ISVD―TZADDI―NTzCh
ISVD――それが喪われていたから、愛してもらえなかったんだ。
こういうことなんだな、と思った。
ふと、半分は多すぎたな、と思ったのだ。やっぱり私より体が大きいから、私よりいっぱい食べるんだろうし。いちいちからかうナギが悪いのであって私は全く悪くないんだけど、でもやっぱり、半分も炒飯取ったのはかわいそうだったかな、というか。足りなくてお腹すいてもナギはじーっと私を待ってるしかないんだな、と気がついてしまって。一旦そう考えてしまうと、髭がざわざわして、尻尾の置きどころがなくなって、それはべたっと私の背中に貼りついた。
「もう、しょうがないんだから……」
気がつけばこうしてナギにおやつを運んでいる。私もちょっと休憩を入れたかったことだし。捕虜、それも勇者の様子を抜き打ちで確認しておくのは大事なことだし。いつものように言い訳をいくつか並べた後、私は部屋の前に立った。耳を澄まして部屋の中の彼がこちらに気づいていないことを確かめてから、深呼吸。
喋るのが得意な人間は二種類いる、とチューチュエは言った。
片方は、陽性の人。誰かと話すのが楽しくて楽しくてしょうがなくて、自分の中に伝えたい言葉がいっぱい詰まっていて、人と関わっていてもつらくならない人。つらくなっても、うまく処理できる人。
もう片方は、陰性の人。自分の立ち位置を常に気にしていて、いつも不安で、少しでも会話して相手に影響を与えることで自分を利することに汲々としている人。本当は喋りたくなんかない人。
彼は後者でしょうね、とチューチュエは言った。
「だってあなた、彼と喋るの嫌じゃないでしょう? 彼のこと苦手じゃないでしょう?」
「そんなことは……」
「迷うのなら苦手じゃないのよ」
言われてしまうと、そんな気もする。でも、違うような気もする。ナギに関わると私は私がよくわからなくなる。どうしたいのか、どうしていいのか、よくわからない。
私が口ごもっているとチューチュエは満足そうに頷いた。
「あなたは前者と相性が悪いもの。絶対にね」
「……なんだか、根暗だって言われてるように聞こえるんだけど」
「そう聞くからじゃない?」
くすくす笑いながらたいへん意地の悪い友人は席を立った。南方ホトオリを預かる将軍として、彼女はこれから戦線に向かうのだ。たくさんの獣人を率いて、人間と戦うために。出ていく彼女を見送る私。
「最後に確認しておくけれど。隠すべき情報はあなたのことと、隷奴ノ輪のこと。他は適度に喋って信用を得ておきなさい。話してまずいことなんてあなたはそう知らないはずだけれど、一応は気をつけてね。これは命令よ」
「わ、わかってるわよ……それにその二つ、だいたいセットみたいなものだし」
「わかってても駄目なのがあなたよねえ。誑かされて妙なこと考えたりしないでよ?」
「それもわかってるってば! 私の部屋から出さないし、変な情報は与えないわよ」
一旦立ち上がった癖に言いたいことを思いついたのかチューチュエは私の頭をとんと突いた。
「一応言っておくけど、妙なことにならないようにね……ああ、でも、色仕掛けという手もあるかしら。たまにはその見目を生かしてみる? おにいちゃん、あたしね……」
「絶対、しないから! 第一ナギはそんなの喜ぶような変態じゃないし! そんなので釣ってどうすんのよ! 釣られるような変態だったら殺した方がマシよ!」
「はいはい。信用してるわ」
「……あんまりからかわないでよ。結構、いっぱいいっぱいだから」
信用、と言われて、つい、本音がぽろりと口から洩れる。最低だ。これから血みどろの戦場へ向かう相手に私は何を言っているのか。たかだか捕虜の人間一人とうまく話す自信がないなんて、仔供だ。仔供未満だ。
「煽っておいてなんだけど。仲良くなりたいならそういうことも素直に話してみなさい。人の心へ触れるなら、まっすぐでないと」
そんなところも見透かされているようで、自分が嫌になった。
ぼんやりと一週間ほど前の会話を思い返しながら、私はベッドに座っていた。慌てて落としてしまったけれどお盆の粽は無事だった。私を驚かせた本人は平気な顔をしてお茶を淹れている。なんだか手慣れているな、と私が見ていると、ナギは顔を上げた。
「セレステ、どうかした?」
「ううん……なんでもない、けど……」
「やり返されただけで恨んだりとかしないって」
最前権能について脅かしておいたのに、彼はもう落ち着いてこちらを気遣う余裕すらある。もしかしてあの驚いたのも演技だったんだろうか。もしそうだとしたら、あまりにも負け続きだ。
「ねえ、ナギ」
「うん」
「ナギって……喋るの、好き?」
ああ、もう。何を言ってるんだろう、私。そんなことを言われるとは思っていなかったのか、ナギはきょとんとした。
「好きって……そりゃ、相手によるとしか」
「総体としては?」
「え? うーん、どうだろう……考えたことなかったな、そんなこと」
ナギはずいぶんと難しい顔をしながら粽の紐をほどいた。笹の葉の優しい香りの間から甘い餅の匂いが漂う。すぐに答えは出ないらしいので、私も自分の粽を開く。本当はお茶が飲めるくらいに冷めてから食べようと思っていたけれど、目の前で食べられては我慢できそうにもないし。
一口、二口。噛み締めるように口を動かした後、ナギは多分、と言った。
「好き……かな。うん、好きだと思う。と言うよりほら、社会の中で生きてるなら、会話って人間関係の基本だからさ。嫌いだーって言ってたらやっていけなかったし。いや、嫌いじゃないんだよ」
「そういうものかな」
「変に静かだと思ってたら、そんなこと考えてたのか」
「うん……友達が喋るの得意な人は二種類いる、って言ってて」
「どんな?」
「好きで喋ってる人と、嫌で喋ってる人」
「俺って喋るの得意?」
「そうだと、思うけど」
しまった。この流れだと、お前は嫌々喋っているに違いないと言っているようなものだ。
でも、たぶん、そうだと思う。
私は話すのが下手だ。苦手だ。そういう自覚はある。それが出会って数ヶ月の人間相手にチューチュエと同じように話すことができている。それはつまり、かなり気を遣ってもらっているということだ。もちろんナギにだって情報を得たいとかご機嫌をとっておきたいとか理由はあるだろう。でも、気を遣ってもらっているのは確かなことだ。からかわれて怒ったりしながらもナギと話すのを、私は居心地がいいと思っていて、でもそれはナギの努力に支えられたもので、ほんとうのことではなくて、そう思うと、なんだか、ぐじゃぐじゃする。
「セレステ、あのさ……」
その先を聞きたくなくて、私は耳を伏せる。わかってる。ここでナギが私に嫌なことを言うなんてことは多分なくて、だからこれを聞いても私は大丈夫だけど、でも、それはほんとじゃなくて、聞きたくない。
それでも聞かずにいられない自分が、心底嫌になった。
「いつもはおやつとかないし、この粽って、俺のために持ってきてくれたわけだろ」
「……」
「それはほら、今日の昼に俺の炒飯を半分没収したから、俺が腹をすかせてるんじゃないかと心配してくれたんだと、俺は思ってたんだけど。合ってる?」
「……合ってる」
そんなところまで見破られていたなんて。ここまで来ると惨めでしかない。俯いている私を励ますようにナギは喋り続ける。
「よかった。あのさ、そういう気持ちって、ほら……俺とセレステって、人間と獣人だったり、世界が別だったり、いろいろあるわけで、俺は捕虜で、だからセレステに気を遣ってるところはあるよ。でも、それが全部じゃない。セレステが俺に優しくしてくれたように、俺もセレステにそうしたいと思ってる。同じ気持ちは、俺にもあるよ。今のところはなんにもできないから証明もできないんだけど……信用してもらえないかな」
ふらっと、信じてしまいたくなった。隷奴ノ輪も外して、こんな狭い部屋から連れ出して、この人の好きなようにさせてあげたくなった。喋るのがうまいのは、卑怯だ。するっと心の罅に滑り込んで、優しい手つきで広げてくる。私が……ナギが勇者じゃなかったら、私はきっとそうしていただろう。チューチュエの心配通りだ。わかっていても、私は駄目だ。
じわっと来た。こんなこと言われて泣くのはみっともないってわかってるのに、そんな言葉信じちゃいけないとわかってるのに、ほろほろと自分を律していたものが解けてゆく。
「セ、セレステ」
「泣いてないから」
「う、うん……」
「手」
「うん」
「手、出して」
そっと差し出された手は毛が全く生えていない人間の手で、だから本当は縋っちゃいけないのに、私は人間に縋ってはいけないのに、私は手を伸ばしてしまった。
「しばらく……しばらくでいいから、握ってていい?」
「いいよ」
こっちはいっぱいいっぱいで、こんなに一生懸命なのに、なんだか、そんな、どうでもいいことみたいに。ちらりと燃えた怒りの火はすぐに消えた。お茶の水面に映ったナギの顔にも、確かな不安があって。なんだかもう、本物でも偽物でもいいかな、と思えてしまって。
「……ありがとう、ナギ」
「ありがとう、セレステ」
なんのことかもわからないままに、人間の手を握りながら、こういうことなんだな、と思った。
俺はセレステの下着を畳んでいた。
……やましい気持ちは、ない。本当にない。一片たりともない。部屋の隅に置かせてもらっている俺の洗濯物の中に見慣れぬ白い布が混ざっていて、ああこの小ささはセレステのかな、と思ったので、畳んでいる。ただそれだけだ。もちろんセレステが異性であるというのは分かっているし、いくら外見がロリとはいえ年頃の女性であるというのは十分に理解している。だからといって彼女の下着をどうこうしようという気には欠片もならない。本当に。そもそも褌だし。いや、ここで「そもそも」と言ってしまう時点で俺のどこかにはやましい気持ちがあるのだろうか。もしこれが褌じゃなくて日本で普通に穿かれていたようなパンツだったら、俺はやましい気持ちを抱いていたんだろうか。この白い布に。セレステのパンツに。
……なにをかんがえてるんでしょうね、おれ。
箪笥を開け、俺の手にした褌がしまわれているそれと完璧に同じ畳み方になっているのを確認して、俺はそっとセレステの下着を箪笥に収めた。発見当時はこれ洗濯物に混ざってたんだけど、と手渡すことも考えた。考えたが、褌の着け方を聞いただけで襲いかかられたのは生々しい記憶だ。傷口も。なにしろセレステさんときたらまず手が出て口が出て、そこでようやく考え始めるお人である。おまけにセクハラっぽいものに厳しい。そんな彼女が自分の下着を俺に触られたことを知ったら何が起こるかは考えるまでもなかった。どうあってもぶん殴られることが確定しているのなら、せめて殴られない可能性に賭けたい。
念のため箪笥の外観に異常がないことを確認して寝台に腰かける。部屋にある本の大半は読んでしまった。読書はあまり得意ではなかったはずだが、それ以外にすることがなければ人間捗るものである。唯一の話し相手であるセレステは仕事が忙しいとかで朝昼晩の食事を運んでくるのと寝る時くらいしか顔を出さなかった。天井を見上げて考えを巡らせる。獣人たち。彼らが俺に、何を望んでいるのか。生かしている、ということは少なくとも利用価値を見出しているということだ。
人質だろうか。異世界からわざわざ召喚したくらいだから人間にとって勇者である俺は重要なはずだ。俺の身柄を引き渡す代わりにそれなりの物を要求する。捕虜という扱いを考えるならそれが妥当な気もするが、セレステの口ぶりからするに獣人たちも権能という力の重大さを理解しているようで、そんな洒落にならない代物を敵に返すとは考え難い。今でこそ俺の権能は「イメージした通りの青い立体を作り出す力」というなんだかよくわからない代物だが、いつエルデ・Eの地狼のような強力な力に変貌するか分からないのだから。
公開処刑して戦意高揚を促す。楽観に過ぎるかもしれないがこれはないだろう。この部屋にある本はわざわざチェックされたものだ。生贄の気を紛らわせる目晦ましにしては情報の量が多いし内容もしっかりしている。先日読んだ女同士のエロ小説をセレステが発見するなり無言で縦に引き裂いていたので、チェック漏れがあるのかもしれないが……いやまさか、そんないい加減なことはないだろう。多分。きっと。おそらく。あれもなんらかの意図の下に置かれていたに違いない。きっとそうだ。そう思いたい。
懐柔して戦力に仕立て上げる。今のところ、これが一番もっともらしく思える。いつの間にか首に嵌められていた隷奴ノ輪がどこまで俺の意思を捻じ曲げるものなのかは知らないが、他人との接触を朝昼晩の食事、それもセレステだけに制限しているのは彼女に依存させるためのような気がする。秘密を知る者はできるだけ少ない方がいい、という理由が第一なのだろうが。
……などなど。こうしていろいろ考えてはみるものの、材料がセレステの言葉と部屋の本だけというのではなんの甲斐があるでなし。それに状況は常に変化するのだから、これまでは生かしておく方針だったがやっぱり処刑、ということもあるだろうし。自由がないのは一緒だが処刑される可能性の方が大きい以上城にいたより状況は悪化していると言えた。
昼飯まであとどれくらいかな、と考えて立ち上がったのと同時に、部屋のドアがバンと叩きつけられるように開かれた。そこに立っていたのはセレステではなく、おそらく獅子の男と思われる獣人で。
まずい、と認識する前に蹴り飛ばされていた。
「あー? おいおいおいおい、まるっきり素人じゃねえか、おい? なんだーお前、強いんだろ? 勇者なんだろ? ぜんっぜんよえぇじゃねえか、なあ!」
嘲笑と拳が降ってくる。髪を掴みあげ俺の瞳を覗きこんだ獅子の男はそこにある怯えを見て取ったのかげらげらと笑った。
「おーいおいおいおいおい、弱いな、弱いなーお前。なーんだそれ。おい。ふざけんなよ。ふざけるな。ふざけんなよ勇者サマ。どうした? 獣人を一杯殺すんだろ? 権能とかいうワケのわかんねー力でさあ。なあ。どうなんだって聞いてんだよ答えろよなぁ! おい!」
声を出そうとするが、息が出なかった。容赦ない暴力に体中の筋肉が強張って動かせなくなっている。返事は期待していなかったのか獅子の男は笑いながら俺の首根っこを掴んで引きずり始めた。ようやく出られた部屋の外は普通の廊下で、観察する間もなく俺はそこの窓から外に放り投げられる。
「軽いな! 持って歩くとかめんどくせェんだ、よッ!」
世界がぶるぶる震え、止まったと思ったら体の内側にじわっと生温かいものが広がった。多分これは、痛いんだろう、痛すぎて別のものとして感覚されているとかそういうことなんだろう、ああ遅れて来ただけか、痛い、痛い。痛い。声にならない痛みに喘いでいる間にもう一度蹴り飛ばされる。
「さっきから返事もなしかよ勇者サマ、アレかぁ? 俺みたいな薄汚いケダモノとはお話したくありませんってかぁ? そうですよねぇごめんなさいすいませんだったら体でお話ししましょうってなぁ! すいませんねぇケダモノで! これでいいですよねぇ!」
蹴られて、蹴られて、蹴られて。口から朝飯だったものが流れ出てきた。二つセレステに取られた唐揚げ。あんなにおいしかったあれが、今は熱すぎて味が良く分からない。こんなことならセレステに全部あげればよかったか、なんて場違いな考えが頭をよぎる。
「きったねぇ! 汚ねえ汚ねえ汚ねえ汚ねえ汚ねえ汚ねえ汚ねえ汚ねえ! きーたーねーえー! 勇者サマ知ってますかぁ、いくら勇者サマのモンでもゲロは汚ねえんですよー! きったねえ!」
嗤っている。嗤われている。嗤っている。息ができない。喉が詰まる。立ち上がろうとしたところで、あげた頭を殴られる。きぃんと甲高い音が耳の裏で鳴った。
「あーすいませんねぇ勇者サマ! 俺じゃあ畏れ多くて勇者サマに触るなんてとてもとても! ねえ勇者サマ、だから自分のあんよで立ってくださいよぉ、ほら立てまちゅかー?」
立ち上がったところでまた蹴り飛ばされるのだろう。けれど、立ち上がらなければこのまま嬲られるだけだ。よろよろと身を起こすと、この場には他にも獣人がいるのがわかった。皆輪になって俺と獅子人の一方的な暴力を眺めている。そう、眺めている。痛い、痛い。
「立てましたかぁ。ほら勇者サマ足が震えてますよぉ勇者サマ! 駄目じゃないですかぁ? あんたはちゃんとしてないと俺なんかより強くないと駄目なんじゃないですかぁ? なあ、おい! っざけんな!」
吹き飛ばされて、地面に叩きつけられて。口の中に入った土が喉に絡む。今度こそ起き上がれないでいると、喉にそっと、いやに優しく足が乗せられた。
「あれー勇者サマどこに行きましたかぁー? 困ったなー、すいませんねぇ俺なんかに付き合わせてごめんなさい今探しに行きますんで動かないでくださいねぇ」
ゆっくりと。しかし確実に、喉が踏み潰されていく。大した痛みもなく、ぎちゅ、となにかが潰れた。さっきまでどうにか繋いでいた呼吸が完全にできなくなった。獅子の男はげらげら嗤っている。嗤って嗤って嗤って、嗤っている。
ふつん、と体の中の線が切れてしまった。こんな死に方はまったく予想していなかった。エルデ・Eは優しかったんだな。なんでこの体勢で腕が見えるんだろうか。骨折したことはなかったのに。空が青い。青い空。痛い、痛い。痛い。殺されかけたのはともかく、立ち上がるのは待ってくれたものな。なんだかおかしい。なんだったっけ。そうだ、ここで死ぬわけにはいかないんだ。死ぬわけにはいかないんだ。まだ蹴ってるのか。いや、殴ったのか。帰らなくちゃいけないんだ。帰って、義務を果たさなければならないのだ、俺は。痛い、痛い。痛い。痛い。なんだかひどく歪んでいるなあ。そうか足りないのか、だからなのか。それが喪われていたから、愛してもらえなかったんだ。