5:名を交わす
もぐちゅもぐちゅもぐちゅ。
擬態語にするならそんな感じだろうか。顔を血で赤く染めて俺の隣で猫の幼女が生肉を貪っている。時折小さな骨が吐き出されてころんと地面に転がる。スプラッタすぎて直視できないのだが荒々しくも気品を備えた食べ方は正に肉食獣だった。そういえば野生動物を間近で見たことなんてなかったなあ、とぼんやり考えながら俺は焚き火の上で肉が刺さった串を回す。
俺たちは二人で一緒に目覚めることができて。彼女は目覚めると素早くうさぎさんを二羽捕まえてきて。
そう、うさぎさんだ。俺が通っていた小学校の飼育小屋ではうさぎさんが飼われていた。ぴーちゃんとぺーちゃんとぽーちゃんだ。三羽ともふかふかで、触ると温かくて、三年生で飼育係になったときは弟をひきつれてニンジンを与えたりもした。ぴーちゃんとぺーちゃんとぽーちゃんがごりごりっとニンジンを齧るのを見て、弟とどいつが一番先に食べ終わるかを言いあったうさぎさんだ。
うさぎさんて、たべられるんだ。
もちろん知識としては知っていたが、実際に眼前で捌かれるのはショックだった。
「うさぎさん……」
「これウサギって言ってね、森によくいるのよ。逃げ足は速いけど、賢くないし草食だし毒も持ってないから怖がらなくてもいいよ」
「俺の世界にもいたよ、うさぎさん」
「うさぎ、さん?」
「いや……いいんだ。なんでもないんだ。ありがとう」
ふうん、と納得したのかしていないのかよくわからない返事をして、彼女は手の中のうさぎさんだった物にまた鼻先を突っ込んだ。俺の分のウサギは皮を剥がれ血を抜かれ解体されて、俺が食べるために焼かれている。食べなければいけないのはわかっている。わかっているが、手が動かない。
「そろそろ焼けてるんじゃない? 食べなさいよ」
「あ、うん」
「食べるくらいは自分でできるでしょ? 人間は生で食べられないんだからわざわざ捌いて焼いてあげたのに」
「た、食べるよ」
「ん」
俺が頷くと、彼女はわざわざ串を取って俺に渡してくれた。そう、昨日あれだけ距離を取ろうとしていた猫の女の子が今朝はなぜか俺の隣に座ってもぐちゅもぐちゅしている。つっかかってこないし、威嚇もしてこないし、あれだけツンケンしていたのが嘘のように優しい。俺が携帯食料に見えてきたから優しくなったとかいう最悪の可能性は考えないことにするとして、原因はいくつか考えられる。一晩寝て余裕ができたからとか。単に気が変わったからとか。さっきちょっとだけ役に立ったからとか。
いや、わかっている。わかってはいるんだ。昨日眠る前に交わした言葉。それがおそらく、彼女と俺の距離を縮めたんだろう。それはなんとなく、わかっているんだが。
ぶっちゃけ何を言ったか全く覚えていない。眠くて。
もしこれがバレた場合、怖い。今のところ友好的なだけに反動が怖い。何を言ったんだ昨日の俺。頼むから常識の範囲内に留めておいてくれよ。まさか口説いたりしたことはないと思うが、いや、でも……なにが辛いって質問した瞬間不正解なのが辛いぜ……獣人って人間喰ったりする? という疑問が出てきたのも辛いぜ……この状況下では生きたまま喰われるとかあるからな……
心痛が忌避感に勝って、俺は肉を口にする。焼き立てうさぎさんはおいしかった。ちょっと涙が出そうで出ないくらいにはおいしかった。
「そろそろいい?」
満足したのか、ウサギの残骸を手に抱え、顔を血と脂でべとべとに汚したまま女の子が聞いてきた。なにがそろそろいいなのか。やっぱり昨日の俺は喰われるとか約束したんだろうか。わからないまま、頷く。
「私の名前はセレステ。セレステ様って呼んでいいよ」
「それはいくらなんでも」
「そこで焼けてるウサギは誰が獲ってきたのかな?」
「……」
「そこで燃えてる焚き火は誰が火を熾したのかな?」
「セレステ様ごめんなさい」
「よろしい」
うんうん、と満足そうにセレステは髭をピコピコ動かした。言ってることは大変ムカつくが、そうしていると背伸びをした子供みたいでかわいらしい。
「それで?」
「俺の名前は光永 凪」
「みつながなぎ?」
「みつなが……いやいい、ナギって呼んでくれ」
「ナギね、わかった」
ナギ。呼ばれて、微笑みかけられて、俺はわけもなく嬉しくなって、血まみれでなければセレステに抱きつきたいくらいだった。彼女がロリじゃなくて獣人じゃなくて精神の危うさが見え隠れしていなかったら惚れていたかもしれない。
こっちの世界に来てから、俺の名前を聞いてくれたのも、名前を呼んでもらえたのも、これが初めてだったから。
「ちなみに勘違いしてるみたいだから言っておくけど」
「うん?」
名前って大事なんだな、と俺がしみじみ感慨に耽っていると、セレステはぴっと指を一本立てた。
「私の方が年上だからね、多分」
……え。え、ええええええええ。目の前の猫獣人をまじまじと見てしまう。身長といいなにといいどう頑張っても小学生、おまけしても小学校高学年だ。それはないだろ。俺、飛び級もなにもしてない元高校生だぞ。
「あ、信じてない」
「いえ、そんなことはありませんよセレステ様。セレステ様の仰ることですから。ただちょっと、ちょっと気になったというか、その、セレステ様を見る限り、ねえセレステ様」
「あんた性格悪い……いいよもう、セレステで」
「……で、おいくつですか」
ぴっ、と指が二本になった。
「二十歳」
「詐欺だろ!」
そりゃ、見た目通りの年齢ではないだろうとは思ってたけど。二十って。ファンタジー的なお約束で獣人はみんな成長が遅かったりするのだろうか。それともただ単にこいつが発育不良なだけなんだろうか。だいぶんむっとしているご様子なのを鑑みるとどうやら後者な気がする。
「私だって、いつかはこう成長して……大きくなるのよ!」
「大きく」
大きく。つい、その平原というか荒野というか、薄紙一枚体型相応の胸に視線をやってしまった。大きく。うん、大きくなーれ。
容赦ない猫拳制裁が下った。
「いてっ」
「そこだけおっきくなったってしょうがないでしょ! 全体よ全体! このケダモノ! ロリコン!」
「ち、違います、違いますって、あ、ちなみに俺十六」
「ちょっとガキっぽいけど妥当なところね、ロリコン」
「……ナギでお願いします」
「へえ、そんなこと言うんだロリコン。ロリコンがそうしてほしいなら、まあ、考えないでもないけど。ただ人の胸をじろじろ見てそれを隠そうともしないなんてロリコンさすがロリコンだなーみたいな。ねえロリコン」
「セレステ様ごめんなさい」
「よろしい」
「でも人をロリコン呼ばわりするってことは自分をロリだと認めてるんですよね?」
「どうせ私はロリよ!」
やってはいけないとはわかっている。わかっていても、つい揚げ足を取ってしまうなにかがセレステにはある。にゃんにゃん怒るセレステを宥めつつ俺は最後の串に手を伸ばして、その手をはたき落とされた。
「焼いたのも食べたい」
「……そうですか……」
手が血塗れになった。言いたいことはいろいろあるが文句は言えない。おいしそうにもぐもぐするセレステに恨みがましい視線を送りつつ、火にかけた鍋の様子を見る。青い鍋の中で川の水がぐつぐつ煮えていた。
「そろそろ飲んでもいいですかね、これ」
「いいんじゃない?」
やたらと平たい鍋は水がたっぷり入っているせいで持ちづらい。取っ手をもっとちゃんとイメージしておけばよかった、と後悔しながら俺は冷めるのを待った。そう、これは俺の権能で作った鍋だ。持続力を試したことがなかったので心配だったが今のところ消える気配はない。ウサギを捌くのにも権能でナイフを作ったし、藪を払うために鉈も作った。脆くて扱いに気をつけないとすぐ粒子に分解されてしまうとはいえ、イメージした形そのままが作成できるというのはサバイバルに便利だ。しかし、それだけだ。そもそもこれは本当に権能なんだろうか。戦闘向けに研ぎ澄まされたエルデ・Eの地狼と比べるとこれが発展していったところで戦えるようになる気がしない。そもそもこんなもんが発展してどうなるというのだろうか。
「生活がもっと便利になる」
鍋を粒子に還元した後、この世界の住人である以上権能について俺よりは詳しいだろうセレステに聞いてみたらそんな答えが返ってきた。電化製品扱いだ。俺もそう思うけど。
「権能とかあるのは知ってるけどおとぎ話みたいな扱いだから。詳しいことなんてわかんないわよ」
「そういうもんですか」
焚き火を踏みつけ、川で汲んできた水をかける。きちんと火が消えたのを確認してから俺たちは川の方まで歩き始めた。道中で立ちあがってこちらを窺っているウサギを見かけて、なんとも言えない気分になる。セレステは剥いだ皮で作った空の袋を大事そうに抱えて俺の横をてちてち歩いている。歩幅をできるだけ狭めるよう心掛けながら、俺は空を見上げた。どうやら今日も雨が降る心配はなさそうだ。昨日降っていたら、死んでいた。剣を持っていなかったら。セレステが脱走していなかったら。今更ながら命の危うさに背筋がぞっとする。
「ねえナギ」
「ん?」
隣のセレステが見上げてくる。獣人とはいえ小猫の仕草だ。かわいいかわいいとか言って頭を撫でたら確実にめんどくさいからやらないでおく。
「名前教えたあたりから敬語になってない?」
「ああ、年上だってわかったので」
「今更いいよ。敬意なんてないくせに」
「そんなことはないけど」
「ほんと?」
「ほんとほんと。感謝してるよ」
どうだか、と憎まれ口を叩きながらもセレステの尻尾はゆらゆらと揺れている。動物の表情などわからないので雰囲気で察するしかないがどうやら悪い気分ではないらしい。単純明快なんでも筒抜けのエルデ・Eとは違ってセレステはいろいろと難しいところがあるのでなんとも言えないが。
「さて」
川に辿り着いたところで、俺はセレステに向き直った。
「人間と獣人の……いや、獣人と人間の勢力図も俺は全く知らないんだが、ここはどっちに近い?」
「……」
なにを言うでもなく二人で川に向かったところから、こういう質問が来ることはわかっていただろうに、セレステは静かに俯いた。
「脱走したからにはセレステも獣人のところに戻るつもりだったんだろ?」
「そう……だけど」
「……俺もまあ、人間のところにできれば戻りたいんだが。ここで別れてさようなら、となったら俺は確実に、君もおそらく死ぬのはわかってる」
「そういう言い方は卑怯よ」
「セレステ、俺は君に強制できるような立場じゃない。俺は生き残りたい。君だって死にたくないだろう。俺たちは森を抜けるまでは二人で行動するしかない。でも、獣人側に行ったら俺が殺されるかもしれないってのはわかる。逆も同じだから」
「ナギ!」
「君がいない間に木を登って周囲の風景を確かめた。結構流されたようだし人間の領域からはだいぶん遠くなってると思う。ということは、おそらくここは獣人の領域に近いはずだ。セレステ、人間が獣人の支配する地域に入った場合、生きのびることはできるものだろうか。頼む、助けてくれ」
「ナギッ!」
セレステは手にしていた袋を放り捨てるといきなり俺の鳩尾を殴りつけた。
「私に、私に優しかったのはそうやって媚びるため? そうやって利用して、りよ、私を利用してっ」
ぼろぼろ涙をこぼしながらセレステは俺を突き飛ばし、胸乗りになって俺を何度も殴る。しまった。どうも情緒不安定な気があったから理詰めで話してみたのだが逆効果だったようだ。
「セ、セレステ……誤解だよ」
「嘘つき! せっか、せっかくやさし、なのにっ! 名前も! そうしようって考えてたんだ!」
「違うってば! 俺はただ、どうしたらいいかを相談しただけで」
「死んじゃえっ! ナギなんか、ナギなんかここで死んじゃえばいいのよ、ナギなんてっ!」
参った。気を悪くするかもしれないとは思っていたが、ここまで怒るとは考えていなかった。ヒステリーというやつだろうか、話が通じていない。セレステは思ったより力が強く、こうしてぼこぼこ殴られていると死にそうだ。
「セレステ、俺は、俺はただ……君にそこまで、甘えていいかって、聞きたくて」
「甘えて……いいか?」
拳がぴたりと止まった。この機を逃さず畳みかける。
「この森でもそうだけど、今の俺は、君に頼ることでしか生きられないからさ。なんかその、俺が願ってるほど君が俺に好意を抱いてくれてるかわかんなかったし、もしあったとしてもそれにつけこむことになるわけだし、なんていうか、確かめるのが……確かめるのが、怖くてさ」
落ち着かせるためのおべんちゃらだったはずが、口にして初めて自分がそう思っていたのだとわかる。俺はこの子が好きなのだ。この子に俺を好きでいてほしいのだ。それが利用するためなのか、そうでないのか、曖昧なだけで。
セレステは薄青の瞳を涙で煙らせて、俺の喉を掌で包み込んだ。ふかふかな毛皮が温かく締め付けてくる。
「セ、セレステ……」
「ナギ……」
白い猫の女の子、この世界で初めて俺の名前を呼んでくれた彼女は、俺の名を呼びながら俺の首を絞めてくる。振り払おうとした手は蹴り飛ばされて。じわじわと力が増していく。不意に俺は目の前のこの少女が俺より遥かに強いのだと悟った。殺される。これまでは通り過ぎてから怯えるだけだった死が今俺の正面からやってくる。
息が苦しい。
死にたくない。
わかっているのに、逆らえない。
そうして俺は、彼女がとてもうつくしいいきものなのだと思い知った。わけのわからないことを喚いていて、俺を殴り倒して、首を絞めて、それでも俺は彼女をうつくしいと感じる。感じてしまう。その不健全なうつくしさに、力を奪われる。
そうして、うつくしいひとは朦朧とする俺の耳元に口を寄せて。
「……いいよ、甘えても」
優しい声で、囁いた。
「ここらへんを治めてるチューチュエは私の知り合いだから、人間一人くらいはどうにかしてくれると思う」
「あ、うん」
「安心してね、ナギ。そりゃちょっとは自由を制限されるけど、私がちゃんと面倒見てあげるから」
「あ、ありがとう……」
ここから獣人が支配している領域へはだいたい二日ほど歩けば着くらしい。川に沿って俺たちはてくてく歩く。セレステは親切にもいろいろと獣人のことや野山でのサバイバルについて教えてくれた。できるだけ愛想よく返しながらも俺は内心困り果てていた。
誤解まではまだわかる。実際そういう目算がなかったと言えば嘘になるところはあるし、俺がセレステを利用しているのは間違いない。それで怒るのはむしろ当然のことだ。
そこであなたは俺のことが好きですかと聞かれて、首を絞めて殺そうとして、上機嫌になる。わからない。全くわからない。俺にはこいつがなにを考えているのか全く理解できない。
生殺与奪を自由にできる奴隷ができたから嬉しいんだろうか。それならまだわかるし、胸糞悪いがそうであってほしいとすら思う。でもなんとなく、これは俺には一切理解できない理屈からそうなっているんだろうな、という感触がある。
……狼女の方がマシとはな……あっちはただアホの子すぎて鬱陶しいだけだもんな……いや俺のことを殺しかけるのはあっちも同じだけど、でも故意ではないからなあ、少なくとも……
なんにせよ、これが獣人の標準だとは思いたくない。この世界標準だとも思いたくない。そもそも俺が人柄がわかるほど話したのはエルデ・Eとセレステだけだ。
「あれっ?」
突然立ち止まった俺に、横のセレステは尻尾を一振りした。
「どうしたの?」
「いや……俺、運、悪いのかなって、思って」
「え……う、うん、まあ、異世界に召喚されてるんだから、悪いんじゃない? 運」
「……ああ……」
そういえばそうでしたね。そんなこともありましたね。
突然落ち込んだ俺を慌てて慰めようとする原因に生返事をして、俺は上を見る。一緒に泣いてくれるつもりはないらしく、空は綺麗に晴れていた。