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跼天蹐地  作者: DC_DKV
9/10

8:寝台に伏す

 わんこそばという風習がある。岩手県に伝わる蕎麦の食べ方だ。

 早く食べられるように、とか。一度に大勢に行き渡るように、とか。由来には諸説あるが、蕎麦は一口大で提供される。客はそばつゆに潜らせた蕎麦を食べ、給仕は客が食べ終わるたびに新しい蕎麦をお椀に補充する。それを客がお椀に蓋をするまで続けるというものである。

 本来はその人の食べるペースに合わせてゆっくり好きなだけ食べられるように、という食べ方らしいが、俺の中では次から次へと食べさせられるというイメージが強い。食べたら急いで蓋を閉めないとお椀に蕎麦をぶち込まれて食べないといけなくなるとかなんとか。

 ところで。

 にゃんこがゆという拷問がある。猫人であるセレステがお粥を食べさせてくれることだ。

 作っちゃったし食べてもらわないと、とか。いっぱい食べたら治りも早いわよね、とか。なんか呟いてた動機は複数あるようだが、お粥はお椀で何杯も何杯も提供される。俺は口に押し込まれたお粥を飲み下し、セレステは口の中のお粥がなくなる前からレンゲを押し付けてくる。それをいつ終わるのかわからないまま続けるというものである。

 本来はその人の食べるペースに合わせてゆっくり好きなだけ食べさせてくれる、というのが看病だと思うのだが、今の俺は次から次へと休む間もなく強制的に食べさせられている。あれこれ拒否の姿勢は見せているのだが、終わらない。

 そう、ところで。

 わんこそばは蓋を閉めれば終わる。終わってくれる。ではにゃんこがゆはどうやったら終わってくれるんだろう。


 ベッドの上。混濁した意識の表層で俺はそんなことを考えていた。床に立っていてはどうやっても届かないからか、セレステは椅子に膝立ちしてお椀を片手にレンゲを俺の口元に押し付けている。

「はいナギ、口開けて」

「……」

「ほら、開けなさい」

「……」

「大丈夫よ、こぼしたりなんかしないから。開けてってば」

「……」

「ナーギー?」

 険悪な空気を察して口を開けるとすぐさまレンゲが口に突っ込まれる。ベッドの横には空になったお椀が八杯も並べられ、その横にはお粥がたっぷり入ったお椀が並んでいる。今俺の口に突っ込まれているのは九杯目の半分ほどだろうか。人間の身体にはこんなにいっぱいお粥が入っちゃうものなんだ、と俺は感心していた。最初はどう頑張っても三杯が限界だろうと思っていたのに、次から次へと流しこまれるとどんどん入るのだ。こんなに食べたらいけないんじゃないかなってくらい入る。今頃俺の胃腸にはお粥が詰まっているに違いない。少なくとも喉には詰まってる。逆立ちしたら出てくるくらい詰まってる。ちなみに味覚は三杯目、吐き気は四杯目で麻痺した。

「はい」

 まだ飲み込んでもいないのにもうレンゲには次のお粥が用意されている。もう何度目になるかも分からないが、俺は中身が出てこないよう気をつけつつ必死に首を横に振った。

「だめよ、好き嫌いしちゃ。怪我を治すにはきちんと食べないと」

 そんなことを言うセレステはどこまでも心配してくれているだけで、そこに嫌がらせの気配は欠片もない。そう、このにゃんこがゆは完全に善意から来る行為なのだ。俺の目に涙が浮かぶ。

「な、なに泣いてるのよ……心配しなくてもちゃんと治るまで面倒みてあげるからね。はい、口開けて」

 いや、違うんです……違うんですよセレステさん、違うんです……人間はそんなにお粥食べたらいけないんです……獣人でも多分この量は無茶だと思うんです……。

 吐いたら止めてくれるだろうか、にゃんこがゆ。首を振っても手で押しのけても口を閉じても止まらないにゃんこがゆ。混じり気なしの純粋な善意によって行われているにゃんこがゆ。異世界に来てなんだかんだと死に瀕することは多かったが、お粥の食べ過ぎで死を覚悟することになるとは思わなかった。


 そろそろ吐いてみようかな、と俺が口を開いたところでばたばたと虎の獣人が部屋に入ってきた。ここ数日の間にすっかり顔馴染みになった彼は、積み重ねられたお椀を見るなり大声をあげてセレステを指さした。

「あーっ! だめっすよ、まだケガ治ってないのに拷問とかしちゃ!」

「えっ?」

「えっ?」

「えっ?」

「えっ?」

 混ざれなくてちょっと悔しかったような、そうでもないような。えっ、えっ、と言い合いながらお互い訳が分からないといった様子で睨みあっていた二人はなぜか同時に俺を見た。

「お粥を吐きそうになるまで食べさせるのって拷問じゃないっすか?」

「そ、そんなこと……ねえナギ、そんなことないわよね、まだ食べるわよね」

 俺は目を逸らした。

「……」

「……」

「……」

 沈黙をそのままにしておくのが怖かったので、そっとセレステの方を見た。レンゲが差し出された。

 俺は目を逸らした。



「もー、やばくなったらベッド横のベルを鳴らせって言ったじゃないっすか。覚えてるっすよね? いくら人間とはいえ患者なんだからちゃんと治すっす。というか治さないとまずいっす」

 涙目で遁走したセレステを見送り、残されたお粥を片づけながら虎人は懇々と俺に説教する。いや、その、やばかったはやばかったけど、わざわざ医者を呼ぶ類のやばさではなかったというか、いやでも実際もうちょっとしたら医者を呼ぶ羽目になっていたような気はするし、しかしながらいくら断ってもお粥を食べさせられるんですというので呼び出すのは情けないというか申し訳ないというか……。俺の曖昧な態度を混乱していると受け取ったのか、虎人はベッド脇に置かれていたベルを取り上げて小さく鳴らして見せた。

「ほら、これはこうやって鳴らすっすよ。忘れてるようだからもう一回言っておくっすが、俺の名前はベイリィェンって言って、あんたの担当っす。名前くらいはいい加減覚えてほしいっす」

 ベイリィェン。医者見習いであるらしい彼には薬湯を飲ませてもらったり包帯を替えてもらったり、随分世話になっている。もちろん覚えているしとても感謝しているのだが今の俺にはそれを伝える術がない。了承の証に頷くとベイリィェンはふむ、と考え込んだ。

5「薬湯はもうちょっと時間を置いた方がよさそうっすね……というか、よくこんだけ食ったっすね。正直凄いっす。喉の調子はどうっすか? 無理に声を出そうとしちゃだめっすよ。その……ひどく、潰されてたっすから」

 自然と手が喉に伸びる。あの日。獅子の獣人に襲われたあの日。忌々しいことに、体も心も、傷は深い。俺の怯えに気付いたのかベイリィェンは慌てて話題を転換した。

「いや、いいっすいいっす! その、ほら、体の怪我の方は順調に治ってきてるからもうすぐ歩けるようにはなるっす。かなり鍛えてあったのが幸いしたらしいっす。師匠が言ってたけど喉ももうちょっとすれば治るらしいっすよ。今は落ち着いて寝ることっす。いいっすね、大人しくしてるっすよ。師匠の言うとおりにすれば治るっすよ」

 何度も治る治ると呪文のように繰り返しながら医者見習いのベイリィェンは慌ただしく部屋を出て行った。



 誰もいない部屋に一人取り残された俺は痛む身体をゆっくりとベッドに横たえる。突然セレステの部屋に踏み込んできた獅子の獣人に大怪我を負わされた俺は、死ぬ寸前で獣人たちの病院に担ぎ込まれ、傷の手当てをされている最中に意識を取り戻しては痛みに暴れて気絶し、しばらくして意識を取り戻しては痛みで暴れて気絶し、その上喉が踏み潰されていたものだから呼吸もままならず……とそれはそれはひどい状態だったらしい。はっきりと意識を取り戻したのは二日前だ。声が出せないし全身の傷がじくじく痛む。おまけにベッドから出られないし本が読めないものだからセレステの部屋にいた頃より退屈だ。こうして文句を言えること自体命を拾った証ではあるのだけど。


 いつの間に戻ってきたのか、ドアのところに小さな白い耳が二つ覗いていた。とんとん、とベッドの縁を叩いてこちらが気づいていることを知らせる。耳がひょんと引っ込んだ。もう一度とんとん叩く。しばらくの沈黙の後、尻尾をだらんと垂らしたセレステが入ってきた。

「お、怒ってない……?」

 怒ってないよ、と笑顔でベッドの上、俺の隣をぽんと叩く。おずおずとセレステはそこに座った。いつもは春の氷のように淡く冷ややかな薄青の瞳が今日は涙でうるうるしている。

「ごめんねナギ、その、まさか、食べられなかったとは思わなくて……無理させて、ごめんなさい……」

 怪我で意識が朦朧としていた間のことは記憶がないので特に気にしていないし、それよりはあの獅子の獣人に振るわれた一方的な暴力による恐怖の記憶が大きかったりするのだが。俺の惨状に大変なショックを受けたらしく、セレステは俺が目を覚ましてからというものあれこれ世話を焼こうとしてくれる。してくれるのはいいのだが、どうにもこうにもにゃんこがゆ。にゃんこがゆ。セレステも自分が空回りしている自覚があるのか、髭を垂らしてしょんぼりしていた。

「ほんとに……ほんとに、ごめんなさい!」

 セレステは距離も考えずに勢いよく頭を下げて、その頭は俺の身体の一部、今最も触れてはいけない部分を強打した。

 腹を。

「うぼっ」

「ぎにゃああああーっ!」

 ……始まりから終わりから、なにからなにまで君のせいなんですけど、セレステ、ごめん。



「なんで自分だけかかってないのよ! ベッドにもかかってないし! 私の背中だけとかずるい! 卑怯!」

 悲鳴と共に二度目の遁走を果たし、びしょ濡れになって戻ってきたセレステは「病院で騒がないでほしいっす」とベイリィェンに叱られ、小声で怒鳴るという器用な真似をして俺を責めていた。ずるいもなにも悪いのはあなたなんですけどね、とは思うがいつものことなのでもう何も言わない。そもそも喉が潰れて喋れないし。怒り疲れたのか、セレステは水滴を床に垂らしながらぺたんと座りこんだ。

「ああ、もう……違う、そうじゃないの、そうじゃないのよ……そうじゃなくてね。そう、そうじゃないの。そうじゃないのよ。ねえ、そうじゃないの」


 ――ひしり、と気配が変質する。


 頭を抱えてぶつぶつと呟く様は、先程のにゃんこがゆを遥かに超える危険を孕んでいた。いつも通り理屈は一切分からないが、これをそのまま放っておいたら洒落にならないと俺の第六感が慄いている。雰囲気を変えるため、俺はそっと権能で作っておいたものを差し出した。

「ちょっとナギ、不用意にこんなとこで権能つか……」

 セレステの文句が途中で止まる。今回俺が権能で作ったのは表面に文字が刻まれた簡素な板だった。水をください。便所に運んでください。もうやめてください。とりあえず必要であろうこの三項目を表示させておいたこれは筆談ならぬ権能談だ。俺が勇者であるのを知らない獣人に見られたら殺されるかもしれないとはいえ、我ながらいいアイデアだと思う。俺は「もうやめてください」を指さして見せた。セレステは板を取り上げると、おもむろにぱきんと割った。

「……」

「……」

 割られた板は青い粒子となって消えていく。意志表示するなら殺すぞ、ということだろうか。いや、どういうことなんだろうか。本当にどういうことなんだろうか。こんな怪我人を生かすのをもうやめてくださいとかそういう解釈なんだろうか。セレステは笑顔だ。笑顔だが、その意図を推し量ることはできない。少なくとも正気には戻ったようだが。

「体拭いて」

 突き出された布巾を恭しく受け取る。満足そうに頷くとセレステは帯を緩め着物のような上着をぺいっと脱いでから俺の前に仁王立ちした。

「ないとは思うけど、少しでも手つきにいやらしいものを感じたら、後悔と反省の二文字を刻みこんであげるわ」

 基準はそっちで決めるんですね、セレステさん。肉食獣は獲物を狩る前に笑顔を浮かべるって本当なんですかね、セレステさん。後ちっちゃいんで仁王立ちしても全く迫力ないですね、セレステさん。


 布で丹念に毛皮を拭う。今までセレステの毛は白っぽい灰色だとばかり思っていたが、こうして触っているとところどころ黒い斑点のようなものがあるのがわかる。しっとりぺっそりしていた毛が水を拭うだけでふかふかになるのは面白かった。それだけではない。この触り心地。なんと言えばいいのだろうか、きめ細かな砂の中に手を沈めているような、温かな陽だまりに手を翳しているような。毛皮のコートがどうして高値で取引されるのか分かった気がする。犬や猫を見かけるたびに撫でようと近寄っていく人の気持ちも。

「ん……なかなか上手じゃない」

 お褒めに預かり光栄です。真っ先に拭いた尻尾を揺らしながら、セレステはスカートっぽい服の中に手を突っ込んでごそごそやっている。頑張れば卑猥に見えるかもしれないが、俺に頑張るつもりはない。単に布で足拭いてるだけだし。

「そうだ、今から真面目な話するからちゃんと聞いてね」

 一通り水気が取れたところで、セレステはちょこんと椅子に腰かけた。

「外に出すこともないと思ってたから言わなかったんだけど……あのね、獣人にもいろいろ種族があるの」

 俺がこの世界で出会った獣人はまだ片手で数えられるくらいだが、エルデ・Eのような狼人もいれば、セレステのような猫人もいた。となれば他にもいるだろうと考えるのは当然のことだ。具体的な種族までは触れられていなかったがセレステの部屋で読んだ本にも書いてあったし。それでね、とセレステは話を続けた。

「種族の系統によって派閥があって……それぞれでいろいろ違って、仲が良かったり悪かったりするのよ。同じ獣人でもね」

 人間が肌の色が違っても険悪になるのだから、獣人でも似たようなことになるのだろう。

「それで……ここ、ホトオリって言うんだけど、主に鳥系の人がいるところで、猫系の人がそこそこいて、たまに犬系の人がいるところなの。当然だけど鳥人が優位というか、主体というか……そんな感じ。鳥人見たらできるだけ挨拶してね」

 そんなことを言われても俺は鳥人を見たことがない。首を傾げているとセレステも首を傾げた。

「あれ? 見たことない? ナギを手当てしてくれた人も鳥人なんだけど」

 てっきりベイリィェンが全部やってくれたものだとばかり思っていたが違うらしい。彼がたまに口にする師匠という人物のことだろうか。

「まあいいわ……見たらわかるだろうし。それでね、鳥人と猫人は基本的に仲がいいんだけど、今はちょっとそうじゃない猫人がいるというか……まあ、その……とにかく、猫人を見たら逃げるようにしてね。大丈夫な人もいるけど、大丈夫じゃない人の方が多分今は多いから。鳥人とか犬人とか、猫以外の種族だったら、その隷奴ノ輪を見せればいきなり殺されるようなことはないと思う。もちろん勇者だってことは伏せなさいよ」

 つまり、猫系の獣人にはいきなり殺される可能性があるわけか。部屋に閉じ込められてうんざりだとは思っていたが、獣人の領域における人間への風当たりは予想外に厳しかった。奴隷でも問答無用で殺されるとは。奴隷だから、と言い換えることもできるか。そういえば俺は誰の奴隷という扱いなのだろう。目の前の白猫幼女をじっと見てみる。現状、彼女の奴隷が一番楽というか、安心できるから助かるのだけど。

「わ、私は大丈夫な方だからね!」

 何を勘違いしたのか、セレステはわたわたと手を振った。それに構わず、目に力を込めてセレステをじっと見る。

「その、そのね、さっきは悪いことしちゃったけど、私はナギをちゃんと守るつもりだからね」

 セレステをじっと見る。

「にゃ……あ、あの……他の獣人は基本的に危ないから、私に……頼ってくれると、安全かな、みたいな……う、うん……頑張るから……あんなことにならないよう、頑張るから……」

 セレステをじっと見る。

「ナギが部屋に入られて大怪我したって聞いたときは、私、とっても後悔して……だから、ここは安全になるようちゃんとやったから……」

 セレステをじっと見る。

「……え、ええと、ええと……ご、ごめんなさい……ごめんなさ……ごめんなさい……本当にごめんなさい……」

 セレステをじっと見る。

「う、にゃ、にゃぁ……」

 セレステをじっと見る。

「うにゃん……」

 セレステをじっと見る。

「みにゃ……」

 セレステがじっと見る。

「ナギ、もしかして私をからかってたりする?」

 ばれたか。

「真面目な話だって言ったでしょ! 本当に危ないのよ! 私以外の人と話したら殺されちゃうかもしれないのよ! 気をつ」


 ことん、とささやかな音を立てて。

 なんの前触れもなく。

 セレステは床に崩れ落ちた。


 ガヒッ、と俺の喉から息が漏れる。咄嗟に声を出そうとしてしまったせいで、箸を喉に突き立てられたときのような痛みが走った。それを堪えてベッドから身を乗り出す。なにかがぷちりとちぎれる嫌な感触が体のそこかしこで起こったが、不思議と痛みは感じなかった。セレステ。さっきまで俺を心配して怒っていた彼女が、打ち捨てられた人形のように転がっている。

 ちからなく投げ出されたその肢体も、ことばなく噤まれたその唇も、ひかりなく鎖されたその眼も。そのすべてが、こうあることの方が正しいのだと言わんばかりの、剥き出しのうつくしさで。

 それに一瞬でも見惚れてしまった自分を誤魔化すため、俺はベッド脇に置かれていたベルを思い切り鳴らした。

 手を伸ばして小さな胸に触れる。心臓はとくとくと脈を打っていたし、眠ってでもいるようにかすかな呼吸も感じ取れた。そう、確か。こういうふうに突然倒れた人を揺さぶったりしてはいけなかったはずだ。脳が原因だった場合に毛細血管が傷ついて病状が悪化するとかそんなことが保健の教科書に書いてあった。呼吸はしている。脈も正常。呼びかけはできないが、ベルの音に反応しなかったから意識はない。いったいなにが――まさか。

 権能。

 俺の権能で作ったものを、セレステは壊した。エルデ・Eも俺もさんざん壊したからなんともないと、ずっとそう思っていたけれど。人間である勇者の権能が獣人を殺すためのもので、獣人に対して毒性を蓄積させるようなものだったとすれば。そうと気づかないうちに体を蝕んで、一定回数以上壊すと命を奪うものだったとすれば。地狼であるエルデ・Eはその影響を免れていたとすれば。

 違う、というなぜだか強固な確信はあるが、どこにも根拠がない。彼女がこうなったのは俺のせいということも、十分あり得るのだ。そう思い至ったところで、手が震えた。セレステは死んでいるように動かない。俺は動けない。


 人が来てくれたのは、すぐだった。

 セレステが言っていた通り、鳥の獣人は見れば分かった。頭が鳥になっているのは一緒だが、他の獣人と違って手の部分が羽になっている。おそらくカラスの鳥人であろうその人はヂュロンと名乗ると床に転がっているセレステを一瞥した。

「突然こんな状態になったのだね?」

 俺が何度も頷くとヂュロンはついと肩をすくめた。

「なに、心配はいらない。これは彼女の癖のようなものでね。珍しいことだが……久しぶりだったから読み違えたのだろう。そのまま床に転がしておきなさい。いい薬だ」

 癖。そんな簡単な言葉で片付けるには、セレステのこれは普通ではないように見える。突然倒れて意識がなくなるだなんて。人間の俺はともかくセレステは獣人だ。仲間が倒れているのなら心配くらいするのが当然じゃないのか。そもそも触りもせず、ただ転がっているのを見ただけでそこまで言い切れるものだろうか。俺がむっとしたのが伝わったのかヂュロンは目をきらりと光らせる。

「欲求不満は余所で晴らしたまえ。なに、しばらくすれば目を覚ます。そんなに心配ならベッドに寝かせてやるがいい」

 動かしていいのだろうかという不安はあったが、この人の方が正しいような感じもする。癖と言いきれるくらいにはセレステとの付き合いも長いのだろうし。ベッドから身を乗り出してどうにかこうにかセレステの体を持ち上げようとしていると、ヂュロンは何も言わずに手伝ってくれた。俺はよくわからないまま頭をさげる。鳥の表情は分からない。

「チューチュエ様から君の話は聞いている。生きたいのなら先程のような敵意はあからさまにしない方がいい。わかるね?」

 心配しているのでもなく、馬鹿にしているのでもなく、ただ事実をありのままに言っているだけ。それだけに、その一言はちくりと刺さった。俯く俺に構わずヂュロンはセレステの診察を始めた。

「治りたかったらおとなしくしていたまえ。今の君に必要なのは休息だ。そんなに気になるのなら診ておこう」

 そんなことを言う彼はどうやら医者のようだ。脈を取ったり呼吸を確かめたり、てきぱきとセレステの容体を診察していく。話しぶりからして俺が勇者であることも知っているのだろう。俺の手当てをしてくれたベイリィェンの師匠はこの人だろうな、となんとなく思った。

 セレステの診察を終えたヂュロンはついでとばかりに俺の包帯を解き始めた。傷口をじっと観察し、時折軟膏を塗りつけていく。その診立てによるとベッドから起き上がれる日もそう遠くないらしい。基本的に身体に含まれる魔素が多いほど傷の治りも早いらしいが、ここまで鍛えている人間は珍しいのだとか。

 ……エルデ・Eに鍛えられなければ死んでいたというようなことが何度もあったし、おそらくこれからもあるだろうが、感謝の念が素直に浮かんでこないのはなぜだろう。ありがとうエルデ・E。わかってるんだ、頭ではありがとうと考えてるんだよエルデ・E。ありがとう。本当にありがとう。

 俺が勝手にいらっとしていると、ばぎん、と遠くの方で何かが壊れる音がした。続けてどたどたと重い誰かが走ってくる音がする。飛び込んできたのは顔を涙と鼻水でぐじゃぐじゃにしたベイリィェンだった。

「ししょお! ヨウが、ヨウがあああっ! ししょおおっ! ヨウがしんじゃうよおおお! たすけてぇ! ししょぉ! たすけてぇ!」

「落ち着け、ベイリィェン」

「ししょぉおおおお!」

 突進してくる弟子を師匠であるヂュロンはなんのためらいもなく蹴り飛ばした。それどころかひっくり返った彼の頭を鳥の足でどんと踏みつけた。

「医術を学ぶなら常に冷静であれ、と教えたはずだが」

「ししょぉう! ヨウが! ヨウがしんじゃう! しんじゃうよぉ!」

「ヨウ? ああ……まだ生きているのかね?」

「しんじゃうよぉおおおぉ!」

「そうか……仕方あるまい」

 パニックを起こして何を言っているのかよく分からないベイリィェンから足を退けてヂュロンはすたすたと出て行った。身を起こしたベイリィェンがその後を追っていく。



 医者って、こわいなあ。

 そんなことを考えながら俺は途中で放り出されていた包帯を自分で巻き直し、権能で長い棒を作って開けっ放しになっていた部屋の扉を閉める。あれだけ騒がしかったというのにセレステは死体のように眠っていた。俺のことを知っている獣人がどれだけいるのか分からない以上、彼女が目を覚ますまでは俺は起きて自衛に務めていた方がいいだろう。長い棒を消し、頭の中でイメージを思い描く。室内での取り回しを考えるなら剣にしておきたいところだが、今の俺はベッドから動けない。それならばいっそ長い槍を作って扉を開けたところを一突き、の方がいいだろう。意識を集中させて「イメージした通りの青い立体を作り出す力」を発動させる。急造だったが、青い槍は違和感なく手に収まった。殺す気で来られたらこんなものでは対抗できないが、抵抗くらいはできるだろう。


 権能で武器を作ったのは初めてだった。なんとなく、エルデ・Eのことを思い出した。

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