4:森にて窮す
その日。彼女と彼の、最後の日。
「勇者殿?」
その日の彼はどこか上の空だった。いつもなら呼びかければすぐ返事してくれるのに、それがない。心をどこか遠くに置いたまま、空を見上げている。
「勇者殿、なにか気にかかることでも?」
「え? ああ、わかっちゃいましたか」
彼女、Eの名を記された彼女、エルデ・Eの言葉に、彼は苦笑してみせた。
「俺は……ちゃんと帰れるんだろうかと、そう、思ってしまって」
ああ、とエルデは得心する。明日から彼は初陣へと向かう。血肉渦巻く戦場へ漕ぎ出すのだ。不安でないはずがない。
「勇者殿、この数カ月の訓練を信じるんだ。勇者殿はもう十分に戦える。大丈夫だ」
「そういうことでは……いえ、そうですね」
彼は剣を構え、軽く素振りをしてみせた。剣を持ち上げることすら覚束なかった最初の頃とは違い、随分と様になっている。盲目であるからこそエルデにはそれがはっきりとわかった。
「そうだ。俺が召喚されたときのことって知ってますか?」
なにかを振り払うような素振りを終えた後、唐突に彼は話題を変えた。
「うん?」
「ああ、その……この世界に来るときに気を失って、ベッドで気がついたものですから」
「神殿に召喚陣があると聞いた。神に定められた聖なる地であり、しかるべきときに勇者を呼ぶらしい」
「神殿……?」
「ここから北方にある。自分の生地だ。全く覚えていないから勇者殿と一緒だな」
「結構違うと思いますけどね」
「そんなことはない」
呆れているようでいてその声には笑いが含まれている。自然、エルデも笑顔になった。
「帰ったことないんですか?」
「ああ……神殿に立ち入るには禊を経ねばならないからな。国王陛下の剣である自分にはなかなかその機会がないんだ。文を交わすだけでなく、いつか父上と母上に直にお目通りをしたいとは思っているのだが」
「なるほど。なかなか難しいものですね」
「暇ができたら一緒に行こう、勇者殿」
「そうですね。そのときはお願いします」
ではこれにて、と立ち去ろうとする彼をエルデは慌てて呼び止めた。彼が目に入った汗を拭っている間に隅にこっそり隠しておいた包みを取ってくる。
「勇者殿、初陣の供にこれを受け取ってほしい」
「これは……剣、ですか?」
彼の手で包みが解かれ、鞘から剣がするりと引き抜かれた。彼の体格と癖に合わせて城付きの鍛冶師に見繕わせた剣だ。鎧と骨を叩き斬るための肉厚な刃。
「勇者殿の膂力ならこれがいいだろうと思ってな。訓練で使用しているものとそう使い心地は変わらないはずだ」
「ありがとう……ございます」
彼女が手ずから調整したそれは彼の手にぴったりと馴染んだようだった。彼に同行せよという命令が欲しかった、と思う。戦場で自分の与えた剣を振るう彼の横にいられたら。彼に背中を預けて戦う――それはどろりと生臭く、それでいてひどく甘い空想だった。彼が着実に経験を積んだならば、それが現実になる日もそう遠くないだろう。そう、経験。彼には経験が足りない。
「戦場では常に油断してはいけないぞ」
「はい」
「怪我の手当てと武器の手入れはきっちりするんだぞ」
「はい」
「上官の命に従って退くことが大切だぞ」
「はい……心配してくれて、ありがとうございます」
最後にそっと自分の手を握って感謝してくれた彼はとてもあたたかくて。
自分が盲なのを、エルデは初めてかなしく思った。
その日。彼女と彼の、最後の日。
「っはっ……げはっ!」
背中を強く打って俺は気を取り戻した。冷たい。水の中だ。流れに逆らって身を起こし、手に握っていた物を下に突き立てて前進する。どこに向かっているかはわからない。水の抵抗を横から受けているのだから、このまま進めば岸に辿り着くはずだ。そのはずだ。全身がひどく傷むし、そのせいか目も霞んでいる。それでも歩き続ければどうにかなるもので、俺はどうにかこうにか乾いた地面を踏むことができた。
「はっ……はっ……はあっ……」
大地に背中を預け、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸う。肺の中の空気を入れ替えるたびに自分が蘇っていくのがわかる。さっきまで死にかけていたというのに、俺はそう時間もかけず起き上がれるようになっていた。こうも回復が早いのも、岸まで辿りつけたのも、鍛えれば鍛えるほど強くなるというこの世界の法則のおかげだろう。視線を手元に落とす。杖となり俺の命を救ってくれたのはエルデ・Eがくれた剣だった。
「あっはは……お礼、言っておかないとなあ」
俺がこうして生き長らえているのはなにからなにまで彼女のおかげだ。やれやれ、と思いながら立ち上がる。川が流れているが、他には何一つ目印になるようなものがない森だ。木々に阻まれて上流の様子はわからないが、滝から落ちたんだから上流に向かうべきだろう。探索隊を出してくれていると思いたいが、崖の下に行くルートがないことも考えられる。万が一死んだものとして見捨てられていた場合でも、自力で人里まで辿りつけば、まあ、どうにかなるだろう。
なにはともあれ、滝まで行くか。このまま森の中で横死することだけは避けたい。剣を握り直し、俺は上流に向かって歩き始めた。
川はゆるやかなカーブを描いてゆるやかに流れている。澄み切った流れの中を魚が泳いでいた。流れの中で彼らはゆらゆらと尾鰭を動かして一定の位置を保ち続けている。器用なものだ。今の俺なら素手で捕まえられるだろうかなんてことを考えながら、彼らの横を通り過ぎて、川上へ。
太陽が空を赤く染める頃、深い淵に辿り着いた。俺の乗っていた馬車の残骸らしきものがいくつか流れ着いている。最早見る影もないが薪くらいにはなるだろう。火がないな、と思いながら近づいて。
「えっ?」
そこに倒れていたのは、俺の奴隷であったはずの猫の女の子だった。
どっ、と体が冷えた。人を見たことで、ようやく自分がまだ朦朧としていたことに気づく。濡れたままだった体は冷え切っているし、そこかしこがずきずきと痛む。このまま歩き続けてでもいたらそれこそ野垂れ死にだ。
「ああもう、なにやってんだ、俺はっ! おい、大丈夫か?」
抱き起こして呼びかけても女の子は返事をしない。呼吸はしているからまだ生きているものの、その体は俺と同じくらい冷たい。
「くそっ、せめて火が使えれば……どうするんだったっけ」
木を擦り合わせると火がつくんだったか。いや、それより今は女の子をどこか安全な場所で休ませる方が先だ。ああ、でも、役に立つ物が流れ着いていないだろうか。考えが纏まらないまま、俺は付近をうろうろと歩きまわった。残骸ばかりだ。ひとまずここを離れてどこか暖を取れそうな場所に避難するべきだろう。そうだ。そうしよう。
片手に女の子を抱きかかえ、もう片方の手で木と思われる残骸をいくつか拾い上げる。どうにか火を起こして暖まらなければ。
しばらく歩いて川からそう離れていないであろう大きな樹の下に辿り着いた。猫の女の子から簡素な服を剥ぎ取る。濡れてぺたりと貼りついた全身の毛を触って、少しでも水気を払う。そうしてから俺も服を全て脱ぎ、木の枝にかけた。猫の女の子を優しく地面に寝かせ、手にした木切れを擦り合わせてみる。当然ながら火のつく気配はなかった。どれくらい早く、どれくらい長くやれば火がつくものだろうか。見当もつかないがやるしかない。俺がしばらく手の中で木片を擦り合わせていると、後ろできゃっと悲鳴が上がった。
「気がついたか。よかった」
「え……あ……?」
「大丈夫か? 痛いところは?」
俺が話しかけても彼女の薄青の瞳はふらふらと彷徨うだけではっきりと焦点を結ばない。見かねて俺が手を伸ばそうとした途端、彼女はすいっと俺を見た。
「や……」
「あ」
「やだ……いやだ……いや……いやぁ……」
「お、おい?」
様子がおかしい。縦に長い瞳孔が収斂と拡散を繰り返している。止める間もなく彼女は昂ぶっていき、激発した。
「やだっ! やだやだやだやだやだっ! いやっ! いやっ! やだあっ! やだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
それはもはや声ではなく咆哮だった。人間では認識することすらできない感情の澱が小さな口から撒き散らされる。怖かった。心というものを捻じ切られてしまうような、心臓を自分の手で引きずり出すような、それが。
始まりと同じく、それは不意にふつんと途切れた。
「あ……? あれっ? ここは?」
猫の女の子はきょとんとして俺を見る。そこには確かに理性があり、先程の狂乱は跡形もなく拭い去られていた。
――ぞくり、と背筋が震えた。
その予感を振り切るために、俺は無理矢理話しかける。
「い、いや……その、大丈夫か? どこか痛いところは?」
「ここは?」
「どこかの森。君はどうしてここに?」
「……そっちは?」
「馬車に乗ってて、滝から落ちた」
「なんですって?」
俺がありのままを告げると彼女は信じられないと言わんばかりに顔を顰めた。
「私は……城の外に出る補給の馬車で脱走しようと、したんだけど」
「……おいおい」
脱走って、君。よく見ると彼女の首に隷奴ノ輪は嵌っていなかった。外してもらったのだろうか。自分で外せるのでは奴隷の意味がないような気がするのだけれど。
「とりあえずさ」
「近寄らないで!」
俺が近寄ろうとすると、彼女は逃げようとしてぺたんと座りこんでしまった。どうやら幼い分体力の消耗が俺より大きいらしい。そんな状態でも彼女はシャアァッと凄い声を出してこっちを威嚇してきた。
「近寄ったら、殺す!」
「ちょ、ちょっと待てってば。俺は君を傷つけるつもりはなくて」
「うるさいッ! 人間でしょ、あんた!」
「そ……それは、まあ……悪かったよ。俺は異世界から来たもんだから、人間と獣人のそういう感覚わかんなくてさ。でも、君を傷つけたりはしない。信じてもらえないかな」
「どうだか。ロリコンのくせに」
「ロッ、ロリコン!?」
目の前の幼女の口から飛び出した罵倒に俺は思わず仰け反った。どういう仕組みで会話が通じているかは知らないが異世界にもロリコンという概念があるとは。ここまで来ると人類の業だな、ロリコン……
じゃなくて。
「どうして俺がロリコンになるんだよ!」
「私の服脱がしといてよく言うわよ、ロリコン! しかも自分も裸だし!」
「濡れてたからだよ! だから俺も脱いでんだよ! 冷静に考えろよ!」
「服どこ?」
「そこの木の枝。でもまだ乾いてないぞ」
「ほんとだ」
女の子はまだ湿っている服を眺めて溜息をついた。ところで今どのタイミングでこの子が冷静になったのか誰か教えてください。いやロリコン連呼されるよりはいいんだけど。
森の中に一糸纏わぬ女の子と二人きり。ロリコンだったら諸手を挙げて神に感謝しそうな、なにやらマニアックなエロスの香りがするシチュエーションだが、相手は小学生くらいの幼女だし、毛に覆われた猫の獣人だし、敵意バリバリだし。俺はロリコンじゃないし獣姦チャレンジするほど飢えてない。加えて二人とも明日の朝に冷たくなっていてもおかしくないと来ている。やっぱり人間死に瀕するとバカになるのかな、と俺は自分を訝りながら彼女に木片を差し出してみた。
「そうだ、火を熾せるか?」
「やり方知らないの?」
「異世界から来たんだってば」
「ふーん……」
俺がもう一度繰り返すと、彼女は明らかに信じていませんよという態度で頷いた。それにしてもこいつ、人形のようだった城とではえらく印象が違う。ちらちら透けていたあれですらまだ演技だったのか。俺はこの子のことをなんにも知らなかったんだな、と今更思う。
「あ、そうだ。思い出した」
「なに?」
「名前教えてくれないか?」
「……あんたねえ……」
彼女はふうと溜息をついた。円滑なコミュニケーションのため、自己紹介くらいはいい加減しておくべきだと思ったのだけれど。
「いや、そのさ……ここはひとまず、協力しないか。でないと俺たち死ぬと思う」
「そうね……しょうがない、ひとまず休戦協定を結びましょう。協力しないと駄目みたいだし。言っておくけど私はもうあなたの奴隷じゃないから、命令されても嫌なものは嫌って言うからね」
「名前……」
「いいでしょ、そんなことどうだって。それよりほら、火を熾すんでしょ?」
思いだしたついでに聞いてみたがやっぱり名前は教えてくれなかった。残念。
「ナイフとか持ってない?」
「持ち物はこの剣しかない」
俺が剣を差し出すと彼女は露骨にびくついた。
「それ捨ててきて」
「いや、それはまずいだろ」
森の中に放り出されたこんな状況では武器があるのとないとでは大きく違う。それになによりエルデ・Eがくれた大事な剣だ。実利半分心情半分で俺が首を横に振ると彼女はとても嫌そうに剣を睨む。
「大丈夫だって。俺はこの通り火も熾せないくらい知識がないんだから。君に協力してもらえなければそれだけで死ぬってことは理解してるから、安心してくれよ」
「あんまり安心できない言い方ね?」
「状況がどうであれ君を積極的に傷つけるつもりはないよ」
「どうだか」
肩をすくめ、彼女は立ち上がろうとして……ぺたんと座りこんでしまった。
「まだ立てないか?」
「……そうみたい」
尻尾がしょんぼりしている。ちょっとかわいい。
「邪な気配を感じるんだけど」
「ご、ごめんごめん」
だんだん彼女の視線が険呑なものになってきた。安心させるため剣を彼女の前に置いて、濡れたままの服を身に付ける。
「淵に馬車の残骸と君が漂着してたんだ。道中で小枝とかを拾うついでにそこになにか役に立つものが流れ着いてないか見てほしいんだけど、おんぶとだっこ、どっちがいい?」
「どっちも嫌」
「まあまあ、遠慮なさらず」
「う、うう……あんたが一人で拾ってくればいいじゃない」
「俺じゃ見分けがつかないし、こんな森の中に君を一人で置いてくわけにはいかないよ」
「そんなにふらふらなのに?」
「できるだけ努力はするけど、駄目だったら見捨てて逃げてくれ」
「……駄目じゃなくても見捨てるけど」
「そこまでするなら無事逃げ伸びてくれよ?」
「……あんた、やな奴ね」
「そうでもない」
手を差し出す。体を固く強張らせ、俺を薄青の瞳で睨みつけ、それでもおそるおそる、手を伸ばしてくれる彼女に。その凍える小さな手を、俺はきゅっと握りしめた。
ぱちぱちと俺たちの間で焚き火が燃える。作業こそ全部俺がやったものの、火を熾すのは十分もかからなかった。時折拾い集めた小枝を投げ入れて火力を調整する。彼女は膝を抱え込んでなにやら考え込んでいるようだった。城で話していたときはわからなかったが、彼女は外見の幼さに反して随分と大人びている。獣人だからだろうか。それとも奴隷としての生活が彼女を大人へ追いやったのだろうか。
俺の視線に気づいて彼女がふっと顔を上げる。
「……なに?」
「いや、なに考えてるのかなと思って」
「あんたがどうしてこんなに馴れ馴れしいのかってこと」
「城にいたときとそう変わらないつもりだけど」
「もう十分馴れ馴れしいってことを言ってるの」
「そっちは変わりすぎ。猫を被るとはこのことか」
「猫だもの」
くだらない冗談だったが、それでも彼女はくすりと笑う。その年相応のあどけない笑顔が嬉しかった。
「なあ」
「なに?」
「……こっちの世界の森の中って……」
「……普通にこうやって地面に寝てたら、襲われるかもね」
「やっぱりか」
もう夜も近い。疲れ果て、傷だらけで、それでも俺たちは眠れなかった。眠りは死に最も近しい行為だという。今目を閉じると、その境界線を踏み越えてしまいそうで。安全な場所を探すだけの体力はもう残っていない。俺たちは同じ恐怖を胸に抱いたまま、こうして焚き火越しに見つめ合っている。
「くっついて寝ないか?」
「嫌」
「悪い」
交代で火の番をすることもできそうにない。漂流の後の探索で疲労は限界に達している。どのみち、眠るしかないのだ。
「……ねえ」
泥濘のような眠りに引きずり込まれていく。徐々に輪郭が薄れていく世界の中で、彼女の声だけがくっきりと響いた。
「どうして、私の名前が知りたいの?」
――この世界で、俺が話したのは、君が二番目なんだ。こうして喋ってくれて、返事もしてくれて。嫌かもしれないけど、君は俺の大事な人なんだ。どれくらい大事かはよくわからないけど、でもほんとうなんだよ。逃げてとか、ああいうのも、ほんとうなんだ。うそじゃないんだ。
「ねえ。明日起きたら、名前を教えてあげる。ちゃんと教えてあげるから、あなたも名前教えてね」
――いい。それはいいな。とってもいい。最高だ。ふたりで、ふたりで明日、名前を教えあおう。
途切れていく意識の向こうで、彼女の声がやさしく何事かを囁いている。
俺は安心して、眠りの海に沈み込んでいく――