第十四話
翌日の日月は一目で見てわかるほどに暗く沈んでいた。
突然取り乱した前日の日月。
一晩中気になってはいたが、原因もわからない優樹にはかける言葉も思い浮かばない。
たまたま昨日は情緒不安定になっていただけで、今日になればいつもの日月が晴れやかな笑みで待ってくれている。
優樹のそんな勝手な期待は見事に裏切られた。
「どうしたんだよ? らしくないな」
「……」
「ほれほれ、日月の好きなポテト」
「うん……」
「揚げたてサックサクのポテトだぞ」
「ん……」
昨日と同じファーストフード店でいつものように食事をしているのだが、どうにも調子が狂う。
あれほどご執着だったハンバーガーやポテトを前にしても日月は意気消沈したままだった。
優樹は懸命に日月の関心を誘おうとするが、返ってくるのは生返事だけ。
越権行為うんぬんのやりとりなど知るよしもない優樹にとって、日月の落ちこみは昨日見たニュースが原因としか考えられない。
「なあ、昨日見たニュース気にしてるのか?」
それまでどこか心あらずだった日月は、優樹の問いかけに一瞬体を硬直させる。
「確かにショックな事件だけどさ。お前がそこまで気に病むことはないだろ? きっともうすぐ犯人も捕まるって」
日月の気を晴らそうとしてかけた言葉だったが、それを聞いたとたんに日月の目尻に光るものが浮かんでくる。
優樹は背筋が凍りついた。
これはまずい。
昨日も往来でつき刺さる視線にさらされたが、今はもっと状況が悪い。
店の中は多くの客でにぎわっている。
こんなところで逃げ場のない窮地に立たされるのは……、どうにもまずい。
あわてて優樹は話題をそらす。
「きょ、今日はどこに行こうか? ど、っか行きたいところあるか?」
首を振る日月。
そこには昨日まで優樹を引きずり回していた、元気印弾丸娘の面影はまったくない。
「あ、あ、じゃあ、今日は俺の行きたいところへ行くぞ」
まずはこの場から逃げ――いや、場所を変えて気分転換をするのが優先とばかりに、優樹はどもりながら日月をうながす。
「うん……」
半分泣きっ面の日月は、これまた半分挙動不審な優樹に連れられてお店を後にした。
見ようによっては非常に問題のある光景だったが、呼び止める者がいなかったのはふたりにとって幸いなことだったろう。
それからの時間、優樹が日月の手を引いて町を案内していった。
いつもと真逆の立ち位置に違和感を覚える、そんな余裕すら優樹にはなかった。
知り合いに見られたらどうしよう、とあせる余裕ももちろんない。
日月の手を引きつつ、優樹はなんとかいつもの日月を取り戻そうと町を歩き回る。
出会った頃の優樹ならきっとこう言ったことだろう。
「これでようやく振り回されずにすむじゃないか。なんでわざわざそんな面倒なことしてるんだ?」
確かに理屈ではそうだろう。
だが今の優樹は日月に元気を取り戻すことが何より大事に感じられた。
どうしてかと問われても、きっと優樹自身にも答えようがない。
調子が狂う。
気味が悪い。
しっくりこない。
落ち着かない。
どれもあてはまるようでいて、どれも違う。例えようのない違和感。
斜に構えたところのある優樹であっても、落ちこんだ少女を前にして損得だけで動くほどささくれてはいないということだろう。
いくつかの場所へ行き、気持ちの上では非常に長い時間が流れた後、優樹は日月を連れて草覆い繁る坂道を登っていた。
すでに陽は傾き、もうまもなく空が赤く染まろうかという時間帯。
ふたりは優樹が通う学校の脇をぬけ、いまだ自然の林が残る山道を進んでいった。
十分ほど歩いた頃、やがて視界が開けていく。
さえぎる物のなくなったその場所は、ちょっとした天然の展望台だった。
眼下には優樹が住む町並みが広がっている。
町並みの向こうには沈もうとする太陽の光を受けて色付く海原。
そして水平線を挟んでどこまでも続いていく空と雲があった。
すでに知り尽くしたと感じているこのちっぽけな町ですら、見る場所を変えるだけで広大なパノラマの大事な一部としてこんなにも輝きはじめる。
視線を横に向ければ、学校の校庭で部活動にいそしむ少年少女たちが目に入った。
吹奏楽部の部員が無秩序に奏でる楽器の音色を背景音楽に、全力でトラックを駆ける運動部の精鋭たち。
まどろみにも似た時間がゆっくりとふたりを包み流れていく。
優樹たちは言葉を交わすこともなく、温かなその流れに身を任せてたたずんでいた。
やがて陽光が色を強め、ふたりの影がそれぞれの身長を超えた頃、西の空はどんな芸術でも超えることのできない光景をもたらした。
「きれい……」
思わず日月がつぶやく。
「すごいだろ? 俺がガキの頃からよく来るとっておきの場所なんだ」
少しずつ沈んでいく太陽が、刻一刻と留まることなく町を赤く染めあげる。
そこに一瞬として同じ光景はない。
空に広がるちぎれ雲は下から照らされ、まるで緋色の海に浮かんでいるようにも見える。
やがて太陽の手がはるか遠くの稜線に届くと、その美しさは最高潮に達した。
それを見る日月の目が次第に潤みはじめる。
「こんなに……、こんなにきれいなのに……」
一秒ごとに変わっていく景色が、この世界は生きていると感じさせてくれる。
太陽も、空も、風も、大地も、海も、草花も、誰ひとりとして声高に叫んだりはしない。
だがこの光景こそが彼らの声にならない語りかけなのだろう。
「どうして……れな……」
「えっ?」
すぐそばにいても聞き取れないほど小さな声で日月が言葉をもらす。
半分沈みかけた夕陽に意識を取られていた優樹にはその言葉を聞き取ることができなかった。
「ううん……、ごめん。何でもないの」
首を振って優樹に返事をした日月の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
だがその涙には昨日流したものとは明らかに異なる意味がこめられている。
「ありがと、優樹」
まっすぐに夕陽を見つめたまま、日月が言う。
「ボク、この時代に来ることができて本当に良かった」
そう言ってゆっくりと優樹の方へ向けた日月は、一日ぶりの微笑みを浮かべていた。
「こんなすばらしい景色が見られた。それだけで。……うん、これだけでもここへ来て良かったって……」
夕焼けを背景に日月が満面の笑顔になる。
少し赤みがかった髪に夕陽が差しこんで淡く透けて見えた。
そこにいたのはさきほどまでの深く落ちこんだ女の子でもなく、昨日までの傍若無人な弾丸娘でもなく、生き生きと自ら輝きを放つ日月という名の少女だった。
優樹は素直に思う。
きれいだ、と。
緋色に染まった視界いっぱいに映し出される目の前の少女。
それを見た優樹は、いつもの癖でタイトルをつけようとして――。
すぐにあきらめた。