3:城を離るる
からからころころ、馬車が行く。窓の外には草原が広がっていた。時折林や川も見えるが、基本的にはなにもない、実にのんびりとした草原だ。ここに逃げられたらと思わずにはいられなかった。
「勇者殿、そんなに外が珍しいかね? やはり元の世界とは違うかね?」
「だいたい一緒ですが……何分、城の外に出るのは初めてなもので」
「あー、そういやそうだったな」
俺の向かいに座っているおっさんは何が楽しいやらがははと笑う。重厚な鎧に身を包み、巨大な槍を左に添わせて。俺の中にある豪放磊落な戦国武将のイメージをそのまま取り出したような彼はイュンヤング王国の将軍、ドゥリ・タラー・シュトラだ。明言はされなかったが、話を総合するにどうも軍を統括している、らしい。
「いやー、悪かったな勇者殿。いやな、エルデ・Eに訓練させとけとは言ったんだが、まさかそれしかせんとは思わんかったんだな、これが」
すまんすまん、とドゥリ将軍は頭を下げてくる。あまり堅苦しいのも話しづらいからとえらく気安い。親戚のおじさんみたいな雰囲気につい流されてしまいそうになるが、最低限の節度は弁えておく必要はある。仮にも相手は最高権力者の一人であり、おそらくはその日の気分一つで俺の首を刎ねることができるのだから。できるだけ丁寧に、それでいてそっけなくならないように。
あの狼女になにかを任せるなよという文句は心の中に押し込めて、念のために確認してみる。
「やっぱりあの訓練っておかしかったんですよね」
「普通の騎士は城内百周走らされたら一日動けんよ。勇者殿根性あるなあ」
騎士がどれくらい強いのかわからないが、どうやら今の俺は正規の軍人より体力があるらしい。ありがとうエルデ・E。自分が一体なにをされたのか覚えてないほど過酷な訓練を施してくれてありがとうエルデ・E。
あの日々を思い出した俺が余程酷い顔をしていたのか、ドゥリ将軍は苦笑して俺の肩を叩いてくれた。
「ま、ごくろうさん。身になったんだから感謝はしとけよ。そういや勇者殿は戦争のない世界から来たんだっけ?」
「俺の住んでる近くでは戦争してなかっただけです。喧嘩もしたことなくて、剣を振るのも初めてで」
「勇者殿の世界には獣人どもがいないんだったか。いいよなあ」
「そうですかね?」
「そういうもんさ」
人間だけでも戦争はしてますよと言いかけて、やめた。この世界の人間たちはずっと獣人と戦争をしていて、それが当然だと感じている。そんな人たちに人間同士で戦争していますよと言ってもしょうがない。
「そうだ、ドゥリ将軍。一つよろしいですか?」
「おう」
「実のところ、エルデ・Eってどれくらい強いんですか?」
「んー、世界最強だな」
「え……」
暗くなった気持ちを吹き飛ばそうとした質問にとんでもない回答が返ってきた。世界最強。やっぱりあれが。
「素ならまあ俺が勝つが、権能を持つってのは格が違うってことなんだな、これが。あれに勝てると思うか?」
考える間もなく首を横に振る。エルデ・Eの権能、地狼。この世界のことをまだよく知らない俺にもはっきりとわかる、隔絶した力だ。
「行方知れずの天豹なら同等かもしれんが、おそらく今の保持者は未熟か自覚がないかだろうから、勝てんだろうな」
天豹。名前からしておそらく地狼と対になっているのだろうが、あんな力の持ち主がまだ他にいるだなんて考えたくもないことだった。渋い顔をする俺に対し、ドゥリ将軍は「勇者殿もいずれエルデ・Eくらい軽く倒せるようになってもらわんとな」などととんでもことをおっしゃる。人事だと思ってか素晴らしい笑顔だ。権能なんてよくわからん力はあげるので勝手にやってくださいと言いたい。権能ではあるのだろうが、俺の「イメージした通りの青い立体を作り出す力」であんなものに一体どうやって勝てというのだ。
「ほんとに行方不明なんですね」
「権能なんてとんでもない力があれば名が自ずと知れるってもんさ。天豹に地狼、権能があるってことは獣人どもですら知ってることだからな」
「隠れてるだけってこともありますよね。できるだけ使わないようにして」
「今の世の中、隠れたところでどうなるってもんでもあるまい」
「そうですかね?」
「そういうもんさ」
肩をすくめてドゥリ将軍は槍を取る。
「すまんがこれより森なんで、俺が指揮を執る。獣人どもが来たら適当に蹴散らしといてやるから安心しろ」
「奇襲ですか?」
「おう。ここらを仕切ってる獣人はチューチュエって鳥の女なんだが、奇襲をよくやるんだな、これが」
「お気をつけて」
「なーに、いざとなったら勇者殿が蹴散らしてくれるだろ?」
「ドゥリ将軍にお任せします」
先程さりげなく素ならエルデ・Eに勝つ、と言っていたことであるし。ドゥリ将軍はひょいと片眉を上げるとにかっと笑って馬車を出て行った。巨体にそぐわぬしなやかな身のこなしだ。窓から外を覗くと慌ただしく隊列を変える兵士たちの姿があった。前を見ることはできないがどうやらこの先は森を行くようだ。
さて、と俺は一人きりになった馬車の中で体を伸ばした。俺が乗せられている要人用馬車は防音処置を施されているのか中は静かで考えを纏めやすい。
あの実り少ない国王との謁見を終えた後も、俺の扱いは大して変わらなかった。召使いや兵士たちと話すことは許されたようだが、彼らの話にも大して目新しい情報はなかった。
……貴族の醜聞はそこそこ集まったが。フィレール男爵は男児に踏まれるのが好きとか。ストーナー伯爵夫人は縛られると濡れるとか。そういったエロい話が面白くないわけじゃないが、全く役に立たなかった。みんなに性癖知られてるストーナー伯爵夫人すげえくらいしかわからなかった。わかりたくなかった。
脱線した思考を元に戻す。この隊列が向かっているのは比較的獣人の攻勢が弱い南部の前線基地だ。俺はそこで数日の間戦場の空気に馴染んだ後、初陣を飾らなければならない。さもなくば殺されるだけだ。正直なところ、自分の中では戦争に駆り出されることについて覚悟も実感もないのだが、そんな事情は一切考慮されていないようだった。多分、この世界の人間にとって戦争は日常の一部なのだ。戦える人間なら戦場に出向いて獣人を殺す。それが普通のことだから、戦わないという選択肢を考えつかない。自分と同じように考えて喋る存在を殺したくないと言ったところで、それを理解してもらえることはまずないだろう。
ましてや俺は勇者だ。曖昧に濁されたままではあるが、元の世界に戻るためには己に課せられた役目を果たすしかなく、それは獣人を殺すということで。手段と目的の違いがそれだけとは因業なことだと思わずにはいられない。
やるしかないのだ、それでも。
街道にある枝を踏んでいるのか時折足元からぱきぱきという音が鳴った。窓の外は一面の緑だ。外に出て空気の匂いを嗅いでみたかったが、ドゥリ将軍がわざわざ指揮を執るような場所で身を晒すような危険は犯せない。じっと聴覚に集中していると、微かなざわめきが耳に届く。原因のわからない音に緊張していたが、それがなにかはすぐにわかった。
「ああ、滝か」
大量の水が奏でるそれは最早音というより振動だった。窓からは見えないからおそらく足元から更に下に流れ落ちているのだろう。隊列はその流れの上にかけられた橋を通るようだ。さすがに全員で一気に渡るような真似はせず、少しずつグループを作って渡っている。俺はどうやら一番最後のようだ。
丸太で作られているのか、橋にさしかかった途端馬車はがつがつと揺れる。舌を噛まないように口を固く閉じながら、俺は窓から少しでも滝が見えないかと首を伸ばして。
ふつん、と嫌な衝撃があった。
眩暈にも似た、しかしそれとは確実に違う感覚。落ちているのだと理解して、橋が壊れたのだと理解して、これは死ぬかもしれないと理解して。咄嗟に腰の剣を握り締めたところで、俺の意識は途切れた。