結局、一部のクズが声をあげたところで、大部分のクズどもは聞く耳ももたない」
「ずいぶんな言いようだけどな」
距離を取って多少心を落ち着けた優樹が反論する。
「世の中お前みたいが言うような悲観主義者や馬鹿ばっかりじゃないだろうが!」
「理解していても、目先の利益を追い求めて問題を先送りしてれば、何もしないのと同じだ!」
男が優樹をさげすんだ目で射抜く。
「だったら聞くが、お前は今の生活を捨てられるのか?」
瞬間、優樹には男の目から再び狂気が消えたような気がした。
「腹が減ったから飯を食いたい。暖かい布団で眠りたい。新しい服を着たい。毎日風呂に入りたい。人として生きる以上、当然の欲求だろうさ。……だがな」
そして男の目に浮かぶのは怒りと憤り。
「何の苦労もせずにそれが与えられることを、少しでも疑問に感じたことがあるのか? そんな欲求の裏側で何が犠牲になっているのか考えたことがあるのか? その欲求がどれだけ傲慢な要求であるか気づいているのか? それが当たり前だと思ってること自体が罪なんだよ!」
「当たり前だなんて、思っちゃ……いないさ」
嘘である。
反論する優樹の声は弱々しい。男の言うことが図星であったからだ。
「口では何とでも言える!」
男はなおも突きつける。
「事故や災害のニュースを見て、日々の幸せを再認識だあ? はんっ! 現実を目にして、やっとそれまでの自分が恵まれていることに気づいても……、それじゃあ遅すぎる! 自分の目で確かめたあとに初めて気づいても、もう手遅れなんだよ!」
優樹は何も言えなくなっていた。
自分が特別悪人だと思ったことはない。
情の薄い人間だと思ったこともない。
普通だと思っている。
自分の周りに居る人間と、個性の違いはあれど価値観や考えが大きくズレているわけではないと思っていた。
だが男はその『普通』を糾弾しているのだ。
「その頭の中に少しでも脳みそが入ってんなら、クズなりに必死こいて動かして考えてみろよ!」
押し黙った優樹に代わって日月が男に答える。
「どんな理由があっても、この時代の人たちを傷つける免罪符にはならないでしょう」
「そんなものはいらん。結果はあとからついてくる」
「でもそれがボクたちの時代に良い結果をもたらすとは限らない」
「害悪が減るんだ。悪い結果になるわけがない」
「むちゃくちゃだよ!」
「むちゃくちゃなのはこの時代のクズどもだ!」
男は全く耳を貸そうとしない。
「お願いだからやめてよ……。なんでわかってくれないの」
「お前こそ、どうしてわからない」
日月と男の会話は平行線だった。
どうにかして男を説得しようとする日月の様子に、優樹は二人の間にある何らかのつながりをおぼろげに感じていた。
日月の必死さは単に男の蛮行を許せない正義感から来ているわけではなさそうだった。
男が日月に向ける眼差しは、優樹に向ける敵意と明らかに異なる。
「日月。正直まだ俺も混乱してるけど……、あいつは話せばわかるって相手じゃなさそうだぞ」
「でも……、でも!」
「そこのクズ。いいかげん部外者が余計な口を挟むのはやめろ」
しかし優樹に向ける視線は突き刺さるように冷たい。
「こんだけさんざんに襲いかかっといて、部外者もクソもあるかよ」
「家族の問題に口を挟むなと言っている」
男の言葉に優樹の思考が一瞬止まる。
「は……? か……ぞく?」
まぬけな声で優樹の口から言葉がもれる。
「そこにいる日月は俺の娘だ」
「え?」
あっけにとられる優樹。
日月が優樹と同じくらいの歳と考えると、親というからには自分の両親を思い描いてしまう。
だが男の外見はどう見ても高校生がいいところで、どれだけ若く見えたところで三十代や四十代にはとうてい見えない。
「本当なのか?」
「…………うん」
確認する優樹へ目を向けることなく、日月がうつむき加減に頷く。
「だからこれは部外者のお前がしゃしゃりでる問題じゃない」
戸惑う優樹へ男が最後通牒を突きつける。
「今回は日月に免じて見逃してやる。だから失せろ」
「だからって……、日月ひとりを危険な目には……」
「クズの頭はやっぱりクズか。自分の娘に危害を加える親がどこにいる? お前さえさっさと失せれば、手荒なことをする必要も無えんだよ」
「優樹。ボクからもお願い。ここから離れて」
日月ですら男と同じことを言う。
「優樹を危険な目にあわせたくない」
日月の表情からは心底優樹を気遣っているのがわかった。
「ボクはあの人の娘だから……、大丈夫だけど」
だがそれ以上に次の言葉が優樹の心臓に見えない矢を突きたてる。
「たぶん、あの人はこの時代の人間には容赦しないと思う」
またも優樹の背筋を冷たいものが駆けぬけた。
全力の一太刀を浴びせられそうになった恐怖が甦ってくる。
そしてその瞬間に、優樹の中で張りつめていた何かが崩れた気がした。
「ボクひとりなら大丈夫」
時間にして数秒。
だが二人にとって長い沈黙が過ぎ去った後、優樹が小さくつぶやく。
「……………………わかった」
優樹は一歩、また一歩と校門に続く道へと後ずさる。
男と向かい合わせで対峙する日月の後ろ姿から目を離さず、さっきよりも心持ち重くなった自分の心を引きずりながら。
十歩ほど下がり、優樹は身をひるがえして歩き始めた。
振り向く瞬間に見えた男の表情は、どことなく憮然としているように見えた。
優樹が立ち去りその姿が完全に見えなくなると、男が口を開く。
「やさしいなあ、日月」
「……」
もっとも、と男は話し続ける。
「どうせ逃がしたところで、クズどもに明日の朝日を拝ませるつもりは無いがな」
嫌らしい笑みを浮かべた男が日月に向かって言う。
「この町は夜になると山から海に向かって良い風が吹く。山に面したこの場所からこいつをバラまけば……あっという間に五万匹ほどのごみ掃除が完了だ」
そう語る男の手には透明な容器が握られている。
容器はアンプルのように口がない密封されたタイプで、中に濃い色の液体が入っていた。
だが頼りない月明かりでは液体の色すら判別出来ない。
当然中身を推測するのも難しい。
ただ昼日中であればいざしらず、暗がりの中でおそらく狂気に支配されているであろう人物が持つだけで、それが日月にはとても不吉な物に思えた。
「させるわけないでしょう。そんなこと」
「さっきのクズを守るためにか? やれやれ、一人前に色気づきやがって」
肩をすくめた男が軽く首を左右に振りながら言う。
「じゃ、折檻の続きだな」
男は容器をズボンのポケットにしまうと、砂ぼこりで汚れた刀を両手で握りなおす。
「無理せずに早めに接続切って帰れよ。複製体と心中なんて、馬鹿のやることだ」
その刹那、日月は目の前の男から娘の身を案じる父性を感じた。
だが次の瞬間、刀を振りかぶった男の目はやはり疑いようもない狂気に浸食されていた。
2021/04/01 誤字修正 一降り → 一振り
2021/04/01 ルビ不備修正 忌々しそうに
※誤字報告ありがとうございます。