第十五話
あくる日の日月は明るい表情を取りもどしていた。
出会った頃ほどの快活さは無くとも、以前のように笑顔も見せるようになっていた。
元気を取り戻した彼女の顔を見て、ようやく優樹も違和感から解放される。
もっとも、その違和感が結局なんなのか本人にもよくわからないままだったが。
その日から再びふたりで過ごす時間が続いた。
公園のベンチに座り時間を気にせずたわいもない話をし、天気の良い日には河原でふたり仲良く寝そべってひなたぼっこ。
お腹がすいたらいつものファーストフード店で毎度おなじみのメニューを頬張る。
そして一日の終わりには丘をのぼり、飽きることなく夕陽を見送る。
それがふたりにとって一日の締めくくりだった。
いつもの丘で夕暮れを待つ。
少しだけいつもよりも早く来てしまったため、空を仰げばまだ一面の青色が広がっていた。
嬉しそうにそこら中の木々を見てまわる日月が、優樹に問いかける。
「ねえ、優樹。この木なんか変だよ? 葉っぱが全然ないのにつぼみだけついてる」
「あ? ああ、たぶん桜の木なんじゃないか?」
見ると木の根元には古ぼけた碑が建っている。
長い間風雨にさらされていたらしく、文字はぼやけて読みづらい。
どうやらずいぶん昔に、優樹の大先輩たちが卒業記念として植樹した桜のようだ。
さくら。
日本全国あらゆるところで目にすることができるバラ科の落葉樹。
それは日本人にとって特別な花らしい。
優樹自身も桜は決して嫌いな花ではない。
ただ、『好きか?』と問われると、それはそれで返答に困る。
大人たちは日常会話で桜をよく話題にのせる。
「もうすぐ今年も桜の季節ですね」
テレビでは天気予報とあわせて開花予想が連日流れている。
「サクラ前線も来週には関東まで北上してくるでしょう」
果たしてそこまで騒ぐほどたいそうなものなのだろうか、と冷ややかな目で見る優樹であった。
確かに桜の花はきれいだと思う。
だが花というのは基本きれいなものだし、桜以外にもきれいな花はたくさんある。
誰も彼もが桜を持ち上げるのが優樹には不思議でならなかった。
だから「今年は花見に行けなかったんですよ」と残念そうに語る大人を見ても、その無念がちっとも理解できない。
テレビの中継で桜を見上げながら大騒ぎする人たちを見るたびに思うのだ。
桜が咲かなきゃ、どうせ別の理由をつけて騒ぐだけなんだろう、と。
なんにせよ、こんな山の中にわざわざ卒業記念を植えるなんて酔狂なことだ。優樹はそう思う。
しかし記念の証を残した大昔の卒業生達が、この場所を彼と同じように大切に思っていたであろうこと。むしろ優樹にはそのことの方が嬉しかった。
「これが桜?」
「見るの初めてか?」
「うん。話は聞いたことがあるけど。実物は初めてかな」
不思議そうな表情を浮かべ、日月が桜のつぼみを見つめる。
「すぐに散っちゃうなんて、ちょっと悲しいけど」
日月はしばらくつぼみを観察して無言になった後、細く色白な首をわずかに傾げながらつぶやいた。
「でも花が散った後に葉っぱがひらくなんて、不思議だね」
「まあ、確かに不思議だよな。おっちょこちょいなのか、それかマイペースなのか……」
優樹の脳裏に妙なイメージが浮かぶ。ドジっ娘属性の女の子が、『はわわわ。また間違って先に花だしちゃった~』と慌てふためいているという光景だ。
そんな妄想にふけりかけた優樹が日月の言葉で現実へと引き戻される。
「ボクはさ、ただ優しいだけなんだと思うよ」
「優しい?」
意味のよくわからない優樹が反射的に問いかける。
「やっと春がきたよ。つらい季節がようやく終わったよ、って」
視線を桜の木へ向けたまま、日月はゆっくりと言葉を重ねる。
「本当はすぐにでも葉を繁らせて日を浴びたいのに、みんなを元気づけようとして、無理して力一杯咲いてくれてるんじゃないかな」
やわらかい微笑みを浮かべながらそっと桜の木に手をそえる。
「きっと優しいんだよ。この木は……」
そう言うと日月は振り向いて少年へ満面の笑みを向けた。
「優しい木。……優樹と一緒だね」
「お前そういうのがホント好きだよな」
あきれた調子の優樹が言葉を返す。
「咲いたところ見てみたいなあ。きれいなんだろうなあ」
「もうじき見られるさ。まぁ、つぼみも開きかけてるし、今年は開花が遅いって話だったけど、あと十日もすれば満開になるんじゃないか?」
「そう……、なんだ……」
優樹の記憶を消すまでの期限は一週間も残っていない。
その後はおそらく即座に帰還することになるだろう。
十日後にはこの場所にいられない自分の立場を思い、日月は内心暗い気持ちに包まれた。
そしてひとりごとのようにこぼす。
「満開は無理でも……。ギリギリまで……」
もちろん優樹も期限のことには気がついている。
だがもともと日月の話を信じる気持ち半分、疑う気持ちも半分であった。
案外、期限が過ぎてもふらりと目の前に現れるんじゃないか。
そんな思いがぬぐえなかった。
やがて太陽が傾き、夕暮れとなる。
雲ひとつない空を、水色とくちなし色のグラデーションが鮮やかに染めあげた。
この日の夕焼けはあまり情熱的な色ではないようだった。
「毎日見てて飽きないか?」
「ぜんっぜん! 何度見ても飽きないよ! すごくきれいだもん!」
「まあ、そこまで喜んでもらえるなら、連れてきた甲斐があるってもんだ」
夕焼けを見て喜ぶ日月の様子に、優樹はまんざらでもないようだった。
「この場所、俺のとっておきだからホントは誰にも教えたくなかったんだけどな」
初めて日月をこの場所へ連れてきた日を優樹は思い出し、ひとりごとのようにつぶやく。
「まあ……。ちょっとでも気分転換になればって……」
すぐそばで夕陽を見つめ続ける日月の耳にもその言葉は届いていた。
だが返事はしない。
毎日違った顔を見せる目の前の絶景に見とれていたからではない。
その話題に触れられたくなくて無言をつらぬいたわけでもない。
ただ口を開けばおさえている感情が溢れてしまいそうだったからだ。
決して口にはしないが、ずいぶん優樹に迷惑をかけていることを日月も自覚していた。
転送直後にたまたま出くわしただけ。
ただそれだけなのに、自分の都合で引っ張り回している。そして記憶を消そうとしている。
そんな自分に悪態をつきながらもつきあってくれる優樹。
落ちこんだ自分を元気づけようと、戸惑いながらも手をさしのべてくれる優樹。
日月にはそんな優樹の優しさが嬉しかった。
同時に優樹の優しさに寄りかかっている自分を感じて少しだけ怖くなった。
桜の話題以降、いつもより微妙に静かな空気に包まれながら夕焼けを眺める。
日月はタイムリミットを改めて思い返すことで気分を落ちこませ、そんな日月の雰囲気を感じ取った優樹も少しだけ気持ちを重くしていた。
そのこともあってか、帰途につく機を逃したふたりが気づいた時、既に東の空は深い藍色に呑みこまれつつあった。
「優樹。暗い」
普段は暗くなる前に帰っているため、灯りになるような物は何も持ってきていない。
「ちょっと長居しすぎたな」
夜のとばりが下りるのは思いのほか早かった。
周囲の木々で町からの灯りが遮られることもあって、ふたりは暗い道をいつも以上にゆっくりと進んでいく。
「優樹。道が見えない」
中学入学以前からこの道を幾度となく通い、慣れている優樹にはなんてことない。
だが日月は数日前に初めて訪れたばかりだ。
不慣れな日月にとってはつらいだろう。
「優樹。怖い」
心細そうに少女の声。
「しょうがねぇな、手貸せ」
「あ……」
優樹が日月の手を取る。
足もとを入念に確かめながらエスコートするように少しずつ日月の手を引いて進んでいく。
「えへへ、やっぱり優樹は優しいね。うんうん、だって優樹だもんね」
先ほどの不安そうな声とはうって変わり、楽しそうな、嬉しそうな、それでいて我が事のように得意げな調子の声だった。
月明かりも街灯の光も届かない暗闇の中、しかも視線は下っていく道にむけられていたが、見えずとも優樹にはその表情が浮かんでくる。
いつものように誇らしげに笑ってみせる日月の顔が。
暗い山道。手を引かれて歩を進める日月の心は揺れていた。
桜の話をした時、記憶消去期限という現実が待っていることを改めて突きつけられた。
文化調査士としての責務。
今回の調査で得なければならない最低限の実績。
次回につなげるための布石。
それとは別に個人的な理由で追っている人物のこと。
問題はいくつもある。
だが一番思い悩んでしまうのは、優樹の記憶を消去することだ。
本来なら些細なトラブルの後始末にすぎない。
話し合って同意が得られればそれで良し。
同意が得られないなら譲歩案を提示する。
それでも合意できないなら強制消去。
この時代の人間を無力化する方法ならいくつかある。簡単なことだ。
今になって思う。
どうしてあの時すぐに記憶を消してしまわなかったのだろう。
都合が良いからと、自分の楽しみにつきあわせることを思いついたのだろう。
強制消去をしていればこんな気持ちに思い悩むこともなかったはずだ。
だが結局のところ、期限が来れば強制的に記憶消去をせざるをえない。それが調査士としての義務である。
例え日月がしなくとも、監督官や治定官が滞りなく消去してしまうだろう。
そして義務を果たせなかった日月には二度と時間を越えることが許されない。
優樹の手のぬくもりを感じながら、日月はひとり沈んでいた。
初めて知った人のぬくもり。
疑似体験では無い、本当の血が通った温かさ。
この温もりを失いたくない。
いつからだろう。消去期限が来て欲しくないと思うようになったのは。
いつからだろう。優樹をただの遭遇者ではなく、ただの現地案内人でもなく、ひとりの男の子として意識するようになったのは。
ずっとこの手を離したくない。
だが日月の思いとはうらはらに、優樹の記憶を消去する期限はすぐそこまで近づいていた。