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跼天蹐地  作者: DC_DKV
1/10

1:地獄に落つ

 俺は地獄に落ちる。

 覚悟の上だ。怖いかと聞かれればそれは怖いと答えるが、今更何を言えるようなことでもない。当然のことだ。

 しかし。

 こんな地獄に落ちるとは予想外だった。


「ペースが落ちている! まだたったの三十八周目だぞ!」

「はいっ! すいませんっ!」

「謝るくらいなら走れっ! 走れ走れ走れっ!」

「はいっ!」

 後ろからの声に追いたてられ、俺は走る速度を早めた。体感ではもう100kmは走っただろうか。今日は八十周すると言っていたから、まだ半分もこなしていないことになる。広い城壁の内縁をぐるぐるぐるぐる俺は走る。踏み固められた地面は走りやすい。若草の青臭い臭いを胸一杯に吸い込みながら、走る。今日はこれが終わったら柔軟をして休憩して食事をとって剣の稽古をして、それが終わったらまたランニングのはずだ。ここ数ヵ月の間続けてきた通りに、走って走って走って走って走って、走り続ける。

「ペースを一定に保てと言っているだろう!」

「はいっ! 気をつけますっ!」

 時折擦れ違う騎士たちは誰もが気の毒そうに顔をしかめてはみせるが助けてはくれない。立ち話を盗み聞きしたところによると戦闘のプロであるところの彼らは俺より練習量が少ないらしい。八つ当たりに文句の一つも言ってやりたいところだが、俺が生きのびるためだと言われてしまうとどうしようもない。この世界に来たばかりである俺。その身体能力はそこらの子供にすら劣るらしいのだから。

「よし、百周終わり!」

 その掛け声を最後に、俺は地面に倒れ込んだ。周回数を数える余裕があったのは半分くらいまでだ。長距離走というのは肉体もそうだがなにより精神に来る。摩耗した思考が働きを止めてしまうのだ。

「勇者殿、ご苦労だったな。そこそこ動けるようになってきたではないか。最初と比べたら見違えるようだぞ」

 仰向けになり、全身を弛緩させている俺の視界を黒い影が遮った。

「ど、どうも……」

 俺の後をついて走っていたくせに疲れた様子が全くない。初めは嘘だとばかり思っていたが、一週間くらいなら走り続けられるというのもこの様子だと本当だろう。嘘をつくような人ではないし。

「て、ちょっと待ってください、二十周増えてません……?」

「途中で言ったぞ、勇者殿。走れれば走れるほどいいからな。頑張るんだぞ勇者殿。自分の目標は一月の間走り続けることだが、なに、勇者殿ならもっと先を目指せるさ。共に鍛えようではないか」

 一か月走り続けるって……違うだろ、それ。筋トレを逸脱して拷問か苦行になってるぞ。

「鍛えれば、その、そんなに強くなれるんですか……?」

「大丈夫だ。勇者殿ならできる」

 できねーよ! あんたは俺をなんだと思ってるんだよ! とか言うと「勇者殿だ」とか返ってきそうなので、俺は口を閉じて休憩に専念した。途中から朦朧としていたから確認はしていないが、この人も、本当に俺と同じ距離を走ったんだよな。どうしてこんなに平然としているんだ。理不尽だ。全身毛だらけのくせに暑くないんだろうか。

 俺の内心も知らず、彼女、エルデ・Eは涼しい顔をしている……多分。

「私情を挟むのはいけないことだが、自分は、勇者殿を鍛えるのは、大変に楽しい!」

 心からの笑顔でそんなことをのたまう彼女の後ろでは尻尾がばっさばっさと振られている。頭の上では耳がぴこんと立っているし、口の端から禍禍しい牙が覗いている。盲目なのだそうで、その目は固く閉ざされていた。人間の骨格に黒い毛皮を纏い、前に突き出た口吻が特徴的な狼の頭を備えたエルデ・Eは狼男……女だから、狼女か。人間ではなく獣人だ。狼の表情なんてわかるわけもないので声と雰囲気で判断するしかないのだが、かなりシンプルなお方のようだ。おそらく。

「あの……ええと、鍛えれば鍛えるほど強くなるってのは、その」

「本当だ。この世界の生物は全て体内に魔素と呼ばれる要素を含んでいる。それは鍛えたり経験を積んだりすると密度を高めるんだ」

「そして、密度を高めれば高めるほど、物理的な制約を超えて強くなる……ですよね」

「そうだぞ勇者殿。勇者殿は魔素がない世界から来たとかで、体に魔素が全く含まれていなかったからな。でも大丈夫だ。自分が勇者殿を鍛え上げて、自分と同等、いやそれ以上の存在にしてみせる」

 あんたの水準に辿り着いた頃には人間止めてるだろ……と言いたくなる。確かにこの狼女を獄卒としたエクストリーム筋トレ地獄に墜ちてから俺の身体は強くなった。元高校生のひよわな肉体からフルマラソンも軽く走りきれるくらいの身体には。元いた世界では考えられないほど強くなっているのはわかる。わかるのだが、彼女のようになるまで一体どれほどの修練が必要なのか。想像もつかないししたくない。

「その……地狼(ちろう)、でしたっけ。それとは関係ないんですか?」

 なんとはなしに聞いてみると、彼女はむっとしたようだった。

「いかんぞ勇者殿。自分の身体能力は完全に修練によってのみ培われたものだ。地狼はそういう力ではない。それに勇者殿だって、権能を持っているのだぞ」

 権能(けんのう)。それこそが、俺がわざわざ異世界から呼び出された理由なのだが。彼女のそれを見てしまうと、どうにも。

「仕方ないな勇者殿。特別だぞ? 見せびらかすようなものではないんだからな? 参考にするんだぞ?」

 なにを勘違いしたのか、エルデ・Eはいそいそと練習用の藁人形を引っ張ってくると、腰の剣をすらりと抜いた。流石に騎士をやっているだけあってその姿は様になっている。

地狼(HOD)

 ――凛、と黒の粒子が舞い散った。

 軽い眩暈。刹那のそれが消えたところで少なくとも20mは離れていたエルデ・Eが俺の隣に立っている。そして藁人形……正しくはその残骸は、粉々になるまで切り刻まれていた。

 これこそがエルデ・Eの権能――地狼。当人が説明下手なのでなにがどうなっているのかよくわからないが、文字通り目にも止まらぬ速度まで自分を加速できる、らしい。

 それに比べると俺の権能は随分と劣る。

「勇者殿も権能を使っているか? 放っておいても体に馴染むとはいえ、きちんと使っておかないといけないぞ」

「そういうものですかねえ」

「そういうものだ」

 これはもう、やってみせなければ解放してくれそうにない。渋々俺は手を翳し、意識を集中させる。自分の中に手を突っ込んで、必要なものを引っ張り出すイメージ。イメージといえば……あれでいいか。

 ず、と俺の手元にノイズがかかる。そのまま集中を続けていると、空がそのまま落ちてきたような青の粒子が徐々に集まって形を成していく。

「お、おおー」

「……ふう」

 肩のあたりに薄ぼんやりとした虚脱感がある。俺の手には青い骨の形をした物体が握られていた。これが俺の権能。イメージした通りの青い立体を作り出す力。

「相変わらず遅いな」

「少しは早くなったんですよ」

 大変応用に富む能力ではあると思うのだが、遅い。生成されるのがとても遅い。握りこぶし一つにつき十分くらいはかかる。それに。

「せいっ!」

 ぶん投げるとすぐさまエルデ・Eが走って行き、空中のそれを剣で叩き割る。隣の家で飼われていた犬用のガムを参考にしたそれはあっけなく砕け、青の粒子に戻って虚空に消えていった。あまりに脆い。

「ん。前よりちょっと硬くなった感じだな」

「破壊しといて言わないでくださいよ」

 わざわざそんな形にしては取りに行かせている俺の小さな復讐も知らず、エルデ・Eは嬉しそうだ。尻尾がぶんぶん揺れている。目が見えないのにどうやって感知しているのやら。


 権能。すべての理を打ち砕く能力。この世界でそう呼ばれる力は天豹(てんひょう)地狼(ちろう)の二つきりで、しかもそれぞれ一人しか持つことができないらしい。そんな制限があるというのに現在天豹の保持者は行方不明で、確認できるのは地狼のエルデ・Eだけなのだとか。絶対ではあるが、あまりに稀少な力。

 しかしながら、異世界から召喚された人間は必ずこの権能を持っているらしい。天豹でも地狼でもない、第三の権能を。今はまだ俺がこの世界に馴染んでいないため不完全な発現でしかないが、時間が経てば完全な形となり、そのときに権能の名前もおのずとわかるようになる、らしい。

 そう。俺が今いるところは地球ではない。もっと言うなら俺がいたのとは違う世界、いわゆる異世界というやつ、らしい。剣と魔法のファンタジーと言えばいいだろうか。なんとなくそんな雰囲気のある世界で、俺はそこに世界を救う勇者として召喚された、らしい。元の世界に帰るためにはこの世界を救うしかない、らしい。


 らしい、らしい、とはっきりしないことばかりなのは、俺を召喚した人たちがまず体を鍛えろとの一点張りだからだ。確かにそれは正しい。正面から闘ったこともない今の俺は弱い。それはわかる。

「でも、それだけじゃないよな」

 この世界に来てまだ数ヶ月。あちらもこちらもお互いのことを理解できているとは言いづらい。毎日付きっきりで俺を鍛えているエルデ・Eはあまり何も考えていなさそうでアレだが、一般の兵士は明らかに俺と関わらないよう言い含められている。俺がどういう人間か把握できるまで余計な情報を与えたくないのだろう。

 筋トレという名の地獄から解放され、与えられた部屋の窓から外を覗きながら、俺はそんなことを考える。やたらと高いところにあるこの部屋からは下の人間たちがよく見える。毎日毎日毎日毎日走らされている城壁があって、その向こうに町が広がっていて。中世ヨーロッパならこんな感じだったんだろうな、という景色があって。暮れなずむ世界では兵士たちが忙しく動き回っていて。殺気立っている彼らを見ればわかる。中世ヨーロッパもきっとこんな感じだったのだろう。

 戦争を、しているのだ。


「ご主人様」

 小さな声に振り向くと、いつの間に来たのかそこには小さな女の子がいた。

「お休みになられないのですか?」

「あ、悪いな……先に寝ててくれ、と言っても駄目なのかな」

「命令してくださるなら……」

「あーっと……した方が、いい?」

「どちらでも、お好きなように」

 ふるふると首を振る彼女もまた人間ではない。エルデ・Eを狼女とするならこっちは猫幼女だろうか。まだ子供でしかないかわいらしい猫の頭で、白藍色の瞳が俺を見つめている。滑らかな体毛の身体は小学生くらいだろうか。硝子のように無機質で、透明な子だ。

 そんな彼女の首には重苦しい銀の首輪が嵌っていた。薄暗くなってきた室内でそれは妖しく蝋燭の光を弾く。

「君は……どうしたい?」

「ご主人様の望むままに」

 なんの感情も滲ませることなく、彼女はそう言う。愛くるしい猫獣人の彼女は、愛玩用として俺に与えられた奴隷だ。こうしてときどき俺の部屋に来て話すためだけに、首輪の魔法で意志を制限され、隷属させられている。

「名前……教えてくれないかな」

「名前はいらないです、ご主人様」

「……ん」

 あだ名ですら拒絶されそうな響きがそこにはあった。しょうがないので、俺は彼女を君とだけ呼ぶことにする。

「なあ、君はこの世界がどんなところか知ってるか?」

「世界は世界です」

「……ま、そうなんだけど」

 虚ろな瞳には語る言葉もない。その小さな頭を頭をわしわしと撫でた。

「いいんだ。おやすみ。明日もよろしくな」

「おやすみなさい、ご主人様」

 音もなく退出していくちっちゃな尻尾に手を振って、俺はベッドに寝転がった。明日も筋トレだ。明後日も筋トレだ。このままではずっとずっと筋トレだ。まさか俺を筋トレさせるためだけに呼び出したのでもあるまいし、いい加減情報を得なければならない。

 俺は何を求められているのか。

 誰と闘わなければいけないのか。

 元の世界に帰る方法はあるのか。


 俺は帰らなければならない。

 元の世界に帰らなくてはならない。

 帰って、義務を果たさなければいけないのだ、俺は。

 なにを犠牲にしてでも。

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