夢
新たなる始まりへ
昼時近くの研究室。柔らかなそよ風が、窓際の机で眠る私の前髪を揺らす。
どうやら、頼まれた書類の整理中に眠ってしまったらしい。身体を起こすと、肩に薄いシルクのカーディがかけられていた。
『おぉ、お目覚めかね?リーリエ=スクルド=ミディム君。』
声をかけてきたのは、この研究室の主にして、学園で一番若い教授である、アーサー=セルキー先生だ。彼は壁際の椅子に座り、本を読みながらティーカップを口元に運んでいた。
『せ、先生っ、いつからそこにいらっしゃったんですか?起こしていただいてよかったのに……。』
『あはは、すまなかったな。あまりにも気持ちよさそうに寝ていたものだから、つい。』
私は先生のその言葉に悪戯に顔をしかめてみせた。
『あら、いくら先生と言えど、殿方があまり無防備な乙女の寝顔を見るのは感心いたしませんね?』
『おぉ、コワいコワい。肝に銘じておくとするよ。』
二人の笑い声が部屋に満ちる。私は先生の研究生として、去年からこの部屋を共用研究室として宛がわれている。暖かな季節風が吹き始めるこの頃は、よく窓を開けたまま作業をしている。
『しかし、ミディム学生会長さまが、研究室で居眠りとは珍しいね?』
『元会長です。……そうですねぇ。私も居眠りをしたのは久しぶりです。』
『そろそろ“聖霊降臨祭”も近いからね。こっちの仕事をいろいろ頼むことが増えてしまって、君の研究に時間を割けなくて申し訳ないと思っている。』
『そんなっ、先生だって相当お忙しいはずですから。』
< 聖霊降臨祭 >
ビンセント・ガーナの国を挙げたお祭り。もともとは春の花々の開花を祝う祭りで、人間が聖霊から“マナ”を授かった日とも言われている。この学園では、“洗礼の儀”を催し、学園に通う2年生(Second class)の学生すべてが、聖霊契約を結ぶ大きな行事がある日である。
『確かに忙しくはあるが、3回目ともなると、だいぶ要領は得ているつもりだよ。それより、今年は御家の手伝いとか、しなくてもいいのかね?』
『私はもう、毎年やることは同じですからね。去年が少し慌しかっただけですよ。』
私は、教授の入れてくれた“はちみつ入りの果実紅茶”を受け取り、口に運んだ。甘酸っぱく広がるの味と香りに、思わず顔がほころぶ。
『なんだか嬉しそうだね?』
『えっ、そうですか?あ、それは先生の入れてくれた紅茶がおいしかったからですよ、きっと。』
『うーん……、私が知る限りでは、君はこの時期になると、難しい顔をしてることが多い、と思うのだが?』
笑いながら先生は、読んでいた本を棚に戻した。
『先生、それは意味深な発言ですねぇ。私がろくに祭りも楽しめない、捻くれた女の子だと?』
先生は両手を挙げて降参の意を示す。
『勘弁してくれ、悪い意味じゃないよ。要するに最近は“機嫌がいいんじゃないかい?”ってことだよ。』
『ふふ、わかってますよ。』
私はにこやかに微笑みながら、窓の外に目をやった。今日も羊雲が穏やかに流れている。
『……男の子に会う、夢を見ていたんです。……とてもなつかしい夢。』
『夢?…………初恋の男性でも出てきたのかい?』
先生が冗談っぽく尋ねる。
『初恋?……そうかもしれませんね。』
『これは、これは。』
『私より年下のその男の子は、出会ったその日に、私の唇を奪っていったんですよ。』
『なかなか大胆な少年だねぇ。』
『……だけど、彼はもう、私のことを覚えてはいない。贄は記憶、証は―――』
小さくそう呟き、私は自分の唇を指でなぞった。その様子を不思議そうに見つめる視線に気づき、私は窓を閉め、先生の方を向いた。
『先生は“魔術”ってご存知ですか?』
いきなり話題が変わったために、少しきょとんとする先生だったが、すぐに微笑みながら答えた。
『“魔術”ね。古代より口頭でのみ受け継がれてきた“魔法”の一種。今の悪魔契約によるそれとは、全く異質の“魔力”を用いた術式。』
『私は、優しい魔女のおばあさんが出てくる童話が好きですよ。』
『あはは、残念ながら、私たち教育者の立場の人間から言わせてもらうと、その類の童話は“マナ”を用いた“聖術”だと言われている。君も論文は読んだだろう?』
『私、夢のない大人にはなりたくないです。』
『まあ、わからなくもないがな。』
ふて腐れる私の頭に手を置き、ポンポンとなでてくる先生。
『現在は聖術学、魔法学、共に研究が進んでいるからね。“マナ”を使わないで、しかも“魔力”で奇跡を起こすなんて考えられないよ。つまり、君のいう“魔術”は今では夢物語さ。』
『…………。』
先生が頭に置いた手を、そっと私の頬へと持ってくる。
『来年から、君も生徒達を教える立場の人間になるのだから、そこのとこ、よろしく頼むよ。』
『…………先生、こんなことしてるから好色魔人なんて呼ばれるんですよ?あと、これ以上触ってるとセクハラでお父様に言いつけますから。』
『ぇっ!?ゴ、ゴホンっ!あ、あはは、君を落とせるなんて、端から思っちゃいないよ。うんうん、教え子とのスキンシップだよ、スキンシップ。さーて仕事仕事。』
苦笑いしながら部屋を後にするセルキー教授。女好きの癖さえ何とかなれば、すばらしい先生なんだけど。
ふと午前の授業の終わりを告げる鐘の音が、学園に響きわたる。
『今日は……外でお昼をいただくとしましょう。』
なぜか私の足取りは軽く、充実感に満ちていた。
私はそのまま部屋を後にしたのだった。