第十六話
「お砂糖きらしちゃったのよ。悪いけどコンビニまでちょっとお願い」
日月と別れて自宅に戻った優樹を待ち構えていたのは、台所で晩ご飯の準備をしていた母親だった。
普段は夜遊びを一切許可しない母親だが、もう中学生なんだから、と都合の良い時だけ優樹を大人扱いする。
いつもならこの時間に外へ出かけようとすると、子供が夜遊びするんじゃありません、と言って外出を許可してくれない。
一方でやれ醤油がなくなっただの、やれ味噌が足りないだの、そんなときだけは優樹をコンビニへ走らせるのだ。
「納得できねえ」
とはいえ拒絶するのも気が進まない。
実は以前、一度だけお刺身用の醤油を頼まれた時に面倒だからと拒否したことがある。
その結果、腹を立てた母親は報復として醤油なしで刺身を食卓に並べるという暴挙に出た。
もちろん他のおかずは一切なかった。
一番の被害者はなんの落ち度もない父親だったのだが、優樹自身も大人とは思えない母親の意趣返しには辟易したものだ。
あの一件以来、懲りた優樹は舌打ちしながらもしぶしぶとおつかいを請け負うことにしている。
家から一番近いコンビニへ歩いて向かっていた優樹が、その音に気づいたのは偶然のことだった。
住宅がある区域から少し離れたところにある廃材置き場。
さびついたトタンで囲まれた敷地の中からは鉄の匂いが漂ってくる。
昼間は騒音につつまれる場所だが、日が暮れてからは日中の騒々しさがウソのように静まりかえる場所だ。
夜になれば物音ひとつすることのない、その敷地内から声が聞こえた気がした。
最初は気のせいかと思っていたが、立ち止まって耳を澄ませてみると確かに人の声が聞こえる。
何を話しているのかはわからないが、おそらく廃材置き場の作業員が残業して何か話し合っているのだろう。
そう考えて興味をなくした優樹はそのまま通りすぎようとした。
その時、トタンの向こうで耳障りな音を立てて廃材が崩れた。
あたりの静寂を突き破り、金属音が響きわたる。
「な、何が……」
ほんのわずかの間であったが立ち尽くしていた優樹が我に返る。
「けが人、が……」
例え昼間でも発生しそうにない大きな衝撃音。
まして今は月明かりに照らされた夜である。異常が起こっていることは明白だった。
廃材置き場で事故でも起こったのではないか?
だとしたらけが人がいるかもしれない。
優樹は状況を確認するために、トタンの壁に囲まれたその場所へと入っていった。
廃材置き場の中は想像していたよりも広く、意外にも整然としている。
だがその中にあってひときわ目立つのは、異常の原因であろう崩れた廃材の束だった。
積み上げられていた廃材が散乱し、土煙が上がるそばにはうずくまる人影がいる。
人影の無事を確認しようと駆け寄った優樹が見たのは、思いもよらぬ人物だった。
「日月!?」
優樹がほんの数時間前に別れたばかりの少女の名を呼ぶ。
「なんでお前が……! ケガしてるじゃないか!」
細く、あまりにも白い日月の腕ににじむのはいくつかの赤い筋。
「……優樹?」
優樹の姿を目にとらえ、刹那、表情を崩した日月だったが、すぐさま取り繕うと視線をそらしながら優樹に答える。
「何でもないよ……」
「何でもないわけあるか!」
あわてて携帯電話をポケットから取り出す優樹。
携帯電話を持たせるのは高校生になってから、というのが長谷川家の方針だったが、夜間におつかいを頼まれた時だけ特例として母親の携帯を持たされていた。
その特例がこんな形で役に立つとは。
優樹はちょっとだけ母親の配慮に感謝した。
「動くなよ! いま救急車よぶからな!」
「ボクなら大丈夫だから。早くここから離れて」
痛みに耐えながら立ち上がる日月が急かすように優樹へ告げる。
「何言ってんだ!」
「ここにいると危ないの! 早く逃げて!」
せき立てる日月の言葉に優樹が言い返そうとしたその時、日月達よりも高い位置から男の声がした。
「なんだ? いつの間にかクズが一匹迷いこんだのか」
積み上げられた廃材の上、その人物は立っていた。
周囲には灯りになる物がなく、月明かりは逆光の位置。
敷地外の街灯から届く弱々しい光ではその表情をうかがうこともできない。
ジャケットを身につけたそのシルエットからは、若い男であることがかろうじてわかるくらいだ。
「誰だ?」
誰何する優樹に対して、吐き捨てるように冷たく言い放つ。
「クズに用はない。失せろ」
「ああん?」
男が何者なのかはわからない。
だが友好的な相手でないことは確実だった。
反射的に優樹の口調も厳しいものになる。
「はははは! クズのくせに粋がってやがる!」
嫌らしい笑い声を響かせながら手を打ち、男が楽しそうに問いかけてくる。
「いっぺん死んでみるかあ?」
その言葉を聞いた優樹は背筋に冷たい氷を押し当てられた気分になった。
子供同士の口げんかでも、『死ね』と口にすることはある。
優樹ほどの歳になっても相手をののしる時にそういった言葉を使うことがある。
とはいえそれは言葉のあやであり、そこに本気の殺意はない。
だが優樹は目前の男が口にした言葉に、えもいわれぬ気持ち悪さを感じた。
一瞬たじろいだ優樹のそばで日月が叫ぶ。
「待って! この人は関係ないでしょ! この時代の人に危害を加えるのはやめて!」
「無関係……、とは言えないなあ。俺にとってはそいつも仇にすぎん。ただのクズが一匹だ!」
そう言うと男は足もとに転がっている鉄パイプを拾い、何の躊躇もなく頭上から飛びかかってきた。
「優樹!」
日月はとっさに優樹の体を引っぱり、ふたりして男の襲撃から逃れる。
「逃げて、優樹!」
至近距離からの声に我に返った優樹は、あわてて日月の手を引き出口へと走り出した。
「放して! ボクが一緒にいるときっと追いかけてくる!」
「だからってお前ひとり置き去りにできるわけないだろ!」
優樹は日月を連れて逃げようとするが、日月はそれを拒んで優樹の手を引き離そうとする。
わずかな時間の膠着。
男が体勢を整えるには十分な時間だった。
「逃げても良いぞ? ま、逃がさんがな」
挑発するように男が言う。
張りつめた雰囲気があたりを包み、奇妙な間が場を支配した。
同じ視線に下りてきた男が、敷地外の街灯から放たれる光に照らされる。
その時はじめて優樹の目にも男の姿が明らかになった。
見たところ優樹よりも少し年上、高校生といった風の外見。
身長は優樹よりもかなり高いが、ずいぶん線の細い青年といった印象を受ける。
整った顔立ちではあったが、特別美男子というわけでもない。
どこといって特徴のない顔だった。
だがその目に宿る、弱々しいとは言いがたい何かだけが優樹の警戒心を刺激する。
ありふれた言葉で言うならば、それはおそらく狂気。
普段ならば絶対に近づきたくない相手だということを、優樹の本能が警告する。
日月の手をつかんだまま、優樹は動けずにいた。
静まりかえった廃材置き場の中を、一歩ずつゆっくりと青年が近づいてくる。
逃げなければ、という理性とは裏腹に体が重い。
身じろぐようにしか動かない自分の足がまるで他人のもののようだった。
青年との距離が縮んでいく。
優樹の目にはまるでスローモーションのように見える、長くて短い数瞬の時間。
それは突如として終わった。
「ふん。時間切れか」
青年が不満げに吐き捨てる。
彼の視線の先には周期的に赤く光るコンクリートの壁。
赤い光源はその先から近づいていた。
廃材の崩れる物音を聞いて誰かが通報したのだろう。
赤色回転灯を光らせながら一台の車がこちらに向かってきている。
「まあいい。これに懲りたらもう俺の前に出てくるなよ」
その言葉ははたしてどちらへ告げられたものなのだろうか。
青年はパイプを投げ捨てると路地の暗がりへと消えていった。
パイプがアスファルトを叩きつける音に優樹も我に返る。
近づいてくるパンダカラーの車を視界に入れると、あわてて日月の手を握り直し、赤い光と逆方向へ走りはじめた。
しばらく無言で走り続けていたふたりだったが、やがて日月が足を止める。
握りしめていた日月の手を静かに解放した優樹が、口を開きかけた。
なんであんなところにいたんだ?
あいつはいったい何者なんだ?
いったい何が起こってたんだ?
投げかけたい言葉はいくつも浮かんでくる。
だが優樹の問いかけを妨げるように、先に日月が告げた。
「ボクなら大丈夫だから、優樹」
まっすぐに優樹の瞳を見つめ、普段は見せることのない真剣な眼差しを向けてくる。
「大丈夫って? 何がだよ。わけわかんねえよ」
「ごめん。優樹には…………」
一転して表情を曇らせた日月が、うつむいて申し訳なさそうに言葉を続ける。
「…………関係ないことだから」
「関係ないとか……、言うなよ」
かろうじて絞り出したその言葉こそ、以前とは異なり優樹にとって目の前の少女が憎からぬ存在に変わっている何よりの証だった。
だがその相手から向けられた拒絶の意思。
それが例え優樹を思っての言葉であっても、思春期の男子にとってはつらい反応だった。
「ありがと、優樹……。ごめんね、優樹……」
ショックを受けた優樹の前から、一歩、また一歩と少女が離れていった。
「もう……、迷惑かけないから……」
最後の言葉は果たして彼の耳に届いていただろうか。
呆然とする優樹に背を向けて、少女は走り去って行った。
翌日の優樹は不機嫌だった。
昨日の夜は唐突すぎて、何が何だかわからないまま事態だけが進んでしまったのだ。
だが一晩明けて冷静になった頭で思い返してみると、少しずつ腹が立ってくる。
日月にどういう事情があるのかはわからない。
しかしトラブルに巻きこまれている状態の相手に手をさしのべたはずが、そっけなく振り払われたのだ。良い気がするはずもない。
あげくの果てに関係ない、などという言いぐさだ。
考えれば考えるほど納得できないという思いがこみあげてきた。
「文句のひとつ、いや……」
ひとつどころじゃない。山のように文句を言ってやろう。
その上できちんと説明をさせる。そう心に決めて、いつものように玄関を出て行く優樹であった。
ここのところ日課となっている日月との待ち合わせ。
いつもの時間、いつもの場所で、特に約束をするでもなく、何の疑問も抱かずに歩いて行った。
いつでも会える。
会うのが当たり前。
会いたくなくても日月の方から勝手にまとわりついてくる。
そんなのは自分の勝手な思いこみだったと、優樹は身にしみて知ることになる。
その日、日月は来なかった。
いつもの時間、いつもの場所。
だがそこにはいつもいるはずの人物だけが欠けている。
待たされるのが嫌いな優樹にしては珍しく、あと三十分、あと十五分、と待ち続けた。
これが学校の同級生相手なら、三十分待った時点でとっくに家路についているだろう。
だがこの日の優樹は辛抱強かった。
待たされることへの怒りはもちろんあったが、それでも待った。
もう少しすれば来るだろう。
たまには遅れることもあるさ。別に時間だってたっぷりある。
特に用事もないしな。
自分で無理やりにでも理由を作って待ち続けていることに、優樹は気づかない。
結局、日が暮れるまで優樹は待ちぼうけを食らうことになった。
待たされたことに腹は立つ。
昨夜のこともあり、憤りはなおさらだ。だが優樹自身、不思議なことに怒りよりももっと強い感情に包まれていた。
それが悲しみにも似た寂しさであると気がつくのはしばらく時間が過ぎてからであった。
その翌日も日月が現れることはなかった。
ふたりを引きあわせたのがただの偶然であること。
そしてふたりを繋いでいたのがあまりにも頼りなく、そしてか細いものであったこと。
日月に会えなくなってからの優樹は、今さらながらもようやくそのことに気がついた。
そこに拡がるのは姦しい少女から解放されたという喜びではなく、心の底に染みこむ何かを失ったという欠落感。
日月が姿を消してから二日目の朝、優樹は早くから町中を駆けずり回った。
日月と最初に出会った場所、河原の土手、二人でいつも通った道、ハンバーガーショップ、海辺の堤防、遊園地……。だがそのどれもが徒労に終わった。
「連絡先くらい聞いておけよ……、馬鹿か俺は!」
過去の自分に罵声を浴びせ、それでも優樹には心当たりの場所を巡ることしかできない。
そして何も成果がないまま、夕暮れになるとあの丘へ足を向ける。
まぶしそうに目を細めて夕陽を見つめる少女はそこに居ない。
ただ、ひとりで眺める夕陽が優樹の寂しさをいっそう濃くするだけであった。
日月が姿を見せなくなって三日目。
優樹はやはり所在なく町をさまよい、そして心を重くしていた。
きっともう会えないのだ。
そんな考えが頭をよぎる。
最初は関わり合いになりたくもなかったはずなのに、いつの間にか自由奔放なあの娘から離れがたく感じている自分を知った。
驚く反面、心のどこかでは当たり前のことと受け入れている自分もそこに居た。
昨日と同じように方々をかけずり回り、夕方になると丘へ登って夕陽をひとり寂しく見送る。
日月と出会う前には、ひとりでこの場所から夕焼けを見ることも多かった。
単純にその景色が好きだったからだ。
今目の前にある景色はその時と同じであるはずだ。
むしろふたりで眺めていたのはほんの数日間だけのこと。
だが元に戻っただけなのに、どうしてこんなに寂しい景色に見えるのだろうか。
「あの馬鹿……、どこいったんだよ……」
ふたりで見た夕焼けはあんなにも美しく輝いていた。
だが今見える目の前の景色は、まるで赤く色あせた写真のように無機質にたたずんでいるだけである。
『ありがと、優樹……。ごめんね、優樹……』
『もう……迷惑かけないから……』
最後に聞いた日月の言葉。
そして泣き出しそうな彼女の顔。
それだけが優樹の脳裏で幾度も繰り返される。
どれくらいの時間が経っただろうか。
何をするでもなく太陽の就床を見届けた後、優樹は帰路につこうとした。
今日も徒労に終わったと、肩を落としてゆっくりと丘を下っていく。
だが歩き始めてほどなく優樹はふと足を止めた。
夜の帳が下りる中、足もとに注意を払いながら坂をおりる優樹の視界に、なにか光のようなものが映った気がしたからだ。
気のせいだったかもしれない。
一瞬のことであったが、強烈な光を放っていたそれは昼間だったら気がつかなかっただろう。
周囲に街灯もない山道だからこそ際だったその光が目に入った。
足を止め、瞬きをこらえながら優樹は周囲に目をこらす。
数秒後、またも同じような光が見えた。
今度はしっかりと目をこらしていた優樹にもわかるように、ハッキリと。
「学校……?」
光の見えた方向を見て、何気なくつぶやく。
優樹の記憶ではその方向には学校があるはずだった。
だが今は春休みの最中。朝昼と部活動の時間にはことかかない。
わざわざ暗くなってまで活動するくらいなら早朝から来ればいいだけの話だ。
では宿直の見回りか?
だがそれにしては光の強さが不自然すぎる。
わざわざこちらに向かって懐中電灯を振り回したとしてもあれほどの光は届かないだろう。
気になった優樹はすでに日が暮れつつあるのもかまわず、いつもの道を外れて学校寄りに丘を下りていった。