第一話
世界で一番読者の多い本に書いてあるらしい。
人は生まれてきた瞬間に罪を背負っていると。
中学生の優樹にはよくわからない。
だが生まれただけで罪人扱いされるなど、正直納得しがたい話である。
人間である以上、生きていれば大なり小なり罪を犯すだろう。
法律に触れるほどの罪ではなくても、例えば嘘をついて人を悲しませるといったくらいの小さな罪くらいは。
だから自分が清廉潔白な善人だとは優樹も思ってはいない。
ただ、身に覚えのないことで非難されたり糾弾されるのを、甘んじて受け入れるつもりはないだけだ。
だから、必死の形相で追いかけてくる少女を振りきれない、という今の状況は不本意きわまりなかった。
そんな優樹の頭の中は、ほんの少しの疑問と九割方の混乱で今にもあふれそうになっている。
彼は今、ひとりの少女に追われていた。
冷静に考えれば逃げるほどのことはしていないはず。
だが不思議なもので、一度逃げ始めてしまうと立ち止まるきっかけというものがない。
だから走り続けている。
最初のうちこそ「ねぇ! ちょっと待ってよ!」とやさしい口調で呼び止めていた少女だった。
だが聞く耳を持たず遁走する優樹に業を煮やしたのか、飛んでくる声も少しずつ剣呑になってきている。
「待ちなさーい!」
「いいから止まりなさいよー!」
「待てって言ってんでしょ! こらーっ!」
こうなるともはや理屈ではない。
待てと言われて待つ人間はあまりいないし、いたとしてもたぶん長生きはできないだろう。
そうしてできあがった、古今東西いたるところで見かけられる『追う者』と『追われる者』がひとそろい。
追う側にはそれなりの理由があるのかもしれないが、追われる方には理由がない。いや、理由がわからない。
そもそも理由がわかったとしても素直に立ち止まりたくない。
わけがわからなくても身の危険だけは本能で理解できてしまう。
追われるから逃げている、ただそれだけだった。
加えて優樹の予想以上に、少女は諦めが悪いようだ。
困惑と混乱と動揺というありがた迷惑な三重奏に包まれながら、優樹は河原の土手道をただひたすらに走り続けていた。
道行く人々が不思議そうに優樹たちに目を向ける。
中には微笑ましげに口元をほころばせる中年女性もいた。
友達同士、あるいは幼い恋人同士の痴話げんかと勘違いでもしているのかもしれない。
冗談じゃない。
逃げているうちに、そんな不満を感じられる程度には優樹も冷静さを取り戻していた。
だがその平常心が続いたのも、走りながら後ろを振り返るまでのわずかな時間だけだった。
様子をうかがうため、背中越しに視線を向けた優樹は絶句する。
「なっ……!」
優樹の記憶では、ついさっきまで少女との間に確か二十メートルほどの距離があったはずだ。
しかし、その時優樹の目に映ったのは思いもよらない光景。
わずか三メートルにまで迫り、今まさに獲物を捕食せんとばかりに飛びかかろうとする少女の姿だった。
決して優樹の足が遅いわけではない。
確かに陸上部員やサッカー部員には負けるかもしれないが、同年代の全国平均よりは相当速い方である。
実はそれなりに自信があった――今の今までは。
「捕まえたっ!」
少女が高らかに告げると同時に、優樹の腕が彼女の細い右手につかまれる。
瞬間、視界がぐるりと回転した。勢いあまってバランスを崩した少女が、優樹を巻きこみ地面に倒れこむ。
砂ぼこりの舞う中、ヒジや手のひらをしこたま打ちつけた痛みに顔をしかめて優樹は目を開く。
だが、うつぶせに倒れた体勢で背中に何かがのしかかったような重みを感じると、何とも言えぬ不安にかられ、さらに顔をゆがめた。
確認するまでもない。
優樹の背中にまたがっているのは、先ほどから追いかけてきていた少女以外には考えられなかった。
懸命に息を整えようとする二人の呼吸音だけがその場を支配したのはほんの数秒。
すぐに少女の口から怒濤のように言葉があびせられる。
「見たでしょ? 見たのよね? 見たんだわ! あぁ! なんでなんでなんで!! 最初の最初でいきなりこれってないじゃない! ボク何か悪いことした!?」
まくしたてる少女の嘆きも、優樹にとっては何のことだかさっぱり理解できない。
ただ一つはっきりしていることがある。
少女の口から呪詛ともとれるような言葉が飛びだすたびに、両手でがっちりとホールドされた優樹の頭が前後にゆさぶられていることだ。
全力疾走のあとで脳への酸素供給が不足している今、ゆさぶられるたびに優樹の意識は遠のきかけていた。
しばらくブツブツとつぶやいていた少女だが、息が整い少しは落ちついたのだろう。
自分の下敷きになったまま首だけで振り向いた少年にこう切りだした。
「いい? 逃げないでよ? ちゃんと話を聞いてよ? いい?」
念を押す少女へうなずくことで承諾の意思を伝えた少年は、よせば良いのに余計な一言を口にしてしまった。
「わかったよ……。わかったから早くどいてくれるか? 重くて苦し――」
「女の子に向かって『重い』は禁句ーーっ!」
背中に馬乗りされた状態では避けられるわけもなく、優樹はこめかみに渾身のチョップを受けて側頭部を地面に沈められた。