記憶
初投稿です。小説は初めて書きます。至らぬ点(誤字脱字、表現力の乏しさ)ありますが、物好きな方、お付き合いいただければ嬉しいです。
海沿いの舗装された道を、荷馬車が走る。時折香る磯の香りと、隣にいる“拾い物”の立てる寝息が、単調な道並への苛立ちを緩和してくれる。
真っ黒な瞳に真っ黒な髪。
この辺りでは珍しい東人の子供が道端に倒れてるってだけで驚いたが、如何せん顔立ち整った、それはもう生娘みたいな男の子供だったからなおさらだ。
職業柄、表と裏と“相場”を知ってる汚れた人間だ。一瞬、邪念が過ぎったが……。
男は手綱を引き、馬を止める。
『おい坊主、ついたぞ。』
* * *
誰かが呼ぶ声。重たいまぶたを押し上げるように広げると目が眩んだ。
磯の香りと、よせてかえす波の音が聞こえてくる。
再び目を開けると僕は荷車の上にいることが分かった。
視界の向こうに見える中年男性とは面識はない。
『あの……。』
『なんだ坊主?ここに行きたいんじゃなかったのか?』
右手に海の見える小高い丘の道。左手には高い赤レンガの塀と、大きな門。門の上にはアーチ状の鉄針格子が付き、プレートがぶら下がっている。
<ビンセント・ガーナ国立 レグルス学園 >
『それじゃな、今度道端に倒れたら、もう拾ってやらんぞ。』
そういって微笑みながら手綱を引き、もと来た道を戻っていく男。
どうやら僕は助けてもらったようだ。
『あ……、ありがとうございました!!』
僕は大声でそう叫ぶと、男は振り返らずに手を軽くあげ、早々と去っていった。
それ見送った後、再び門へ向き直ると、しばし立ち尽くしていた。
『おい、そこの君!』
『――っ!!』
すると背の高い細身の男性が後ろから近づいてきた。服装から見るに、この学園の守衛のように見える。
『君は……新顔かい?』
男性はそういって顔をズンッと近づけてくる。そして何か珍妙な物を見るように少年を見回し始めた。
無理もない。この辺りでは、自分のような容姿が物珍しいことぐらい、重々承知している。しかし、毎度毎度、このような奇異の眼差しを向けられることは心地よいものではない。さながら、どこに行っても変質者扱いされているような錯覚に陥ってしまう。
『にしても怪しいねぇ……。』
どうやら、錯覚でもなかったらしい。腕を組み、男はさらに顔を近づけてくる。思わず後ずさりしてしまうのは、自分だけじゃないだろう。
* * *
『ハァ…、ハァ…。』
後ろで束ねた銀の髪が、吐息のテンポにあわせて上下に弾む。
この学園に来てから一日も欠かしたことのない日課、早朝ランニング。
馬鹿でかい敷地の外周は、どんなに早く走っても4時間以上はかかるだろう。
ランニングを始めた当初は、外周といっても西門から南門までだったが、最近では東門まで走れるようになった。
『どこから来たんだね?身分証を見せてもらおうか?この学園の人間じゃないね??』
『だから、見に来ただけですってば、信じてください!!』
この時期は静かなはずの早朝の南門が、今日に限って騒がしかった。
何か言い争っているのは、我が校の南門の新しい守衛。名前は覚えていないが、顔見知りだ。
もう一人は守衛の影に隠れてよく見えないが、声からするに男の子ようだ。
『どうかされましたか?』
声をかけると、守衛はつかんでいた少年の腕を放し、こちらに向き直り、軽く礼をした。
『ははっ、実は――こ、これは、ミディム卿のご息女様ではないですかっ!?』
顔を上げ、私を見るや否や、後ろに下がって距離を置き、敬礼。そして、神仏でも見るような眼差しを向けてくる。この時間に私に会うのはもう5回目になるというのに、相変わらずの態度に呆れてしまいそうだ。まったく、大人はどうしてこうなのだろうか。
『えぇと……そろそろ私に慣れていただけませんか?そんなに畏まられては私も戸惑ってしまいます。』
『し、しかし……。』
『ここは学園です。生徒は皆等しく扱われなければなりません。家柄や出生、容姿などに捉われない。違いますか?』
『お、おっしゃるとおりです……。』
親に叱られる子供のように小さくなる守衛。
『はぁ……で、君は何をしにこの学園へ?』
ため息を一つ吐き、少年に目を向ける。彼は睨むようにこちらを見つめていた。黒髪に黒い瞳。この辺りでは見かけない“東人”という類の人種だろう。私も書物の挿絵でしか見たことはない。
年は13、14ぐらいだろうが、女の子のような容姿がそれよりも若く見せている。
『逃げたりはしないの?』
『逃げる?こっちは悪いことはしていない。だから逃げる必要はないし――』
『必要はないし?』
『僕は足が遅い……。』
赤く頬を染めて、そっぽを向く少年。弟が欲しいと思ったことはなかったが、悪くないかもしれないと感じた自分に思わず笑みこぼれてしまう。
『この学園を案内してあげようか?』
『――!!』
少年の目の色が変わった。キラキラしたとてもいい目。
『しかし、ミディム様、どこの者ともわからない子供を学園に入れるなどと……。』
守衛が困惑した顔で訴えてくる。確かに、今この子供が学内で問題を起こしたら、この守衛はクビになってしまう。現時点で、この子供に対する責任の所在が守衛にある以上、それではあまりに可哀想である。
つまりこの子供が“どこの者”かがわかればいいということ。
私は微笑みながら、こう答えた。
『あら、この子は私の知り合いよ。』
守衛の顔が青くなる。そういえば、この人は、少年の腕を掴みあげていたんだったかしら?貴族の友人に無礼を働くということは、その貴族の名をも汚すことになる。クビどころの話ではない。
『ま、真でございますか!?そそそ、それとは知らずに――』
『ええ、だけど、今回はなかったことにしてあげましょう。あなたは仕事に忠実だっただけですもの。これからも精進してください。』
守衛の目に涙が浮かぶ。驚いたり、青ざめたり、泣き出したり、忙しい守衛だこと。
『もういいから下がりなさい。私は友人と少し話があるの。』
『は、ははっ!』
そういうと守衛は敬礼し、逃げるように門の向こうに消えていった。よくこれで、「学生は皆平等である」などと言っていられるなぁと、ほとほと自分自身に呆れてしまう。
『知り合いなの?』
少年は相変わらず警戒した様子でこちらを見つめている。私は一呼吸置いて、少年のもとへ歩み寄った。
『知り合いだけど、別に仲間じゃないわ。だから、さっきの男みたいに君を捕まえてどうこうってことはしない。』
警戒心を解くように優しく少年を見つめる。少女のような顔立ちに、黒くサラサラした髪が潮風になびく。黒曜石のような瞳は、どこか神聖な感じがする。“東人”というのは皆がこんなに魅力的なものを持っているのだろうか。
『あなた、名前は?』
『……。』
『自分の名前ぐらい分かるわよね?』
『…………。』
( ぐうぅぅ~~ )
少年のお腹の虫が鳴いた。私はそれに思わず吹き出してしまい、しばし笑いが止まらなかった。少年は顔を赤くしながら、ばつが悪そうに顔を伏せた。
『わかったわかった。学園を案内する代わりに条件をあげましょう。』
『お、お金は持ってない…から。』
『そんなものいらないわ。そうねぇ、じゃあ……。』
考える素振りをして腕を組むが、答えはもう決まっている。
『私の朝ごはんに付き合いなさいっ!』
* * *
学園のある丘。そのふもとに広がる下町には昔ながらの飲食店や市場が並ぶ。ここに来る間、荷馬車で眠っていた自分にとっては新鮮な光景である。
僕はというと、校門で知り合った女性に「学園に入れてやる」といわれ、その代償に拉致されてしまった。
そして今は「Benne」という小さな店で朝食をとっている。注文したトーストセットは、かなりボリュームあるものだったが、空腹も手伝ってか、あっという間に平らげてしまった。
『どう?気に入ってくれた??』
テーブルに両肘を付き、ニコッとこちらに微笑みかけてくる彼女。
『……お、おいしい、です。』
『落ち着かない……かしら?』
朝早いというのに店には、かなり大勢の客が見えていた。もちろん自分の容姿に興味を持ち、メニュー表越しにこちらの様子を伺う者も少なくはなかった。
『いえ、そんなんじゃない、です。』
珍しがられるのは慣れている。今の居心地の悪さは他に理由があった。
『ごめんね、つき合わせちゃって。でも学園はしっかり案内してあげるわよ?』
『……。』
『ん?どうかした?私の顔になにか付いてるかしら?』
『えっ!?……い、いえ、なんでもない、です。』
彼女の優しい瞳に見つめられると、少し痛みにも似た温かい感覚が、忙しなく胸に疼いてくる。その感覚が初めてで、少し落ち着かないのだ。
『ここは私の入学以来からのお気に入りの喫茶店で、裏ではパン屋、表では喫茶店をやってるお店なの。まあ、見ての通り、夕刻からは居酒屋になっちゃうんだけどね。』
確かにパンの焼ける香ばしい香りが、店に入る前から食欲をそそっていた。
腕の良さも、早朝の客の多さがそれを物語ってる。奥のカウンターに陳列されているのが火酒やワインだろう。
『さて、腹ごしらえも済んだわけだし、本題に入るわよ?』
彼女は人差し指を立てて、それをこちらに向けてきた。
『名前は?』
楽しそうに微笑む彼女。しかし、その優しすぎる微笑みに恐怖すら覚える。答えないわけにはいかなさそうである。
『……ルカ。』
『フルネームは?』
『……ルカ=クロノス=ラーハル』
僕は、ため息混じりにそう答え、胸に下げた懐中時計を机に置いた。そしてそれを裏返し、彼女のもとへ差し出した。
『ん?――こ、これはっ!!』
『知恵と古のルーン。それはラーハル家の紋章。』
彼女は一瞬息を呑んだが、それからは意外に冷静だった。
『“ラーハル”って、あの考古学者の“クリストフ=ラーハル”?』
『そう。』
『だけど、ラーハル氏に子供がいるなんて話、聞いたことが―― 』
彼女の言葉を遮るように、店内にドアベルが響く。真鍮の美しい音色とは裏腹に、店に入ってきたのは、見た目にも怪しげな、むさ苦しい男たちだった。
『おっと、失礼するよ!』
入ってきたのは6人の男たち。髭を生やした図体のでかい中年男性を筆頭に、若者も2、3人見える。皆の視線が集まる中、店を出ようとする若い青年の肩が、その一人と軽くぶつかった。
『――ぐあぁっ!?』
鈍い大きな音と、食器が割れる音に店内が静まり返る。顔を殴られた青年は鼻から血を流し、食事中の机に倒れこんでいた。女性客の悲鳴が店内に響き渡る。女店主があわてて工房から主人を呼ぶ。
『あ、あんた達なんなんだっ!? 喧嘩なら外でやってくれないかっ!!』
青年を殴った男に、大柄の店主が近づいていく。
* * *
『危ないっ!!』
その声を発したのは無意識だった。
私には、男の後ろから抜き取られる、光る物がかろうじて見えたからだ。
『―― う゛ぅぅ。』
男の振ったナイフは、店主の左腕をかすめていた。
『かっ、かっ、かっ。命拾いしたなぁ、店主?』
風変わりな声で笑うのは、でかい中年の髭男。おそらくこの中の頭であろう。その男は、店の中央にあった机を蹴飛ばし、大声で叫んだ。
『いい店だ、気に入った。パンと肉、それと酒をもってこい!この店で一番いいヤツをな。』
男の腕には「角を生やした髑髏と投げ縄」の刺青が彫られていた。
< アスト・ウィザートゥ >
この辺りでは有名な殺戮集団の名前。刺青はそれを意味するものだった。しかし、そのほとんどが摸倣犯で、略奪・破壊行為を行う荒くれ者の集まりといわれている。
『そこのお嬢ちゃん。……そう、お前だよ。』
髭男が私を指さしてニタッと笑う。私は目をそらさずに男を睨みつけた。
『かっ、かっ、かっ、そう怖い顔すんなって。』
不敵な笑みを浮かべながら、男は部下に棚の酒を持ってくるように顎で指示を出す。酒を受け取ると、大瓶を一気に飲み干し、再び目線をこちらに向ける。
『あの兄ちゃんのナイフ……よく見えたな。ヤツは殺し専門なんだが、あのナイフ捌きは普通の人間の目じゃ、容易に追えねぇんだわ。』
『……だから、何?』
『若ぇのにいい目をしてやがるって褒めてんだよ。』
男は黒く濁った翠眼を大きく見開き、椅子に深く腰掛けた。そして胸から葉巻をとり出し、それに火を点けた。
『銀髪に翠眼。その翠の眼には、俺らと同じ血が流れてんじゃねえか?』
その言葉に自分の中にある何かが切れたのが分かった。
『―― くっ、無礼者っ!!そなた等外道と一緒にするなっ!!』
強く握られた両手は、わなわなと震え始め、憤りで頭は熱湯をかけられたよう熱くなっていた。
『かっ、かっ、かっ。おい、お前ら、俺たちゃ外道らしいぞ。』
酒を飲み漁る男たちの下品な笑い声が店に響く。男たちは私との会話を酒の肴のように楽しんでいた。不意に髭の男が葉巻を机に押し付けもみ消した。その様子を見て鼻で笑う自分に、男が眉をひそめて睨みつけてきた。
『何がおかしい。』
『成り上がりの外道は、葉巻の吸い方も知らないのですか?』
ギリギリと奥歯をならす音がここまで聞こえてくる。相当勘に触ったらしい。馬鹿騒ぎしていた部下たちが異変に気づき、武器を取り出そうとすると、男はそれを静め、立ち上がった。
『おいたが過ぎる餓鬼には、ちっと教育が必要だな。』
ゆっくりと男がこちらに近づいてくる。そばで見ると、身体は熊のように大きく、黴臭い異臭を漂わせていた。
『そう、学校では教えてもらえない“教育”ってのがなっっ!!―― 』
* * *
一瞬何が起ったのか、僕には理解できなかった。
髭男の振り下ろした拳が、彼女の頭上で止まっている。前のめりになった男。目の焦点は合っておらず、口からは胃液と涎が、線となって垂れていた。
彼女はその場に立ったまま微動だにしなかった。だた、彼女の左手は柔らかな緑色の光を帯びており、それに導かれるように、店の床板のささくれが、青々とした“芽”となり男に向かって伸びていた。
伸びた“芽”はすぐに“蔓”となり、そして“幹”になって男の腹部に一撃をくわえていた。
男は大きな音を立てて倒れこみ、その場にうずくまった。
『……き、貴様……契約者……か。』
男が倒れるとほぼ同時に、部下5人が一斉に刃物を向け、彼女に襲い掛かる。逃げ惑う客の足音。襲い掛かる男たちの奇声。僕は震えが止まらず、立ち上がることさえ出来なかった。そんな中、彼女は僕に背を向けこういった。
『大丈夫、………………すぐ、終わるから。』
一人目の男のナイフが彼女の目の前に向けられる。彼女は少し体を反らして、それを避け、一歩踏み込み素早く足払いをかける。背後からすぐ二人目の男のナイフが彼女に突き立てられる。振り向きざまに男の腕を叩くようにそれを受け流すが、三人目の攻撃には対処しきれない。
『嬢ちゃん、もらったぜぇえっっ!!』
再び彼女の左手が光を帯びた。
『 ― 天空へ至る豆の木 ― 我が敵の牙を穿て……。 』
天上と床から瞬く間もなく伸びてきた蔓が、槍のように形を変えて、ナイフを持つ男たちの手へと突き刺さる。突然の激痛と痺れに奇声を上げて男たちが倒れこむ。
< 契約者 >
またの名を「聖術者」といい、聖霊との契約により、特別な力、「マナ」を操ることを許された者のことである。
『蔓には軽い神経毒が塗ってあるわ。刺されば大人で一時間ぐらいは動けなくなるわよ。大丈夫、死にはしないから安心して。』
もがく様にうずくまり、泡を吹き始める男たちが、次々に気を失う。部下の若い男が、その姿を見て逃げ出そうと背を向けた。が、その瞬間、若い男は血を吐いてその場に倒れしまった。
背中には深々とボロックナイフ刺さっていた。彼女はナイフの飛んできた方向に戸惑いを隠せなかったようだった。
『彼はあなたたちの仲間じゃないのっ!?』
壁に持たれかかり、薄ら笑いでこちらを見ているのは、店主を切りつけた男だった。
『なかまぁ?笑わせんな。俺は殺しができるって聞いて、この腐れ集団に入った、ただの―』
フッと男が消えた。いや、正確には消えたのではなく、気配がなくなったのだ。店内が沈黙に包まれる中、男が彼女の背後をとった。
『―― 外道だよ。』
『―― っ!!』
窓から差し込む朝日に照らされて、彼女の銀の髪が宙を舞う。
『―― チッ。嬢ちゃんどんな瞬発力してんだよ。首、ねらったんだけどなぁ。』
* * *
銀髪の束が音もなく床に広がった。自慢の髪が台無しだ。私は肩で大きく息をしてながら、頬を流れる汗を拭った。手が微かに震えている。今の攻撃は避けたというより、勘や反射に近い無意識的な行動だったようだ。
そう、生きているのが不思議なくらい。間合いを詰められれば、次は確実に殺される。
『強ぇえヤツが殺れるって聞いたから入ったけどよぉ、まさか契約者様と殺し合いできるなんて思わなかったぜ、へッ。』
男がナイフの刃を舌で舐める。
『女で餓鬼だが、契約者なら相手にとって不足なし、だな。』
『あら、……契約者なら、……子供相手に本気になっても、……いいっていうの?』
息を整えつつ、次の攻撃に備えて“マナ”を蓄える。屋内のような閉鎖された空間では外より“マナ”が薄い。
(時間を……、時間を稼がなければ……。)
男がニヤリと笑い歯を見せる。
『そうやって時間稼ぎしてるつもりなんだろうが、一つ面白いことを教えてやろう。』
男はそういうと、徐に左袖の下に巻いた包帯を外し始めた。包帯の下に描かれていたのは青黒い刺青。それは“マナ”とは、まるで異質な禍々しい気を帯びていた。
『……魔力。』
『おお、御明算。この刺青は“コルヴァズの歯型”っていう呪刻でな、特殊な色料を使ってんだ。“妖精の灰”っていう色料をな。』
男が腕を横に伸ばす。すると刺青がだんだんと大きくなり、終いには彼の左腕の全てを、青黒く染めてしまった。
『お前の、契約は“木の聖霊”だろ?じゃあ俺は……』
男の手のひらから青黒い炎が上がる。牙が生え、左目は赤く光り、右目の焦点は合っていない。
『……炎の悪魔だ。』
< 悪魔契約者 >
その身を悪魔に売り渡し、対価に“魔法”という名の力を得た狂人。
* * *
『 ― 天空へ至る豆の木 ― 我が敵の進路を阻め……。 』
彼女の呟きに呼応して、男の行く手に、人の腕ほどの太さの蔓が幾重にも格子状に形成される。
『無駄だ。』
男はそう言うと、一気に間合いを詰めてきた。蔓は脆くも焼ききられ、男のナイフが迫ってくる。
『死ぃねぇっっ!クソ餓鬼ぃっっっっ!! 』
僕はそのとき、彼女の口元が笑ったのを覚えている。おかしな話だが彼女は楽しんでいるようだった。そしてなぜか、僕にはそんな彼女が魅力的に見えた。
一瞬だった。彼女の周りの空気が変わった。それは、まるで日の当たらない洞窟の奥に進んでいくような冷たく、静かな空気だった。
『 ― 悪しきを雪ぐ清浄の刃 ― 力を貸して……。 』
足元に広がる円形の光。青く光る彼女の右手には、白く透きとおるレイピアが握られていた。彼女がそれを腰の高さまで掲げると、レイピアを取り巻いて水の渦が起り、それは回転を増して大きな刃となった。
『う゛おおおぉぉおおぉぉぉぉっっ!!!!』
『はぁぁぁぁああああぁぁぁぁっっ!!!!』
怒号と共に、お互いの刃が交じり合い、高い金属音にも似た音が響きわたる。
次の瞬間、二人は背を向ける形になっていた。彼女は左腕から出血しており、手に握られていたレイピアは、もう無くなっていた。僕は、崩れるように倒れる彼女の元へ駆け寄った。駆け寄ってすぐ、背後で男が倒れる音がした。
振り返ると、男の身体はすでに灰になっていた。
形が分かるものは男の衣服と、刃を真ん中から“切られた”ナイフだけだった。
悪魔と契約し、魔力を手に入れた人間は、“悪魔そのもの”になってしまう。そして、その悪魔が死を迎えると、肉体は灰となり消えてしまう。後にはなにも残らない。
『…………んっ。』
彼女が目を覚ます。不安そうに見つめる僕に、彼女が口を開く。
『大丈夫……、折れたナイフで刺されたぐらいで死ぬような鍛え方はしてないわ、安心して。』
そういって微笑むが、出血が治まる気配はない。彼女の息が次第に荒くなっていく。
『えへへ、……初めてにしては、よく戦えたと思ったけど、……まだまだ、ね。』
彼女は必死に笑みを作るが、痛みに表情が歪む。
『無理をしないでください。悪魔のつけた傷は――』
僕の言葉を遮るように彼女が口を挟む。
『無理なんかっ!…………してないわよ。』
なんて意地っ張りなお姉さんだろう。それとも年下の子の前だから、自分の弱みを見せられないのだろうか。
契約者は普通の人間に比べて治癒が早い。しかし、悪魔や魔力の類で受けた傷に関しては例外で、傷と共に受けた呪いがこれを妨げる。それでもマナを使えばこの程度の出血を止めることができるのだが、彼女にもうマナが残されていないのは明白だった。
『僕は……契約者が嫌いです。』
そういって僕は自分の親指の先を小さく噛み切った。
『―― っ!?』
僕は目を瞑り、深呼吸をした。そして、静かに目を開き、彼女を見つめた。
反らさせることなく交わる二人の視線。彼女の頬が赤く染まり、瞳がみずみずしく潤む。
僕は静かに、彼女のブラウスのボタンに手をかけた。そのボタンは、抗うことなくあっさりと解かれていく。
『ききき、君、なにしてるの?!――え!?ええっ!!?ちょ、ちょっと っ!!』
『静かにしてください。僕も初めてなんですから。』
『は、はじめてって?!そそ、そういうのはココロのジュンビとか、そのえぇっと、大事な人……にね。ほら、…………私たち、まだ出合ってすぐだし、こんな場所で……。』
恥ずかしそうに身をよじりつつも、艶っぽく吐息を湿らせる彼女。
『…………あの、何か勘違いしてないですか?僕が今からするのは、治療のための祭壇作りです。』
『…………………………ほぇっ!?』
彼女の目が点になる。むしろ僕は“点”以外で表現できない目を初めて見たかもしれない。
肌蹴たブラウスの下、丁度、心臓のあるあたりに、僕は自分の血で“癒しのルーン”を刻んだ。
『喋らないでくださいね。』
刻んだルーンに右手を添える。彼女の心臓の鼓動が強く感じられる。僕はさらに深く息を吸い込み“祈り”を唱える。
『 ― Paeon ― 我が血肉より刻みし印に応え、慈しみ人の受けし悪痕を癒せ。贄は我が記憶、その証は――。』
『―― っ!!?』
左側の窓から覗き込む朝日。
窓の形に照らさせる明かりの中、二人の影が口元で交じり合う。
――― 魔術 ―――
それは数千年以上も前から、口頭でのみ受け継がれてきた古の魔法。
その当時は、魔法といっても今の呪刻を用いた“魔法”のように禍々しいものではなく、人間が神や聖霊を知るための手段であり“祈り”であった。刻印を用いた“刻印魔術”はその中のほんの一部にしか過ぎない。
* * *
雫を受けた水面のように傷口が温かく光を帯びる。先ほどまで絡み付くように疼いていた痛みが、すっと引いていくのが分かった。
『もう、……大丈夫ですよ。』
口元から離れた彼が、ニコっと微笑みながら私にそういった。一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、その感触が離れていくのを“寂しい”と感じる自分がいた。
私のファーストキス。それは、切ないハニートーストの味だった。
順次連載予定