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Two find the future!!

作者: ワイニスト

 辺りはゆっくりと夜の帳がおり始めた、夕暮れ。

 見渡しても、明かりは建物の外壁を照らすなけなしの照明と月の光しかない。

 ここは郊外の埋め立て地の上に建ち並ぶ倉庫。午後7時にもなると労働者達は皆、家路についたあとだ。すっかり人気はなく、静まり返っていた。

 けれども、


『タンッ、タンッ!!』


 さっきから何度も乾いた音がする。

 そして、慌ただしく駆け回る複数の足音も。


「はぁ、はぁ、はぁっ!」

 疾走する、4つの人影。うち3人は黒っぽい服を着て、手には拳銃やマシンガンを持って武装している。 

 そしてもう一人。

 そのグループの中では明らかに場違いな感のある女子高生の姿。

 白と茶色をベースにしたブレザーに、レモンイエローの華やかなシャツ。グリーンとブラウンのチェックの模様のスカートがあわただしく上下して、時折その下の水色の下着が覗き見える。けれども今はそんなことを気にする余裕もなく、少女は走る。 


 彼女達は必死で走り続けた。




 碁盤状に並ぶ倉庫街。ブロックの一番海側の端にたどり着く。


 ダンッ!

 少女は荒っぽく背中を打ちつけるみたいに倉庫の外壁にもたれかけ、もう全部の酸素を使い切った体に、今まで以上に激しく肺を動かして酸素を送り込もうとする。

額からポタポタと流れ落ちる玉のような汗。乱れた髪がその額や頬に貼りついているのに、ようやく今、 少女は気付く。

 不快感を感じたのか、グッと両手でかき上げた。うなじの当たりまで撫でつけ、そのままそわせた手のひらで後ろ髪をひと束に纏め上げる。背中まである長さの髪を手のひらで作った輪でとめるみたいにしてから首筋の横を通し、右の肩口から胸の前に垂らす。

 呼吸はまだ整わず、時折咳き込んだ。

 けれども。

 体のほうはそうやって機能を安定させるべくフル稼働しても、少女の――――『黒野萌音』の思考のほうは未だ恐怖で凍りついたみたいに、固まったままだった。


(どうして……。どうして私がこんな目にあわなきゃいけないのよっ……!!)


 今は鳴り止んだ音が、けれどいつまでも耳に残って離れない。

 あれは、銃声。

 萌音達を襲う、鉛玉の叫びなのだ。


 萌音は再び走り出す。

 彼女を追うのは夜空に張り出した上弦の月と、『Seer』――――未来を予見する者。



                ◆




「んん~、お~腹いっぱいッ!」


 昼休みが半分ほど過ぎた午後12:30過ぎ。

 萌音はいつものように学食でお昼ご飯を済ませたあと、トイレに行って歯を磨いて、出てきたところだった。友達とお昼を一緒に取るのは好きだけれど、そのあと連れだってトイレに行ったり、並んでみんなで歯を磨くのは何だかそこまで一緒じゃなくてもいい気がして、萌音はあんまり好きではなかった。だから食後のこの時間、萌音はいつも一人でいることが多かった。



 彼女の名前は黒野萌音。

 この私立桜葉学園に通う高校二年生。17歳。

 彼女はこの県内随一の進学校の中にあって、成績こそ中の下をいく控えめな生徒だったが、それなのに校内で彼女を知らない者はいないくらいの超有名人であった。

 その理由は、彼女の人とは違った容姿にあったのだが……



 廊下の角を曲がって教室に向かおうとしたとき、誰かの話す声が聞こえた。

 数人の男の声だ。学生っぽい軽い感じの喋りと、それと教師だろうか? 落ち着いたトーンの口調が何かを話していた。聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、チラッと聞こえてしまったその内容が自分の事を話してるようだったので、つい、彼女は動きを止めて耳をすましてしまった。

 どうやら落ち着いた声の方が、二人の男子生徒に萌音の居場所を尋ねているようだ。

「……『黒野萌音』という少女を探しているのだが、君達、知らないか?」

 男の声は低くって、でもよく響く太い声だ。明らかに生徒の声ではない。けど、こんな声の教師なんて、うちの学校にいたっけ? と萌音は首を傾げる。

「黒野って、あの金髪の『ペッタンコ』な娘だよな? 2組の」

「ああ。目も青くって、見た目は外国人みたいなのに、……詐欺っていうか偽装っていうか。な?」

 そして続く声は男子生徒達だろう。

『本人がその場にいないのをいいことに、随分と言いたい放題言ってくれちゃって~』と萌音は怒りに奥歯をギシギシする。

 萌音は自分の体の一部をチラッと見やった。私だって別に好きで控えめなわけじゃないのに、と口を尖らせる。目も釣り上がる。そこに、

「……顔はけっこう可愛いんだけどな~。」

 男子生徒の一人が呟いたのが聞こえた。

「えっ?!」萌音はちょっとドキッとして顔を赤くした。けれど、

「でも、な?」

「なぁ」

「「やっぱ、金髪は巨乳じゃないとッ!」」

 ははは、と男子生徒たちの笑い声が廊下の向こう側にまで響く。


 プチン、と切れる音がした。

 ザンッ!


 ゆっくりと角を曲がり、不満全開憤怒100%のダーク・オーラを肩に背負った萌音が、地の底から響くような声を発して、男子生徒達を睨みつけた。

「さっきから……聞いてれば? あんた達、人のコトを……言いたい放題……」

 ヒッ、っと喉を鳴らす男子生徒二人。

 顔色を真っ青にして慌てふためく。ワナワナと震える口が、もう一度『ギンッ』と萌音に睨まれると、悲鳴を上げた。

「「ギャ、ギャァーー。で、出たッ~、ミニ・パイだぁ!」」

 男子生徒達が、萌音に隠れて付けた本人未公認のニックネームを叫んだ。

「人のことをぉぉ、期待はずれみたいに、呼ぶなぁっーーー」

 そして逃げ出そうとする男子生徒二人に、萌音のパンチが飛ぶ。


 ボガンッ、ズガンッ


「「キュ~ン……」」

 萌音は見事、彼ら二人をノックアウトしてやった。『パンパンッ』と手の埃をはたく萌音。

 ふと、視線に気付く。

 すぐ横。勇ましいばかりの萌音の様子をじっと眺める影。

 すらっとした長身、短く刈り込んだ髪、彫の深い顔立ちの男。

 左目の瞼に切り傷の跡。よく焼けた肌が特徴。年は……ちょっと不詳なところがある。20~30歳くらいだろうか?

 ひとしきり男を横目で観察すると、「何よ?」と怒り冷めやらぬ声で萌音は言った。

 男はそれに反応するでもなく、しかし。



 その視線が語った。

 萌音の頭のところから目出て、……金髪。碧眼。

 胸のところで一旦止まり、……ペッタンコ。詐欺。偽装。



「君が、『黒野萌音』か?」

 男は萌音に向かって無神経にも訊ねた。

 ピクッと眉を動かすも、萌音は答えない。

 俯いたまま小さく肩を震わして、しかし下を向いたその表情は今や烈火の如く赤く染まっていた。ややあって地響きみたいな低く震える声が、言う。

「……あんたって人間は? 初対面の女子高生に向かって随分と……失礼な……」

「?」

「何よ、今の態度は? まるで人を胸だけで本人確認したみたいな~」

 殺気立つ萌音の様子に怯むこともなく、男は当然のように答える。

「入手した身体的情報と酷似している。高い確率で『黒野萌音』本人と推測されるのだ」

 眉一つ動かさず、表情も変えないその男は冷静に見解を口にする。

 まるで宝石や骨董品でも鑑定するみたいな、そんなふうな態度。


 しかし、それがまた良くなかった。彼女の怒りの炎に油を注いだ。

「ああ、そう? ……あくまで、そういう態度をとるってのならッ!」


 ギンッ、と萌音の目が光る。


「地獄へ、堕ちろぉぉっ。この胸フェチ野郎ッ」

 ブウン、と萌音の右足が『健全な女子高生の皆さん。何があってもそこはダメ。だってパパになるには大事なトコロなの、って保健体育の授業で習わなかった?!』を目掛けて必殺の前蹴りを見舞う。


 ドガッ


「…………ん?」

 手応えがない。……いや、『足応え』。

 萌音は、怒り任せに後先考えず放った自分の蹴りが『ナニ』を『ドウシタ』か、(あんまり見たくはなかったけれど)そ~っと覗き見てみた。


 しかし。

「あっ」

 彼女の右足は、男の体には届いていなかった。男はいとも簡単に萌音の蹴りを躱すと、その放たれた彼女の右足首を軽々と右手で掴んでいた。

 そして、さっきノックアウトしたはずの二人の生徒が、いつの間に気が付いたのか床に倒れたまま目を見開いている……。

 その唇が小さく動いて、音無き言葉を発した。

『み・ず・い・ろ』、と。

「あっ。……ああ、あああっっーー?!」

 萌音は慌ててスカートの裾を押さえようとするが、掴まれている足のせいで上手くそれができない。

 視界に再び入った男子生徒の顔が、ニヤニヤしている。恥ずかしくって、悔しくって、萌音は耳まで真っ赤になってしまった。

「こぉんの、ド変態がぁぁーー。今度こそ、死ねぇー!」

 だから、掴まれた右足を軸にして体を捻る。男のコメカミ目掛けて再び必殺の、今度は左後ろ回し蹴りを放つ!

 

 バシッと。今回も男はわけなく萌音の蹴りを受け止めてしまった。

 萌音の左足は、男の左手にあっさりと掴まれてしまったのだ。

 そうして男は捕まえた足を引っ張り、持ち上げる。そのせいで萌音はぷら~んと、左足一本で空中に中ずりにされたみたいになってしまう。

 おかげでスカートは開いたパラシュートみたいになってしまって、彼女の『み・ず・い・ろ』は惜しげもなく廊下を歩く生徒達に晒されてしまった。

「キャァーッ、キャァーッ、キャァーッ!」

 真っ赤な顔でスカートを抑える萌音。けれど、前を押さえても後ろがめくれ、後ろを押さえるとまた前がめくれてどうにもならない。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとッーー。い、いい加減にしなさいよーー、パ、パンツぅ、……パンツがっ~」

 暴れ回り、時計の振り子みたいにブンブン動く、萌音。

 そんな彼女の姿を、男はやっぱり表情一つ変えずに見ている。

「もーーーーーーー、いやぁ~ッ!!」

 萌音は廊下に響きわたる声で、悲鳴を上げた。




「俺の名前は、遥仁・エルナンデス・市原」

 男はそう名乗った。

 萌音はツーンと口を尖らせる。

「今は、この国の対テロリスト機関に所属している」

 遥仁は続けた。

 萌音はちょっと鼻をすすった。目尻にちらっと涙が滲んだ。

「俺はある人物からの命令を受け、ここにやって来た」

「…………」

 大体、女子高生の純情を踏みにじって、世間様には下着を晒されて、その上でされる自己紹介って、一体どこまで嫌がらせなワケ?! 例えこいつがチョーすごい有名人だったり、もしくはこの出会いが私の人生を左右するくらいのすっごい出来事だったとしても『はじめまして、こんにちは』なんて、聞ける?

 萌音は女子にあるまじきな仏頂面で、ふくれる。

「俺に下った命令は、黒野萌音、――お前の護衛と保護だ」

「…………」

「いいか、黒野萌音。お前は、狙われている。……そしてお前を狙っている組織は、もうお前のすぐそばまでやって来ているはずだ。だから、……黒野萌音、お前は俺と一緒に来い」

 遥仁はじっと萌音を見つめ、落ち着いた口調でさらに続けた。

「我々の組織はお前を保護する準備がある。お前を安全な場所に匿ってやることが出来る。さあ、黒野萌音。――――お前、聞いているのか?」

「…………」

「おいっ、黒野……」遥仁が言い切る前に、萌音が口を割る。

「うるっさいわね。聞いてないわよ!」

 萌音は口を『いーっ』とした。遥仁はだが、それを見ても眉一つ動かさない。

「そうか。なら、行くぞ。付いてこい」

「はぁ? あんた、何、言ってるわけ? 私の言うこと、聞いてなかったの?」

 踵を返し、歩き出そうとした遥仁は、一旦足を止めると首だけ振り返り、萌音を見下ろした。

「……ああ、聞いてない」

 カッチーン、と萌音は眉を釣り上げる。『コイツ、ほんと嫌いだわ』と思わず吐き捨ててやろうとした――――その時だった。


 突然、遥仁が萌音に襲いかかってきた。

 ザッ、と音がしたかと思うと、長身の彼が視界いっぱいに迫ってきたのだ。

「ち、ちょっ?! キ、キャアアアアッッーーー!」

 組み敷かれるみたいに遥仁の体が萌音を上に覆いかぶさってきて、萌音が悲鳴を上げるのと、

 遥仁が左の脇から黒い塊を引き抜き、その引き金を引くのは、ほぼ同時くらいだった。

 ガォン、ガォンッ

「ァァァッ、……エッ?!」

 激しく廊下に響きわたる轟音に、驚く萌音。素早く身を起こした遥仁が叫ぶ。

「立て、黒野萌音ッ」

 呼ばれて、萌音は呆然と遥仁の顔を見た。

「走るぞッ」

「な、何? 今のって、……なっ?」

「いいから、来い。走れッ」

「キャッ!」

 強引に遥仁に腕を引っ張り上げられ、無理矢理に走り出す。遥仁の握力がすごくて、握られた手のひらがすごく痛かったが、そんなことよりも萌音が気になったのは、後ろから聞こえてきた激しい足音だった。

 ガッガッと固い靴底の音。

 いたぞ、あそこだ、と声が聞こえた。萌音がチラッと振り返ると、黒っぽい服を着た数人の男達がこちらを見付けて指さしている。

 そして驚くことに、彼らも遥仁と同じく黒光りする拳銃を胸から引き抜き、萌音達を追いかけて来るではないか。

「ちょ、ちょっとぉ。こ、……これって、ナニ?! 私、よくわかってないんだけど? ……ねぇ」

「いいから走れっ。今は説明してる暇はない」

 そう言って振り返った遥仁は、やにわに数発、追跡者に向かって発砲する。

 またも響く轟音。

「キャッ!」

 しかも、あろうことか今度は反撃の銃弾が飛んできた。

「キャ、キャアアアーー、いやぁーッ!」

 反射的に頭を下げ、悲鳴を上げる萌音。

 遥仁は素早く彼女の腕を引き寄せ、廊下の次の角を曲がると、ダダダッ、と下り階段を駆け降りる。

「ちょっ、やっ、っと。……アグゥッ」

 無理矢理引っ張り回される萌音は、足がもつれるのを必死に堪える代わりに、情けなくなるくらい舌をガッツリと噛んでしまう。

 痛みに涙が滲む。思わず萌音は、恨みを込めた目で遥仁を睨みつける。けれど、遥仁はそんなことに割く余裕はなかった。彼は常に周囲を見回し、追跡者の姿を気にしつつ、逃走ルートを探し続けるッ。

 廊下を駆け抜け、角で一旦止まると気配を探り、再び走り出すと階段を下りる。

 一階の一年生の教室の前を通ろうとしたとき、突然『ガラッ』と扉が開いて、ちょっとポッチャリしたお腹の教師が飛び出てきた。

 眉間にシワを寄せて、いかにも教師然とした表情で開けたでかい口が、それ以上にデカイ声を出す。

「コラッ! お前ら、廊下は走っちゃ……」

 そう、言い切らないうちに、教師は遥仁の体当たりで教室に押し戻されてしまう。

「出てくるんじゃないッ」

 すごい剣幕で怒鳴り散らす、遥仁。

 その瞬間、後ろで数回乾いた音がして、ほぼ同時に目の前の床が跳ねる。

「くっ!」

 遥仁は素早く萌音の体を引き寄せると、彼女の頭を抱え込み自分の胸に押し付ける。

「キャッ」くぐもった萌音の声が聞こえた。 

 遥仁は、素早く自身の体を壁まで後退させると、撃ち返した。

 離れたところで「ぐうっ」と呻き声が聞こえたが、無理矢理抱きかかえられてしまった萌音からは、 周囲の様子が見えなくて何が起こっているのかはわからない。

「黒野萌音、大丈夫か? 怪我は……」遥仁の腕が萌音の肩を掴む。体から引き剥して彼女の顔をのぞき込み、言いかけた時。

『バシッ!』萌音の平手打ちが遥仁の頬を叩いた。

「なっ?」驚く、遥仁。そんな遥仁に向かって萌音は激しい口調で言った。

「あんたって人は、突然こんなこと……。さっきの下着の件といい、女子高生の純情を一体なんだと思ってんのよ!」

「……? どういう意味だ、何か問題があったのか?」

 赤く染まっていた頬が、ぶぅとなった。

「なんだとぉ~。……こぉんの、色情狂! 痴漢、変態、異常性欲者ッ!!」

 吐き捨てると、萌音は踵を返して歩き去ろうとする。

「待て、黒野萌音。一人で歩き回るのは……」

「あんたなんか絶対、来んなっ! 私の半径10m、侵入禁止よ」

「しかし……」

 遥仁は慌てて萌音の腕を掴んだ。けれどもその手を萌音は激しく振り払う。

「もう、やめてっ。私に触んないでよ」

 そう言うと、萌音は一人走り出してしまった。廊下を端まで駆け抜け、玄関にたどり着くとそのまま校舎の外へ向かう。



 扉を出る。

 ほんの少しだけ外気が肌寒いのは、校内にエアコンが効いていたからだろう。

 そして、背中を走る悪寒は




 

 佇んでいた白いマント姿の男が放つ、禍々しい『氣』に当てられたからかもしれない。

「スゥ……ッ!」

 男が息を詰めるのが、聞こえた。萌音はそれで十分、男が何をしようとしているかが分かったが、どうしても次のひと足が動かなかった。ただ、吸い寄せられるように男の動きに目がいった。

 ばっ、と男がマントをひるがえして、その下から覗く――腰に帯刀した美しい装飾の施された柄が見えた。

 実際は、ほんの一瞬の出来事だろう。

 男の口元が歪んで異様な形になる。それを見て、萌音はぞっとした。そして何を喋るのかと思ってじっと見ていた男の唇は、ただ不気味に引き攣っただけだった。

 それは、笑っているのだった。あまりに歪な笑顔で、萌音はしばらくそれが表情であることに気が付かなかった。

 弾けるように、男が動き出す。

 萌音はその時もう、全身の筋肉を何かで固定されてしまったかのように動けなくなっていた。男の鋭い殺気に当てられて、体の自由はとっくに奪われていた。

 男の腰からサーベルが抜き放たれても、萌音の体でその動きに反応したのはもう眼球だけしかなかった。陽の光が反射して、キラキラと輝く白銀の切っ先が迫ってきても、頭の中まで何一つ……。恐怖すら感じることもできなかった。

(ああ。これで死んじゃうのかな、私……)

 萌音はその鋭い歯先が自分に向かって伸びてくるのを、ぼんやりと眺めていた。

目を閉じるのも、忘れていた。

 そして、自分とその刃先との間に大きな影が飛び込んで来ても、彼女の思考は固まったまま、ただぼんやりと眼だけが情景を眺めているだけだった……


 ガキンッ 


「黒野萌音ッ、何を惚けてるんだ!」

 萌音の体は、割り込んできた影に押し出され、弾き飛んだ。ドサッと派手な音を立てて、彼女の体は地面に投げ出された。

「立て、黒野萌音。立てッ!」

 怒鳴る声は、遥仁のものだ。それに気が付くのにたっぷり5秒は要して。

 それで今、何が起きていたのか理解するのに萌音はさらにもう5秒を要した。

(遥仁が、……私を庇って? 私のために、戦っている……)

 ギリギリと、金属が擦れ合う鈍い音がしていた。

 さっきの白マントの男のサーベルが、遥仁の持つ特殊警棒と鍔ぜり合う音だった。

 力と力のせめぎ合いは全くの互角だ。しかし

「シュッ」

 男は鋭く息を吐くと力比べから一転、鋭い突きを遥仁に見舞う。

「くっ!」

 素早く反転する遥仁。サーベルの切っ先を寸前で交わし、威嚇の意味で銃を撃った。

 遥仁と男の間は、距離で言えば1~2mくらいだ。この距離で反応できるハズはない。確実に動きを止められると、思い込んでいた。

――だが、男は自分に向けて撃たれた銃弾を避けながら前進してきたのだ。

 まるで、そこに元々ある目印を避けるみたいに、男は左右に一度ずつ体を振って遥仁に迫ってくる。

「なっ?!」

 男は『ニヤリ』と不敵な笑みを浮かべて、再びサーベルを振るった。

「ガッッ」

 一瞬のスキをつかれて、左手をサーベルが掠めていく。拍子に、遥仁は拳銃を弾かれてしまった。

 男はその瞬間を見逃さなかった。素早く突きの構えで踏み込んでくる。

 しかし、遥仁は逃げない。彼の左腕がジャケットの右脇に差し込まれる。そしてそこに忍ばせてあったもう一丁の銃を引き抜いた。


「¡No Mueva! (動くな!)」


 切っ先が遥仁に届くより早く、銃口を男の眉間に突き付ける。

 ピタリ、と男の動きが止まる。

 歪んだ笑みが、ガリッと音を立てて悔しそうな歯噛みに変わった。

 遥仁は鋭く男をにらまえ、しかし落ち着いた低い声で問いただす。「貴様、……何者だ?」

  

 男は、――――答えなかった。 

 

 そして次の瞬間 

 それは捨て身の覚悟を決めたからか? 再び『ニヤリ』と男は笑った。

 刹那、遥仁目掛けてもう一度刃を突き立て、迫る。

 

 だが当然その刃が届くよりも早く、彼は引き金を引く――――



「なっ……?!」

 驚きの声を上げたのは、今度も遥仁のほうだった。何と男は、またも遥仁の銃弾を避けたのだ。

 しかも今回は眉間に突き付けた、わずか十cm足らずの距離から発射された弾を、である。

「ば、バカな?! そんなはず……」

 遥仁は表情を強ばる。驚きを、隠せなかった。

 そして遥仁の視線は視界から消えた男を探した。

 男は仕切り直しとばかりに数mほど間合いを取っていた。彼はまるでこれから決闘を始めるかのように堂々とした立ち居振る舞いで、眼前にサーベルを構え遥仁を見やったのだ。


『……Seer(シール)。クリストフ・メルテザッカー』

 男は静かな口調でそう名乗る。しかし話す言葉は日本語ではない。

『予見者名は<正しき一歩を踏み出す者>だ』

(ドイツ語、か? チッ、よく聞き取れない。予見……といったのか?!)

 眉をしかめる遥仁を尻目に、サーベルを突きの構えにした男――――クリストフは遥仁に向かって鋭く突進して来る。

「チィッ!」

 遥仁は疾風のように突き進んでくるクリストフに向け、躊躇わず引き金を引く。

 三発撃った。しかし、またこれも当たらない。かすりもしない。

 遥仁は更に険しく眉をしかめる。何故、一発も当たらない? その理由が遥仁には分からなかったからだ。

 迫るクリストフの攻撃が、今度は遥仁を体を捉えた。

「ぐぁっ」鋭い切っ先が彼の右腕上腕を浅くえぐった。傷口から鮮血がにじみ出る。

「ああっ」

 その様子を横から見ていた萌音が、悲痛な声を上げた。

 彼女はまだその場で座り込んだままだ。

 一度恐怖に当てられた体は、まだ震えが治まらなかった。体が逃げてくれようとしない――。


 

 ガキーン、とサーベルと警棒が激しくぶつかる音がした。

 遥仁はクリストフの続く一撃を大きく薙ぎ払い、そして一、二歩距離を取る。

「すぅ……」

 彼は一つ、息をつく。

「――――――市原流銃剣術、一の型。 『点』」






 カッ、と目を見開くと、次の瞬間、遥仁は矢のような勢いで飛び出した。

 瞬く間にクリストフの鼻先に詰め寄り、すかさず左のひじ打ちを相手の眉間に目掛けて、叩き込む。 

 クリストフはあまりの遥仁の動きの速さに虚を衝かれた格好になって、咄嗟に右へ躱すので精一杯だった。しかし、さらにそこを狙って遥仁の追撃が襲いかかる。

 特殊警棒の打撃を繰り返しながらも、織りまぜられる牽制の銃撃がクリストフをじわじわと追い詰めていく。そして相手が体勢を崩したところへ、遥仁の渾身の一撃が狙いすましたように振り下ろされる。

「うぉぉぉぉっ!」

 ゴスっ、と鈍い音と共に特殊警棒のひと振りがクリストフの背中を捉えた。

『グァァッ!』と、たまらずクリストフは苦痛の叫びを上げた。

 遥仁は間髪入れず、動きを封じるために相手の左足の甲を狙って銃を撃ったのだが、これは避けられてしまった。悔しそうに歯噛みする、遥仁。

 クリストフは咄嗟に飛び退くと、地面を転がるように移動して距離を取ろうとした。


 ガォン、ガォンッ!


 追うように放たれた銃弾が、彼の行く手で二度、跳ねる。

 慌てて立ち上がったクリストフは、これまで見せたことのない形相で、遥仁を睨み付けてくる――――



『…………ッ!』

 肩でする荒い息。口の中に溜まった血を唾と一緒に吐き出す。

 唇を手の甲でグイッと拭う。再び、荒く息をする。

 相手のその一連の動作を遥仁はサイト越しに眺めた。彼の方は息も切らさずに。


 

 萌音は、気が付いたら何故か息を止めていた。

 いや、息をするのも忘れて遥仁の動きを追っていたようだ。

 あんまり呼吸してなかったから、うっかり気がついたときにはとうとう苦しくなっていた。慌てて彼女は息を鼻と口の両方から一辺に大きく息を吸い込む。一気にたくさん吸い込んだものだから、上手く呼吸できなくて派手にむせてしまう。

「ゲホッ、ゴホッ」

 ちょっと涙目になったのを手の甲で拭って。それから、

(…………すごい)

 そう、思った。思わず呟いていたかもしれない。

 ほんの、一瞬のことだった。離れて見ていた自分ですら目で追いきれなかったのだから、相手の男には一体どんなふうだったのだろう? 多分、何で自分がやられてるのかわかんなかったんじゃないの? そう思ったら、急にぞわっとして全身の毛穴が開いたみたいになって、汗がじんわり滲んできた。

(何よ、さっきまで押されっぱなしだったのに。……こいつってば、実はちょー強いんじゃない?! 心配して、……なんか損しちゃったわ)

 自分では気づいていなかったが、何だか急に安心してしまったのかもしれない。

 彼女の口元は、ちょっと微笑んでいた。



 

 そんな萌音を突然、激しいめまいが襲う。そして



――彼女の左目に映る世界に、異変が起きる。――

 

 左のこめかみだけが、急に引っ張られるみたいに激しく痛み出した。片側の目に映る世界が急速に色を失い、青白いモノトーンに変わる。

 まるで……録画しておいた映像をコマ送りで進めるみたいに、左目に映る世界だけ速度が加速する。時間が、現実のそれよりも速く過ぎていくのがわかる……。

 見えてしまう。

 遥仁の右手側、少し離れたところから女……いや、少女が一人。

 小さな体に不釣合な、ライフルの様なものを構えて、

――――――撃った。

 急に遥仁の体がおかしな形に曲がって、崩れる。

 地面に、力なく倒れ込む。


 

 その、

――――『未来』が――――。




「ッ、……はぁっ、……ハァッ!」

 無意識に止まっていた呼吸。切れ切れの息を整えようともせず、激しく吸い込んだ空気を、萌音はありったけの声と共に吐き出した。

「遥仁ーッ、右ッ! 避けてぇーーっ」

 その声に反応した遥仁が振り向くのと、乾いた一発の銃声が辺りに響き渡るのは、まさにほぼ同時だった。

 

 タァーンッ!


 

 ドサリッと、音をたてて。

 萌音の視界に映る人影が、力なく地面に倒れ込むのが……見えた。

 萌音は、声にならないくらいの小さな声でその男の名前を呼ぶ――。

「……は、ると?」と。

 顔から急速に血の気が引いていく。目に映っているものと、現実の区別がつかない。

 まさか、そんな……?

「うそ、でしょ? ねぇ、……遥仁? 嘘、よね…………?」

 ピクリとも動かない遥仁。萌音は、喉をヒュウっと鳴らして息を吸い込むと、引きつった声で叫んだ。

「遥仁ぉっー!!」――――悲痛な叫び声。

 しかし、その声に呼ばれたからというわけではないだろうが、突如、ガバっと遥仁は起き上がった。

「えっ?! え、えっー?!」

 そして何事もなかったのごとく立ち上がると、狙撃があった方に向けて拳銃を撃ちながら、萌音の方へと走り寄ってくる。

「黒野萌音、走れっ! 逃げるぞ」

 彼はそう叫んでいたが、萌音の方は事態に呆気にとられて立ち尽くした。

 遥仁を狙撃した少女は、彼の反撃から逃れるために走る。その姿は黒いワンピースをヒラヒラさせてちょこちょこ駆け抜ける、野うさぎのような姿であった。頭の白っぽいリボンが風でぴょんぴょん動いて、場違いに可愛らしい。

 彼女は打ち返すような素振りはなく、真っ直ぐに逃走していく。そして校舎の裏側へさっさと走り去って行ってしまった。

 途中、空になったマガジンを交換して、地面に落ちた自分のグロックを回収しながら萌音のもとへと駆け寄った、遥仁。着くなり、彼は再び校舎の玄関に向かって発砲した。黒っぽい服の男達が、その銃撃で慌てて玄関の中へ引っ込む。

「あ、あいつら、もう来たッー?!」

「走れ、黒野萌音ッ」

 遥仁は萌音の手をぐいっと掴むと、校門に向かって走り出した。

 再び襲いかかってくる、クリストフ。その表情は怒り引き攣り、すごい形相だ。

 遥仁は走る速度を緩めずに、クリストフに向けて威嚇の銃弾を放つ。状況は遥仁達にとって極めて不利で、脱出するには少しだって時間を浪費する訳にはいかなかった。

 けれど今度もクリストフは、簡単に銃弾の雨を掻い潜って遥仁達へと迫ってくる。 

「くっ!」撃ったところで簡単に躱されてしまうなら、威嚇にもならない。遥仁は憎らしそうに吐き捨てた。その時、

 ガーン、と派手な轟音を上げて校門を突き破って飛び込んでくる、黒塗りのセダンが一台。

 グラウンドを縦にぶった斬り、遥仁達の方に向かってすごいスピードで走って来た。

 直前で急ブレーキすると、180°ぐるんと車体を回転させて、遥仁とクリストフの間へ強引に割って入る。

『なっ?!』

 クリストフがそう言ったのと、助手席のドアが『バンッ』と開いて長身の黒人男性が飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。

 男は出てくるなり、H&K MP5F(短機関銃)を構え、クリストフへ向けて乱射した。

『チッ!』

 この攻撃にはさすがのクリストフも手がでないようだ。悔しそうに舌打ちすると、素早く後退する。

 次いで、男は校舎玄関への威嚇射撃も開始した。飛び出そうと顔を出した追っ手の男達は、その攻撃で泡を食ったみたいに再び校舎の中へと逃げ惑う。

 運転席の側からは短く髪を刈り込んだ目元の鋭い女が、遥仁達の前にずいっ、と顔を出してきた。

 年齢は20代後半くらいか。やや男性的な髪型なのにも関わらず、割とはっきりした化粧っ気と厚みのある唇が艶かしい。その唇が緩やかなカーブを描いて笑顔を作った。

「は~い、『アルト』。お待たせ、お迎えの時間よ」

「遅いぞっ、何をグズグズしていた!」

 遥仁は憮然と返す。

「あら、失礼ね? ちゃ~んとあなたのオーダー通り『午後イチ』よ? ……ううん、5分早めの到着。嫌だ、アタシってば時間にうるさいケチな女みたい?!」

 車上の女は自分の腕時計を遥仁にチラチラ見せつけて、おどけた顔をする。

「由香……。言っておくが『午後イチ』はAM1:00ではない? 知っているか?」

 キョトン、として遥仁の顔を訝しげ覗き込んだ女。『由香』と呼ばれた彼女は、ちょっとしばらく眉をしかめていると、その内に遥仁の言葉の意味を理解したらしく、慌てて苦笑いを作り、言った。

「そ、そ~り~ぃ……。次からは気を付けるわ……」

遥仁はそれには答えず、振り返って萌音に叫ぶ。

「黒野萌音、乗れっ」

 後部座席のドアをガバッと開け、顎で萌音に促す。そうしながらも、自分は車の向こう側でこちらのスキを注意深く伺っているクリストフに、威嚇の射撃を行う。

 萌音は言われるがまま車内に飛び込んだ。次に乗り込んでくるだろうはずの遥仁のために、彼女は体を奥まで移動する。

 ミラー越しにそれを見ていた由香が窓から叫んだ。

「アルト! ポール! 出るわよッ」

 すぐに銃声が止んで、二人の男達が乗り込んで来る。扉が閉まるのとほぼ同時に車はすごい勢いでエンジンの回転数を上げた。


 ギャギャギャッ、とセダンは後ろタイヤを加速の勢いで横滑りさせながら動き出す。萌音の体をシートに激しく押し付け、急発進した。萌音は慌てて何かに掴まろうと手を伸ばすが、車が方向を変えた途端に彼女の体は扉と反対の方向に吹っ飛ばされてしまう。

「キャッ!」

 しかし、その体を遥仁が素早く抱きとめた。

「大丈夫か?!」

「う、…………うん」消え入りそうな声で、萌音は答える。恥ずかしさにちょっと頬を赤らめる。しかし、

「みんな、頭を低くしなさいっ!」由香の声が車内に響いた。

 そして、その声を聞いた遥仁が萌音の体を直ぐ様抱きかかえ、体を低くする。

「…………ァッ?!」

 彼の胸の下で、声にならない声と、指一本動かない抵抗を見せる萌音。遥仁はしっかりと萌音の体をかかえ込んで離さない。

「ご丁寧にッ。見送りなんていらないわよッ」

 叫ぶと、由香はハンドルを左手一本でコントロールし、右手は引き抜いた拳銃を数発、撃つ。その銃声と入れ替わるようにして『ガキーン』と音がし、運転席側のサイドミラーが吹き飛ばされた。

「チッ」と由香が舌を打った。

 遥仁が窓から身を乗り出して覗くと、あのライフルの少女がピョコピョコと跳ねるように逃げて行くのが見えた。その姿はすぐにまた校舎の裏に消えていってしまう。

「みんな、掴まってよ」

 由香がそう言うと、車は一瞬減速し、そして次の瞬間には後ろタイヤを激しくスライドさせた。「キャッ!」という萌音の悲鳴をかき消すくらい甲高い音を立て、セダンは派手なドリフトをしながら校門を飛び出す。反対車線にややはみ出しつつもグリップを取り戻すと、そのまま一気にスピードを上げて走り続けた。

 車の後ろ、校門の辺りで『ガシャンッ』と鈍い音がした。

 ミラー越しに覗いた由香が、玉突き衝突する後続車を見送る。

「そ~り~ぃ。アタシ、まだこの国の道路交通法、理解してないの」

 そう言って、彼女は右手をヒラヒラとしてみせた。




             ◆




「アタシは『河口由香』。それでこっちが『ポール・コールズ』よ。よろしくね」

と言ってから、由香はミラー越しに萌音に視線を送る。

「…………黒野、萌音ちゃん。よね?」

「は、はい」

 ミラーに視線を返して萌音は応える。

「ええっと……。もう、『アルト』からは自己紹介されてるんでしょ?」

「その『アルト』って、『遥仁』のことですよね?」

 由香は頷く。

「ええ、そうよ。彼がUEI & GAR (スペイン国家警察部隊ガーディア・シビルの対テロ部隊)にいるときからの呼び名が『アルト』。もっとも、出身こそ日本だけれど育ちはずっとカタルーニャだって言ってたから、子供の頃からきっとそう呼ばれてたはずだけど……。ねぇ、そうでしょ、アルト?」

 由香は最後の一言を、自分のシートの後ろに座る遥仁に投げかけるみたいにして言う。

「ああ」遥仁はそれには興味なさそうに答える。

「どうも、ラテン系のヨーロッパ人って『H』が発音できないらしいのよ。だから『HARUTO』で『アルト』。アタシ達も何だかそれでなれちゃったし。だからそう呼んでるの」

「そう、ですか」

 萌音はチラッと遥仁の方を見た。遥仁の方は別段変わらず、だ。見つめる萌音の視線を気にも止めずに、じっと何かを考えているようだった。

「まぁ、ともかく」

 再び由香の声が萌音に話しかけてきたので、すぐに彼女の視線も前のシートの方に移動する。

「これから、しばらくの間はこの4人で行動するわけだし。よろしくね、萌音ちゃん」

「は、はいっ」

 萌音はぺこん、と頭を下げた。

「なんだか突然とんでもないことに巻き込まれた感じでしょうけど、……ちょっと待っててね。これから会うことになる私達のクライアントが、多分、きちんと説明してくれるでしょうから」

「…………」萌音はそれには答えなかった。

「それに、私達だって大した説明も受けてのよね。ちゃんと事の次第を聞かないと」

 由香は視線をフロントガラスに戻しながら呟く。車は随分スピードを落とし、今は他の乗用車の流れに巻き込まれながら走っていた。

 萌音は窓の外に目を向ける。行き先はわからなかったが、今の由香の言葉で目的はわかった。市街地の中を一時間弱ほどかけて走り抜け、そのうちに辺りの景色も変わる。建物の数もめっきり減り、車は郊外へと向かっているようだった。

 遥仁が由香というこの女性に全幅の信頼を置いているのが分かったので、最初こそ警戒していた萌音も今は肩の力を抜いていた。

 と、いうよりそんなに張り詰めてばかりもいられなかったのだ。先程の襲撃事件、萌音にとってはこんな事、人生初の出来事だった。拳銃で撃たれるなんてことが自分の身に起こるなんて全然考えたこともなかったし、事故でもない限り命の危険があるなんてことも想像したことがなかった。正直、今はくたくたで何にも考えたくない。不思議な事に、ついさっき会ったばかりの男だというのに、隣に遥仁がいるから萌音は何だか安心できた。彼が自分を悪いようにするとは思えなかったし、だから彼の仲間らしい前の席の二人がそうするとも思えなかった。

 車はインターチェンジを通過して、高速道路に入る。辺りの景色はすぐに単調になり、路面に引かれた白線が、迫って来ては過ぎ去っていくのが目に入ってくる。

 萌音は、額を窓に押し付けるようにしてその様子をぼんやり眺めていた。そうしているとだんだんと映る景色は狭まっていく。ゆっくりと遠くの山が近付いてきて、その山を抜けるトンネルが見えた。トンネルに入ると周囲は明かりを失い、萌音を照らすのはオレンジ色のライトだけになる。そしてしばらくは窓越しにそれを見ていたが、次第にそのオレンジも闇に飲み込まれていく。最後は幕を閉じるようにすっと、萌音の周りは深い闇に覆われていく…………。



 次に萌音が気が付いたときには、辺りはもう随分日を落としていた。空の端っこが橙に燃えていた。

「目が、覚めたか?」

 遥仁が気付いて声をかけてきた。

「あれ……? 私、眠っちゃってたの……?」

「あんなことがあった後だ。無理もない」

「そう……」

 まだぼんやりとした頭が、次第に覚醒してくる。そして彼の言う『あんなこと』を思い出す――。

 そう、あれは確かに現実で起こったことなのだ。夢じゃない。

 萌音はもたれかかるように座っていた体を起こすと、背筋を伸ばして座り直した。口もへの字に、眉間に力を入れて気持ちを張ってみせる。そうしないと、何だか頑張れない気がしたからだ。

ミラー越しにその様子を覗いていた由香が微笑んでいた。

「思ったより、強い娘ね……」

 由香はひとりごちに呟いた。そして、ミラー越しの自分の視線に気が付いた萌音に、一つ訊ねた。

「ところで、萌音ちゃん。唐突なんだけど、……あなたって一体、『何者』?」

「へっ?」と、素っ頓狂な答えをしてしまった。由香の言うとおりその質問は唐突だったから、言葉の意味を理解するのにちょっと時間が必要だった。

「……『何者』って言われましても、全然、何者でもないんですけど……。ついさっきまでは全く疑いもなく、普通の女子高生のつもりだったんですが……」

「普通の?」

「……ええっと、違うんでしょうか?」

「そんなの、アタシに言われてもわからないわ」

「うう~ん……」

 萌音はこまってしまう。

「そ~り~ぃ。今のはアタシが悪かったわ」由香は手をヒラヒラとして謝る。

「でもね。実際のところ、あんなに大袈裟にしてまでどうにかするほど『特別』だとも思えないのよ、アタシには。確かに見た目はちょっと変わっているとは思うけれど」そう言って由香はミラー越しに萌音の容姿を確かめる。

 金髪碧眼、肌の色は透き通るみたいに白い。まるで白人のような容姿だ。けれど近付いてみると顔立ちはアジア人らしい浅めの彫りの造りだ。背だってそこまで高くはない。

「それに……」と、呟く。視線が頭の先から足元まで一度見て、そして顔とおヘソの間に戻ってきて、立ち止まる。ミラーの向こうの由香の目の動きで「それに……」のあとに続くのが何か気付いた。萌音はカッと目の周りを赤くして、自分の胸を両腕で隠しながら身を捩った。

「ちょおっっ、ちょっとぉ!」

 ミラー越しの由香の目が細くなって、笑った。

「ふふっ。別にいいじゃないの? 女の魅力は胸だけじゃないわよ」

 由香はカラカラと遠慮なく笑った。萌音はその言葉に一旦、肩の力を抜く。けれども、はっと気付いて聞き返した。

「なんか……、慰められてないような?」

「あら、別に慰めてなんかないわよ。だって胸は大事な女の魅力の一つだもの」

 そうしてゆっさりと自身のボリュームをアピールしてみせる、由香。重量級の二つの丘が互いに邪魔そうにしながら、無理矢理押し込められた白いシャツの中で場所の取り合いをしてるみたいに見える。萌音は顔を引き攣らせた。

「ム、ムカつくぅぅ!」

 ミラー越しの眼は、さっきよりもっと破顔した。

「ふふふ、そ~り~ぃ。……でもね、いくら珍しいって言っても、大の男が銃まで持ち出してって、一体、どうなの? って思うわけ」

 由香の目が一旦ミラーを横切って、隣に座るポールと呼ばれた黒人の男性に振られる。

 ポールは小首を振って『わからない』とジェスチャーした。背が高く、シート越しに頭が半分以上覗いていたので、後部座席に座っている萌音からもその様子がわかった。

「そうよね……」

 由香の目が再び自分の方に向いてきたので、萌音はそれを見据えるように返した。

「……珍しい、ってだけなら『アイアイ』とか『フィリピンオオム』とかのほうがよっぽど希少価値だって高いわけだし……」

「ちょ、ちょっと何ッ? 『オオム』や『猿』以下って、私のこと、一体どーいう扱いなのよッー」

 由香の言葉にムキになって抗議する萌音。さっきよりも、もっと真っ赤な顔で怒りを爆発させる。それを見た由香の目がミラー一杯に笑った。

「アハハッ。そ~り~ぃ、冗談よ」

 まるで口癖のように簡単に謝る由香を睨みつけ、ブンむくれる萌音。そして思った。

――私、この人、大ッ嫌い!! と。

 そんな萌音を気にすることもなく話を続ける、由香。

「アルト、あなたはどう思う?」

 遥仁は答えなかった。話は聞いているようだが、じっと正面のシートの背中を見つめて、何だか考えているようだった。由香は質問を変えた。

「『民間人の保護』ってミッションにしては、随分とたくさん撃たされたみたいだったけど。いつものあなたらしくないわね?」

 由香の言葉にひと呼吸おいて、遥仁はゆっくりと喋り始めた。

「まともに当たった弾は、一発もなかった……。まるでどこに弾が飛んでくるのかわかっていて避けているみたいに、全く当たらない。それどころかあいつは額に押し付けて撃った銃の弾まで避けたんだ。信じられるか?」

「あなた、まさか?! …………殺そうと?」由香の声が、一つトーンを低くした鋭い声で言った。

 遥仁は首を振る。「いや、実際は耳を狙った。だが、引き金を引く直前まで、銃口は額に押し突き付けたままだった。距離でいったら数cmだ。普通に考えて、避けられるはずがない」

「それは、…………確かにそうだと思うわ」由香は声のトーンを戻して、答える。遥仁の銃の腕を知っているからこそ、彼女は素直に頷いた。

「クリストフ・メテルザッカー。おそらく、名前からいってドイツ人だと思う。言葉もそうだった。『予言』だか『予見』だか、俺はドイツ語に詳しくないからよく聞き取れなかったが、そんなことも言っていた」

 遥仁は顔を上げて言った。「それと、『Seer』と……」遥仁は、小さなため息をつく。「あいつは一体、何者なんだ?」

「『Seer』……」ミラー越しの由香の唇が、その名をなぞり繰り返した。「そう、名乗ったのね。そいつは?」

「ああ、そうだ」

「そう」

 由香は小さく相槌を打ってから、深くため息を付いた。そして明らかな嫌悪感を示して、吐き捨てた。

「胸糞悪い名前。聞くのもムカつくけど、思い出すのはもっとムカつく……」

「お前は知っているのか? 『Seer』を」

遥仁は思わず身を乗り出した。その様子を一瞥しながら、由香はさも興味なさそうに答えた。

「ええ。一、二年くらい前かしら? SWATにいたとき、一度だけ会ったことがあるわ……」

「何者なんだ、『Seer』って奴は?」

「『Seer』…………『予見者』なんて自分達のことを呼んでいる、サイコどもの集団よ。新興宗教の皮を被ったテロリスト。何でも、――――自分達には『未来』がわかるらしいわよ?」


「……っ?!」

 その由香の言葉に『ピクリッ』と、ほんのかすかだが萌音が肩を揺らした。

 ただそれは本当に小さな動きだったから、誰の目にも止まることがなかった。萌音自身もそんな素振りはなかったかのように平然としていたので、その時の彼女の変化には誰も気付くことなく済んでしまう。


 遥仁は言葉を続ける。

「『未来』? どういうことだ?!」

「知らないわよ、アタシだって」

 彼は由香の言葉に喰いついた。しかし由香の方はあまり取り合う気もなさそうにしている。

「……ただ、アタシが会った男はそう言ったの! 自分が『予見者』だって、ね」

 由香の目は、遥仁の視線を嫌うようにフロントガラスの方に向いてしまう。そしてその言葉も、遥仁に応えるのではなく、何だか独り言のように淡々と語るようであった。

「アタシが会った男は自分のことを『世界の明日を聴く者』って、呼んでいたわ。そいつはこっちが撒いても、撒いても、行き先を知ってるみたいに先回りしてくるし、逆に裏をかこうと策を練ってみても、ぜ~んぶ筒抜け。おかげでチームの中に内通者がいるんじゃないかって、みんなで疑心暗鬼になっちゃって、最悪の雰囲気よ」

 そして左手をハンドルから放し、ヒラヒラとさせる。

「最後は疑った奴と疑われた奴で撃ち合いになって。ほんと……バッカみたいよね~」

「それは、どういうことだ?」

キッと、鋭い表情に変わった由香の顔が、運転中にも拘らず振り返った。

「だからっ! 知らないって、言ってるじゃない。知りたくもないわよ、そんな『未来がわかる』なんて言ってるオカルトマニアのことなんか。…………そんな奴ら、気持ち悪いだけよっ!」


「……ッ」

 由香が発した最後の一言に、ほんの一口分だけ萌音は息を呑んでいた。

 じっと、萌音は身を潜める。心にたった波風が治まるのを、じっと我慢して待つ……。


 前の座席では、遥仁の問いに答えるどころか苛立ちを感じて隠せない、由香。

 しかし、「知らない筈はないだろう。俺の質問に答えろ」後ろの座席から遥仁は、そんな由香の心中を気にも掛けず無思慮に問い詰めようとする。すると、

「アルト、黙りなさい」

 ついに由香はトゲのある威圧的な声を出す。

「……ボスはアタシよ。わかってるんでしょうね?」

「…………」

 遥仁は反論なく黙り込んだ。

「ふんッ! デリカシーの欠片もないんだから。『感情がない男』なんて、女にしてみたら最悪よね……」

 由香は吐き捨てた。

 それからしばらく彼女は黙り込んでいて、遥仁の方も同じだったから車内はちょっと張り詰めた感じの沈黙が支配した。ポールはどうやらもともと無口な男のようで、萌音も今は一言も喋らず黙りこくっていた。

 車外はめっきり車が少なくなっていた。気が付けば走っているのは彼ら以外にタクシーが一台と軽自動車、運送会社の車だけだった。夕暮れ時にしては随分と少ない交通量だ。とはいえ、自分達にしたって初めて走るような道だったから、普段もこの程度の交通量なのかもしれないと思っていた。



 最初に気が付いたのは由香だった。

 おかしい。――――――あまりにも静か過ぎる。

 今、この道を走っているのはとうとう由香の運転するこのセダンだけになってしまった。最後まで横を走っていた運送会社のロゴの入ったウォークスルーバンが、ついさっき交差点を左折していった。時刻はまだ18:00を過ぎたばかりだ。市街地ではないにしろ、一般的には人々の帰宅の時間にあたるはず。あまりにも不自然だった。

 それともう一つの違和感に気が付いたのも由香だった。車内の方も何だか静か過ぎたのだ。遥仁やポールが無口なのは構わない。けれど、萌音までがそうだとしたら、その理由はもしかするとさっきの自分と遥仁の言い争いに萎縮してしまったのではないか? 気まずい空気にしてしまったことは一言詫びるべきだなと、そう思ってミラーから萌音の顔を覗き込んだ。


 …………真っ青な顔をして、両手で自分の顔を覆っている萌音が映っていた。

 怯えたような表情の瞳だった。肩は小刻みにカタカタと震えていた。彼女の、スカートから伸びた細くて長い脚も、同じようにカタカタ震えていて、よく見ると鳥肌がたっている。

(寒いのかしら?)

 エアコンを調節しようと手を伸ばしかけて、やめた。そんなはずはないだろうと由香は思った。車内は随分と暖かだったのだ。

「どうしたの、萌音ちゃん? 体調でも悪くなったかしら?」

 出来るだけ普通の声を出そうとして言った由香の一言に、萌音はビクンッと大きく肩を驚かせ、反応した。その瞳が、みるみる恐怖のようなものに支配されていく。ミラー越しに由香の目を見付けると、今度は何ども首を左右に振った。

「ちょっと、萌音ちゃんッ! どうしたの?!」

 さっきより随分大きくなった声で由香が言ったから、今度は遥仁とポールも異常に気付いた。3人の視線が全部、萌音に集中する。「ヒィッ」と上擦った声を上げて体を緊張させる、萌音。その表情が、


 突然――――大きく歪むのを彼らは目の当たりにする!


 最初、歯を喰いしばって痛みに耐えるような顔をすると、今度は大きく口を開け必死に空気を吸い込もうとする。左の眼は大きく見開かれ、そちら側の瞼や眉が痙攣してピクピクと震えていた。右目は苦痛に耐えるように、歪んだり、閉じたりしている。

 遥仁達がその様子をじっと見ていると、突然、萌音は糸が切れた人形みたいにガクンッと脱力して前に突っ伏した。

「……ゥフゥッ…………っはァー、ハァァッッ。……ゲホッ、ゲホッ!」

 大きく息を吸ったと思うと、激しくむせ返した。萌音は肩で荒く息をしながら、左のこめかみ辺りを手で押さえている。しばらくは俯いたままで呼吸を整えようと務めた。そしてようやく落ち着くと、ゆっくり顔を上げる。まだ焦点が合っていないのを、何度か瞬きを繰り返してどうにかできないかと苦労しているのが見て取れる。

 その目がようやく焦点を取り戻し、映る世界がフロントガラス越しに交差点に差し掛かろうとしているのが見えて、再び萌音は目を見開いた。今度はさっきとは違って明らかな恐怖に引き攣った顔だった。

「……め、入っちゃ……。その、交差点…………止まって!」

 囁くような細い声で言う言葉は、誰の耳にも届かなかった。

「何?! 萌音ちゃん、聞こえないッッ!」

「ダメよ、交差点に入っちゃ……ダメェェェッ!! お願い、止めてぇーッ!」

 萌音は甲高い声で絶叫した。

 驚いた3人がフロントガラスの方に振り向く。もう交差点は目の前に差し掛かっていた。今の速度では、その前で停止することなどできない。

「クッ!」

 ステアリングを握る手に力を込めて、由香は歯を喰いしばった。

 理由はわからないが、危機感だけは感じた。嫌な予感がビンビン、肌を通して伝わってきた。ブレーキに足を掛ける。その瞬間、予感は現実となってすごい速度で由香の前を横切っていった。



 キ、キィィィィーーーッッッ! ドシャーーンッッ!!


 突如、巨大なトレーラーが信号無視で十字の交差点を左から侵入してきた。

 トレーラーはけたたましいブレーキ音を響かせながら由香達の進行方向の道を遮るように横切り、そしてそのままの勢いで角の信号機に激突した。

 コンテナも含めた長い車長が目一杯に道を塞ぐ。進路を塞がれた形になったセダン。慌てて由香はハンドルを左に切りつつ、思いっきりブレーキを踏み込んだ。


 キキキ、キィィィッッーー!!


 何とか交差点の真ん中近くで停止した車。車の向きは急ブレーキの影響で90°以上スライドしていた。遠心力に振り回された車内の面々は、ぐったりと項垂れた。それでもなんとか全員無事だ。

 事なきを得て、ホッとしたのもつかの間だった。


 由香は気が付いた。

 交差点の左右に何台もの乗用車が無秩序に並べられていて、まるでバリケードのようになっていたのだ。そして自分達が侵入してきた側の道には、硬い靴を踏み鳴らす人の気配がする。その中に見覚えのある姿があった。

 黒のワンピース。白いリボン。ライフル。――――

 萌音の学校で最後に撃ってきた、あの少女がいたのだ。

「God damnit!」舌を打ち、周りを見回す。まさに『四面楚歌』の状態。


 ドガァーーンッ!


「Get out! Get out!」

 由香の声が響く。運転席側のドアを文字通り派手に蹴破って、まず最初に彼女は飛び出した。

 その後ろに続き運転席側のドアからポールが素早く車を降りる。セダンの屋根にH&K MP5Fをドンッと派手な音ごと載せると、直ぐ様セーフティーを解除して引き金を引いた。銃弾を撒き散らす。

 由香が自分の銃を抜くのと同時に後部座席の扉を勢いよく開けて、叫ぶ。

「アルト、トレーラーの向こう側。走って!」

 言われるより先に、遥仁の手は萌音の腕を掴んでいた。物凄い力で彼女を車から引っ張り出すと、

「走れ、黒野萌音! 走れッ」

 腕を引き、駆け出す。

 突如、右に飛び出してくる気配を感じ、遥仁は萌音の腕を掴んでいる手と反対の手で胸元から銃を抜いて撃った。弾が跳ねる硬質の音が響く。

 そのまま躊躇わず全力疾走で交差点を突き抜け、目の前のトレーラーに近づく、二人。

 萌音はチラッと顔を上げて見た。すごいスピードで突っ込んだせいか、トレーラーの前部はペシャンコになって元の形がわからないくらいになっていた。

 その運転席を警戒するように銃を突き付けたまま、遥仁は慎重に車の前を通り抜ける。激突でへしゃげた信号機を巻き込んで、車の裏側を探る。人の気配はない。

「由香ッ、クリアだッ!」

 遥仁は叫んだ。遥仁達の援護のためにセダンのそばに残って銃撃戦を繰り広げていた二人へ、腕を大きく振る。もう一度、叫んだ。

「由香、来いッ!」

 それを見つけた瞬間の由香とポールの動きは、本当に早かった。

 直ぐ様踵を返すと、体勢を低くしたまま交差点を縦に疾走してくる。その二人を援護するために、今度は遥仁が銃を撃つ。そのスキに由香達は遥仁の側に駆け寄った。抜群のチームワークがわずか数分でピンチを脱したのだ。そう思った。

 しかしその時突然、トレーラーの運転席の扉がバンッと音を立てて開いた。中から拳銃を構えた男が顔を出し、遥仁達に向けて発砲しようとするっ!

「Fuck off!!」

 由香がまっ先に気付くと、横跳びに飛んだ。空中で体を捻って銃口を男に向ける。


 ダァン! ダァン!!


「――ッッ」くぐもった低い声を上げて男が運転席から転げ落ちた。

 由香は自身もアスファルトの上に背中を打ち付けるように落ちてしまう。「グゥッ!」と呻き声を上げるも、今は寝転んでるわけにはいかないのだ。彼女はすぐに体を起こして痛みに耐えるように歯を食いしばりながら、再び走り出す。

 由香の後ろを走るポールはその彼女の姿がトレーラーのフロントに回り込むのを見送ると、安心したかのように唇の端を微笑ませ、そして自分は向きを変えて後方のコンテナの側に走り出した。車体に近づくとスライディングするように自身の体をコンテナの下の隙間に滑り込ませる。体を向き直し、構えた銃口を駆け寄ってくる追跡者達に向けると、9mmパラベラム弾を撃ちまくる。

 ポールの迎撃のスキにトレーラーの裏側に回り込んだ遥仁達は、周りを警戒しながらもコンテナの反対側に向かって走り寄った。

「ポールッ!」ズボンの腰に自分の銃を無造作に差し込んだ由香が叫ぶ。

 返事はないまま銃撃は続く。

「bow!!」

 由香が叫ぶと、途端にポールの銃撃音が止んだ。素早く由香は遥仁にアイ・コンタクトを送る。二人は屈み込むと、ポールの両足を片方ずつ掴んだ。

「――Yeah!」由香の掛け声で、二人はポールの足を思い切り引っ張った。ザザーッと音を立てて、勢いよくコンテナの下からポールの長身の体が引っ張り出される。

「行くわよ。走ってッ」

 由香はポールが立ち上がるのも待たずに素早く指示を出し、走り出した。



             ◆



 逃げ込んだ先はどうやら、埋立地の上に建てられた倉庫の林の中。

 由香は、薄々感じていた。

 多分、これは『逃げ込んだ』のではない。おそらくは『追い込まれた』のだ。

「フウッ……」

 ため息が出た。過去に感じたことがある、この不快感。逃げたと思ったのに、裏を取られる。追い込まれる……。


――――『Seer』。

 間違いない。自分達を追っているのは、『奴ら』だ。

 苦々しい何かが口の中に広がる。胸糞悪い過去の記憶が、チラリチラリと彼女の深層心理辺りから顔を出す。気分が悪い。

 由香は倉庫の外壁を背にして周囲の気配を探った。今のところ付近に追っ手の気配は感じられなかった。

 この銃撃戦で彼女も含め傷を負った者はいなかった。遥仁やポールの腕には十分に信頼を置いているし、このくらいのことでどうにかなるような奴らじゃあないのはよく知っている。ただ、萌音は明らかに憔悴していた。座り込んで、力なく項垂れたまま。それにさっきから一言も発していない。

 思い返せば、この銃撃に見舞われる前から彼女の様子はおかしかった。車中で見せた彼女のあの表情は、どう考えても普通じゃなかった。

(一体、この娘に何があったのかしら?)

 あの時の萌音の顔が今も、由香の視神経の奥の方にぺたりと張り付いていた。

 怯えたような表情。恐怖に上擦った声。

 何が萌音をそうさせたのか、由香には想像がつかなかった。

 

 それと、想像がつかないことがもう一つ。

 萌音はこの危機を事前に予測していたのだ。あの時、交差点の直前で、彼女は侵入を避けるようにと叫んだ。まるでこれから起こる事態が、どうなるか知っていたかように。

(何故、この娘にはわかったのかしら?)

 由香は考えた。答えは見付からなかった。

 でも多分、萌音は――――――何かを隠しているのだ。どういう理由でそうしているか(または、そうせざる負えないのか)はともかくとして、それが何であるのか……

(これから起こる危険に予め対処できる力。事前に危機を察知する能力)

「くくくっ」思わず想像して笑ってしまう。

(そんな魔法みたいな力、あるわけないじゃない……)

 ふと、耳に足音が聞こえてくる。追っ手の気配が近づいてくる。

「みんな、行くわよ」

 由香は指示を出す。四人は静かに走り出した。


 巨大な倉庫がひしめく。ほぼ均等な間隔で数十mおきに横道と交差する造りの区画。走れば走るほど方向の感覚を失う。似たような造りばかりの建物が恨めしい。

 由香を先頭に最後尾にはポール、遥仁が横に付いて腕を引き、萌音が真ん中を走る。この隊形で随分な距離を走り続けた。追っ手の気配はないが、かといって逃げるアテもない。

 そんな時だった。

「…………待って」

 萌音が急に先頭を走る由香を呼び止めた。

「何? どうしたの、萌音ちゃん。走り疲れたの?」

 由香はそう訊ねた。しかし顔を上げた萌音の表情はそうではないと告げていた。またさっきの怯えたような表情だったのだ。

 次の一言を口にするのに少し時間がいった。萌音は荒くした息を整えるのに何度か深呼吸すると、一番最後に深く肩で息をした。何度か言葉を躊躇っていた。

 そしてまるで意を決するみたいな表情を由香に見せるのだ。とうとう萌音はその言葉を口にした。

「……次の角、待ち伏せされてる。行っちゃダメよ」

「えっ?」

 由香は耳を疑った。何でそんな事をこの子は知っているんだ――――


「あっ……」

 由香は、思わず呟いてしまった。

(もしかして…………)

 ふと、急速に由香の中で形を作り出していく『何か』。それは、何よりも先に無意識で否定してしまった『可能性』。だから、簡単に気づくことができなかったのだ。

「ねぇ、…………萌音ちゃん?」

 由香は、萌音にしか届かないくらいの小さな声で訊ねた。けれど萌音は反応しなかった。それでも構わず由香は言葉を続ける。

「あなた、もしかして…………見えるんじゃない?」

 ピクンッ、と萌音の体が小さくはぜる。由香にはそれで全部が飲み込めたような気がした。だからさっきと同じくらいの萌音にしか聞こえないくらいの小さな声で、あともう一言を紡いだ。

「…………見えるのね。『未来』が」

 その一言を口にしてしまうと、由香は今まで進めなかった迷路の先がまるで扉が開くかのように広がるっていくのを感じた。光が、見えた。謎だったものの『答え』が――――見えてしまった。

「萌音、ちゃん……」

 萌音は答えなかった。けれどその『答えないこと』こそが『答え』なのだと、今の由香には手に取るようにわかってしまう。


 この娘は――――この娘には見えるのだ。 

『未来』が。



「お前も…………『Seer』なのか?!」

 遥仁の言葉が二人の間の空気を割って入った。偶然聞こえてしまった彼女達の会話に驚いたふうな言葉だった。しかしそれには直ぐ様、萌音は反応した。顔を上げると、にじり寄って反論する。

「違うわっ! 絶対に違う。……私はそんなんじゃない、ただの17歳よ。普通の、高校二年生よ!」

 まるで全身でもって拒絶するかのような勢いで捲し立てる。言い切ると、歯を食いしばり目を見開いて握り込んだ拳を小刻みに震わせた。そうして遥仁をじっと睨みつける。けれど喋る口調こそ激しくも見据える瞳は弱々しくて、今にもその儚い堤防からは悲痛な雫が溢れ出しそうだった。

 彼女の様子は、親も飼い主もいない小さな子犬がたった一人で生きていくための精一杯に張った虚勢のようだった。

「しかし、お前には……未来が見えるんだろう? それは事実だろうッ」

 だが、遥仁に躊躇はない。素早く萌音に銃口を向け、構える。

「ヒッ?!」

 萌音は途端に引き攣った顔をして身を竦める。両手で顔を覆う。

 ジリッと、遥仁の足がにじり寄る気配がする。そちらに目をやることなどできず、ますます身を竦める萌音。

「アルト…………やめなさい」

 遥仁を制する由香の低くて静かな声が響いた。

 しかし、遥仁は応えなかった。

「アルト!!」由香はもう一度、言う。

 けれど遥仁は向けた拳銃を下ろさない。そして彼は萌音に向かって更にもうひと足にじり寄った。

「……ッッ!!」

 突然、由香が遥仁に飛び掛った。鋭い彼女の左の拳が、無警戒の遥仁の左の頬に激しく叩き込まれる。 勢いよく吹き飛ばされた遥仁の体は、そのまま倉庫の外壁にドンッと強く叩きつけられると、勢いを殺しきれずに跳ね返ってきた。そして、そこにもう一発!

 ドガンッ!

 待ち構えた由香の、今度は右の拳がさっきよりもさらに激しく殴りつけた。

「ガッッ!」

 遥仁は思わず呻き声を上げて、そのままの体勢でザッと地面に倒れ込んだ。倒れた拍子に「ウッ!」と息を詰まらせて、しばらく顔も上げられなくなってしまう。

 あっという間の出来事だった。

 萌音はびっくりして息を呑んだまま動けなくなっていた。

 そして殴った由香の方はじっと遥仁を見据えていた。恐ろしく冷ややかな視線を向け、言葉一つかけず見下ろしている。

 重たい空気が四人の間に流れた。けれど、その空気が急に『ふっ』と密度を落とす。由香の視線が遥仁から、萌音の方へと移っていたからだ。さっきまでの刺すような視線は向こうに置いてきたまま、彼女の視線は穏やかになって萌音へと向けられていた。そしてその目が申し訳なさそうな表情になる。

「萌音ちゃん……」

 由香は言った。

「ごめんなさい。アルトのしたこと、アタシが代わって謝るわ。彼、数年前に両親を亡くしてね。マドリッドであった列車の爆破テロが原因なんだけれど、その時に心に大きな傷を負ったらしくって。『心』が壊れちゃったみたいなの。感情が普通には働かなくなっていて、時々今みたいに無神経な行動をとっちゃうのよ。悪気はないんだけど、……なんて言われて許せるんだったら、アタシだってさっきみたいに怒りまかせに殴ったりはしないんだけれどね…………」

 最後はちょっと自嘲気味に苦笑いを加えた言葉だった。そして彼女は伏せていた瞳をすっと上げて、萌音を真っ直ぐに見詰める。

「それと…………。そ~り~ぃ、アタシの分も謝るわ。すごく心無い言葉だった。『気持ち悪い』なんて言って。考えれば、あなたみたいな立場の人だっているの、分かってるはずなのに。『未来』が見えるってだけで、まるであなたと奴らを一括りにしたみたいにして言って。アタシも全然アルトのこと、言えないわ……。本当、ごめんなさい」

 由香はなんとも言えない気まずそうな表情を浮かべて、それからとても真摯にすっと頭を下げた。

 萌音はその姿を見た瞬間、涙がコップから溢れる水みたいこぼれ落ちるのを我慢できなくなってしまった。

「うっ、うっ、うううっっ……」

 声を出さないように一所懸命に噤んだ口元が、すぐにどうしようもなく形を崩す。そうするともう全部が我慢できなくなってしまって、萌音は鼻を啜ったり嗚咽を漏らしたりしゃくり上げたり、自分でも手に負えないくらい激しい感情の波に襲われてしまった。

「ここは危険よ。離れましょう……」

 そういうと由香は来た道を少し戻り、別のルートを取った。


 萌音は、それからしばらく泣いた。

 そしてようやく涙が枯れて気持ちが幾分落ち着くと、ずっと事実を言葉にするのを拒んでいた彼女の胸の内の壁も、いくらか涙と一緒に流れていったようだった。

「私、小学校の低学年くらいからチラチラと未来が見えるようになったんです……」

 萌音は小走りで進みながらポツリポツリと、静かに語り始めた。誰に聞いてもらうという感じでもなく、自身の胸に溜め込んだものを吐露するみたいなちょっと神妙な口調だった。

「それを最初に言ったのはその頃大好きだった友達で。親友みたいなふうに思ってた娘でした。二人でアイスを食べながら、その娘のアイスを『当たりだよ』って、棒が見える前に教えてあげたんです。すっごくびっくりして、でもその後にすごく喜んでくれて。『萌音ちゃん、すごい! 魔法少女みたいっっ!!』って言ってくれたんです。その頃そういうアニメが流行っていて、だから私もそんなアニメの主役になった気分で浮かれて……」

 萌音は思い出して笑った。随分、悲しそうな笑顔だった。

「ほんと…………今思えば、よせばよかったのになぁ~って思うのに。それから私、クラスのみんなの未来が見えると進んで教えてあげるようにしたんです。『いなくなった猫がスーパーの駐車場に居るよ』とか『明日の試合でシュートをいっぱい決めて活躍するよ』とか。みんなとっても喜んでくれて。私もそれでいい気になっちゃって……。あのときは子供心に『自分は特別なんだ、みんなとは違うんだ』って思ってました。だから自分が見た未来をみんなに教えてあげるのも『いいこと』だと、疑うことなく思ってました」

 萌音の表情がすっと暗く影を落とす。視線が地面に向かって落ちていく。

「…………それが、どんな未来であっても。例え、本人が見たくないような未来であっても教えて上げるべきだ、って思って。そうすれば未来を変えることだって出来るかもしれない。嫌な目に合わずに済むかもしれない。私、そんなふうに思ってたんです」

「なんて自意識過剰だったんだろうな」そこまで言い切って萌音は、口を噤んでしまった。

 トボトボと、足が止まってしまう。それにつられて他の三人も足を止める。

 萌音ちゃん、と由香は声をかけた。

 しばらく黙ったままの萌音の手を、由香は引こうとそっと腕を伸ばした。その手を彼女が掴むか掴まないかのところで、萌音が再び口を開いて話し始める。

「あの日……。私は友人の交通事故の未来を見てしまったんです」

 そして短い深呼吸を挟むと、ポツリポツリとゆっくり時間をかけて言葉を繋げた。

「その子と、お母さんが交通事故に合う未来。停車した車の後部座席に買い物袋を積み込むお母さんと、その様子をミラー越しに助手席から眺める友人の女の子。場所はデパートかショッピングモールの駐車場。急に、一台の車がすごいスピードで駐車場に侵入してきて、ちょうどその時駐車場を出ようと前に動き出した車がいて。二台はバンパー同士をぶつけ合って、車は弾かれたみたいになってコントロールを失って。一方の車がそのまま真っ直ぐ友人の車に突っ込んで行ってッ……!」

 そう言って萌音は手のひらで目を覆った。続ける言葉がくぐもった。

「私、言ったんです! 危ないから出かけちゃダメだって。車に乗っちゃだめだって。私、……あんなに鮮明に見えたのは初めてだった。助手席のあの子の瞳が、一瞬で恐怖に染まるのが見えたの。その子のお母さんの体が、ピンポン玉みたいに弾き飛ばされて隣の車に当たって崩れるのも。だから……だから、絶対に出かけちゃダメって言ったのに。危ないから、きっと事故に巻き込まれちゃうから、車にだけは乗っちゃダメってお願いしたのにっ! その子はまともに取り合ってくれなくって」

 カチカチと小さく歯の鳴る音がする。彼女から漏れる感情の底流が、肩をかすかに揺らす――。

 由香は声をかけることもできずに、じっとその様子を見ていた。

 どんな言葉をかけても、今の萌音の心は救えないと思った。

 これは彼女の古傷。長い年月をかけて、上に肉が付いて皮が張って表面からは見えなくなった所にある、彼女にしか届かない傷。誰かが外から手を添えてもさすっても、本当の助けにはならない。萌音自身が向き合う以外はない。

 萌音は大きく息を吸って、それからゆっくり吐き出して、そしてしばらく黙り込む。

 その沈黙の間、彼女の胸にはどんな思いが交錯したのだろう? 表情からは見つけ出すことは出来なかった。 

 萌音は再び口を開いた。ゆっくりとした口調で話し始めた。

「その子は右手を怪我して、一生その手は麻痺したままになってしまった。そして彼女のお母さんは、帰らぬ人に…………」

 由香は、胸につかえた重たい空気を吐き出す。萌音は次第に色を付けて蘇ってくる過去の辛い記憶に、肩を震わせた。

「……私は彼女を救えなかった。そのことにすごく傷付いたし、いっぱい後悔した。もっと必死でその子を止めたら、もしかしたら二人を救えたかもしれないのに……。私にはその力があったはずなのに、出来なかった。私、自分を何度も責めたわ。『萌音。あなたのせいで彼女達は助からなかった』と」

 萌音は目を覆っていた手のひらを下ろした。じっと下ろした手のひらを見詰める。その表情は暗く影を落としていた。

「何度も。何度も。もう立ち直れなくなるくらい、自分を責めた。でも本当の私はそれで自分の救いを得ようとしていたんだと思う。自身を同じだけ傷付けて、それで許しを乞うつもりだったんだと思う。けど――――」

 彼女は顔を上げた。拍子に目から涙がボロっとこぼれた。

「子供の社会は、それじゃあ私を許してくれなかった。……子供ってすごく残酷でしょ? 私はクラスのヒロインから一転、友達のお母さんを呪い殺した悪い魔女にされちゃった。『あいつが言うコト、本当になるぞ』って。『言う通りにしないと呪い殺されるぞ』って。そんなこと、全然ないのに。私にはそんなこと、出来ないのに……」

 ボロボロ、ボロボロと。もう、彼女の涙は止まらなかった。

「みんな私の事を避けるの。親友だと思って、初めてこの『力』の事を教えた娘まで口を揃えて言ったわ。『黒野萌音としゃべると呪われる』って」

 由香は静かに萌音の背中に腕を回した。

 震える肩は、びっくりするほど小さかった。背中は、精一杯にピンと張って生きてきたその躰は、触れてみると細くて本当に弱々しくって、簡単に折れてしまいそうだった。

 由香の腕に抱きしめられた萌音は、額を彼女の胸押しつけると、震える喉に残っていた最後の言葉を目一杯、吐き出す。

「私、こんな力、欲しくなかった。全然、欲しくなかった。どうして私だけ、こんな力が…………。私、未来なんて見たくないよ。見えたって、何にもいいことなんてないじゃない? 何にも出来ないし、何にも変えられない。なのに私ばっかり苦しんで、こんなの不公平……」

 うっ、うっと嗚咽を漏らす。由香は自分の顎を萌音の頭にのせた。抱きしめる腕に力を入れた。

「こんな力、どっかへ行っちゃえばいいに。消えてなくなっちゃえばいいのに……」

 悲痛な叫び響く。

 そしてしばらく萌音は泣き続けた。由香はじっとその背中を抱きしめていた。




「ミッションよ。黒野萌音を無事にクライアントの元へ送り届ける。……行くわよ」

 由香が低く響く声で言った。

「…………」

「Si.」

 ポールは無言のままサム・アップで、遥仁は短い言葉で素早く答える。

 萌音は泣き止んでいた。散々泣き腫らした目元はまだだいぶ赤く晴れ上がっていたが、その目には随分力が戻っていた。由香はそんな萌音に顔を向けずに話しかける。

「萌音ちゃん。お礼を言うわ。」

「…………?」

「あなたの『力』が、アタシのチームを救ってくれた。あの時、交差点であなたが危険を知らせてくれなかったら、今、アタシ達はこうしていなかったかもしれない。……だから、ありがとう。あなたの『力』のおかげよ」

「えっ……」

 ふっ、と由香は振り向いて萌音を見た。そして口元をキュッて上げると、長いまつげの下の、いっぱいに優しい瞳がくしゃっとなって微笑んだ。

「アタシ、あなたのその『力』、好きよ。それに会って間もないけれどあなたの事も好きになっちゃったわ」言って、スッ真剣な表情に変わる。「だから…………あなたを守るわ。必ず!」

 そう言って由香は遥仁達に視線を走らせる。

「さあ、行くわよ」

 四人は走り出した。先頭に由香。萌音を挟んで後ろにポール。片側は倉庫の外壁に守らせ、反対側を遥仁が警戒しながら走る。

 すぐに追っ手らしき足音が聞こえてきた。




               ◆




 四人は倉庫の影に隠れ、周囲の気配に気を配りながら息を整えていた。今のところ近くに気配はない。

 

 萌音は未だ自分の置かれた状況を上手く受け入れられずにいた。

 半日前まではただの女子高生だったのだ。でも今は、目の前を銃弾が飛び交うなか、走り続けている。


「走って!」

 由香が小さく叫んだ。それで四人はまた走り出す。再び人の気配が後ろから迫って来たのだ。

 自分たちは一体、どこへ行けばいいのだろう? どうすれば逃げ切れるのだろう? 

 その疑問の答えを萌音は見付けられずにいた。

 なら、どうすれば元の現実に戻ることができるのだろう?

 萌音は考える。が、その答えにたどり着くことは多分、永遠にないのだ。

 何ブロックか走った。再び倉庫の外壁を背にして息を整える四人。

「……はぁ、……はぁ」

 かなり息を切らしていた。膝を抱えて俯いた。萌音はもう座ってしまいたかったが、そうしたら次に立てる自信はなかったので我慢することにした。

 胸の奥から押し寄せてく恐怖が、だんだんと色を帯びてくる。

(もう、そんなにたくさんは走れないよ……)

 今はまだ、追われることの恐怖で走っていられる。けれどこのまま走り続けたら、いつかきっと走れなくなる。そうした時に自分はどうなってしまうのか?

――――怖い。とてつもなく怖かった。

 その一言を口にするのも怖くて、ともかく目をつぶった。

 恐怖からか、疲労からか、どちらが原因かはわからないけれど膝がガクガクと震える。


「――ッ、アウッ!」

 突然、彼女の左目が疼いた。

 そして片目に映り込む、あの白いマントの男。

「ううぅ、……遥仁っ。来るわ、アイツが。マントの……」

 そこまで萌音が言いかけた時には、遥仁の耳はすでに硬質の足音が迫るのを捕えていた。

「黒野萌音、走れるか?」

「……うん」

 遥仁に腕を抱え上げられ、再び走り出す萌音。一行は全力疾走で少しでも追っ手から距離を取ろうとする。

「由香、どうする? このままでは追い詰められる」

「わかってるけど、一体どうしたらいいっていうのよ?!」

 遥仁の言葉へ返事を返す由香の表情に、焦りの色が見え始めた。

 その時だった。

「ああっ!」

 声がして『キャッ』と悲鳴が上がるのと、ドタッと転倒する音が同時に聞こえた。

「はッ! 萌音ちゃんッ」

 由香が叫んだ。遥仁も慌ててうずくまる萌音の側に駆け寄る。

 カツッ、と硬い靴底の音がすぐそこの角まで迫っていた。

「Coño!!(畜生!)」遥仁が吠える。

 すでに視界の片隅に白い影が見える。腰から抜刀したサーベルに月明かりを浴びせ、青白い光を反射させている。

「絶対絶命、ね」

 そう言うと、由香達は揃って銃を構えた。狙いを迫る男に定める。

 しかしクリストフは止まらない。

 怯むことなくゆっくりと前進してくる。


「…………ッ!」

 開始の合図はポールの銃撃からだった。緊迫した空気を打ち破るように毎分800発の弾雨をクリストフ向けて放つ。

 しかし相手の出足が速い。駆け出し、一気に加速したクリストフの影をわずかに遅れて銃弾が追いかける。

「クソッ」

 遥仁はポールの銃撃の外から飛び出した。特殊警棒を脇から引き抜くと、クリストフの足を止めるべく彼に立ち向かう。ガシッ、と激しい金属のぶつかる音を響かせる。

「行け、由香! ここは俺が食い止める。早く行けッ」

「バカっ、無茶よ!」

 由香は遥仁を呼び戻そうと叫んだ。しかし結果的にそれが自分達の居場所を知らせてしまうことになる。すぐそばの路地から追っ手の男達が顔を出して来る。

「アルト、ダメよっ!!」じりじりと後退しながら叫ぶ、由香。

「……必ず戻る。行けッ!」

 そう叫び返し、遥仁はクリストフの二撃目を横に薙ぎ払った。

「クッ!」

 由香は唇を噛むと、踵を返す。そして隣で呆然とする萌音の腕をぐっと掴み、走り出す。

 萌音の腕を掴む由香の手が、痛いくらい強い力で引っ張った。彼女の思いが痛いほどにわかった。だから萌音は必死に足を動かした。悔しくても歯痒くても、自分では何の助けにもなれない。今は走ることしか出来ない。

 最後尾をポールに任せて由香達は走る。断続的に響く銃撃の音。彼が追っ手を足止めしてくれている間に少しでも距離を取ろうと全力で走り続ける。

「…………ッ?!」

 しかし、二つ先の角を左に曲がったところで、由香の足は急に止まった。

 萌音は慌ててつんのめりそうになる。しかし前の由香の様子が尋常ではないのに気付いて、自分も心臓バクバクさせて激しく緊張した。

 由香は口を開いた。

「……あなた、何者?」

 そう訊ねた相手は、10mくらい向こうでライフルを構えていた。

 黒いワンピース。耳が隠れるくらいのセミロングの真っ黒い髪。それらが辺りの空気に溶け込むように同化して、真っ白のリボンと幼い顔立ちだけが妙に浮き出て見える。

 ちっちゃなナイトメアがポツリと答えた。

「Seer、『春夏秋冬八弥』(ひととせ やや)。予見者名は『再会を示す標』……」

 八弥と名乗った少女は、そう言った。

「そう、あなたもSeer。……道理で何度も何度も会うわけね」

 由香は自身も銃を構えて八弥と対峙する。

「でもね、最近のハーヴァー・ボーイズはしつこい女は嫌いよ?」

 八弥は掛けられた言葉の意味が解らず、怪訝な顔をする。すると

「あなた、モテないでしょ?」

「……ッ!!」

 まるで眉毛だけでも会話できるくらい、表情に出るタイプだった。八弥はあからさまに不機嫌になると、ライフルを構える。サイト越しに向けた鋭い視線が由香を捉えた。

「さっきの銃弾は、生まれて初めて人に向けた銃弾。今度は、生まれて初めて人を殺める銃弾……」

 そう呟くと、狙いを由香に定める。――――しかし、

「クッ?!」銃口がカタカタと震えて安定しない。八弥の手は震えていた。

「……? あなた、何しているの?」

「う、うるさーいッ!」

 ダァーン! と銃声が響き渡った。

 しかし、着弾はどこにもなかった。どこかで跳ねる音もしない。弾は、明後日の方へ飛んでいってしまったようだ。

「く、くぅ~」

 悔しそうに歯を喰い縛りながら作動稈を引く。再び照準を合わせようとする。

「やめなさい、そんなこと。あなたには全然似合わないわ」

「よ、余計なお世話よ。私は『フランセスク』様のお役に立つためだけに生きているの。お前の意見に何か、耳を傾けるつもりはないわッ」

「フランセスク? 誰よ、そいつ?」

「『そいつ』なんて呼ぶんじゃないーッ」

 再び銃声が響いたが、またしても弾丸は狙いを逸れて空へと飛んでいったようだ。「あのお方は、お前なんかがそんなふうに呼んでいい方ではないのだ!」八弥はそう叫び、肩で息をしながら三度銃口を由香に向けようとする。

 しかし、由香の背後から飛び出して来たポールがそれを許さなかった。いつの間にか由香達に追いつくと、少女に銃を向けて素早く引き金を引く。

「キャアッ!!」

 八弥は慌ててピョコピョコと倉庫の影に駆け込んだ。彼女はそれっきり姿を見せなくなってしまう。

「萌音ちゃんっ」

 八弥の気配が消えたのを察知すると、由香は振り向いて叫んだ。萌音の腕をつかみ、再び走り出す。



「うぉおおーーっ!」

 ガシーンッ!

 警棒を鋭く振りかざし、幾度となく切り結ぶ遥仁とクリストフ。

 時間稼ぎの役も、いい加減切り上げないと自分が退路を失ってしまう。

 遥仁は次のクリストフの一閃を敢えて紙一重で躱し、その横っ腹に派手に前蹴りを叩き込んだ。

『グウッ!』

 クリストフが苦悶の表情でよろめく。そのスキに遥仁は走り出そうとする。

 しかし――――

「なっ?!」

 パン、パンッ!

「くっ!」

 突然、路地から二人の男が飛び出してきた。

 男達は咄嗟に遥仁に向けて発砲してくる。慌てて飛び退き転がる、遥仁。

(しまったっ)

 素早く体勢を起こすも、唇を噛んだ。

 そして背後には追いついてきたクリストフの気配。

(クソッ、囲まれた……)

 クリストフの表情があの歪んだ笑みに変わるのがわかる。

『クククッ。もう、逃げられない……』

 その言葉の意味は理解できなくとも、遥仁の気分を苛立たせるには十分だった。

 遥仁を取り囲む3人の男達が、じりじりと距離を詰めてくる。遥仁は倉庫の壁を背にして逃げ場を失う。

 遥仁の右腕がゆっくりと左脇のホルスターに触れた。そっと拳銃のグリップを掴む。

「動くな!」

 しかし男の一人がその動きを察知して、叫んだ。

「……ゆっくりと手を頭の上に上げろ」

 遥仁はガクリと肩を落とした。項垂れ、言われるままに両手をゆっくり上げる。

 完全に追い詰められた。

「おい、貴様! 武器を捨てろ!」

 優位な立場になった男が再度命令する。遥仁の両手の拳銃と警棒を指さして言った。

「早くしろッ」

 男は更に口調を強くする。

「…………」

 けれども遥仁は、武器を捨てようとしなかった。両手を頭の上に上げたままピクリとも動ごかない。

「コイツ!」

 もう一人の男の方が業を煮やして声を荒らげる。ズカズカと詰め寄ると、遥仁の頭にグイッと銃を突き付けた。

「舐めやがって。ぶっ殺してやる!!」

 引き金に掛かる指にゆっくりと力が入る……。


「――――――市原流銃剣術、二の型。 『円』」

 つい――っ、と影が動いた。そして遥仁の銃が男に向く。

 その動き出しにはまるで気配がなく、あまりに自然な身ごなしだったために、男は自分に銃が向けられるまで遥仁の動きに全く気付かなかった。

「なっ?!」

 慌てて突き付けた銃の引き金を引こうとする。しかし、男のその手にはもう銃はない。

「ガァアアッ!」

 男の親指は、ちょうど指の付け根辺りから逆方向に反り返っていた。遥仁の左手の警棒がいつの間にか拳銃を払い落としていたのだ。その打撃で、男の親指は骨折していた。

 遥仁は素早く動き出す。

 二人の男達には気もかけず、クリストフ目掛け一直線に突き進む。

「こ、こいつ、いい加減にッ」

 背後の男達が怒号と銃声を発した。

 遥仁は顔を俯かせたまま、走りながら後ろ手で拳銃の引き金を引いた。振り返りもせず、狙いを付けたようでもないその銃弾が、男達の肩や腕を打ち抜く。

「ギャッ!」

「ぐぅ、うう……」

 遥仁がクリストフに迫る。対してクリストフはサーベルを突き出す。遥仁は顔を上げもせずその突きを横にステップして躱した。クリストフは小さく舌打ちするも、『このくらいで終わられてはつまらない』とばかりに余裕の笑みを増す。

 素早い剣撃。それを遥仁は体を捻り、ステップを巧みに躱す。

 放たれた鋭い突きを警棒で払い落とし、遥仁は銃を撃つ。その銃口はクリストフは向いておらず、弾はあさっての方へ跳んでいく。

「ガッ!」

 離れたところで短い悲鳴が上がった。クリストフがチラリと目をやると、さっきの二人の男のうちの一人が撃たれた右手を抑えてうずくまっていた。

『……コイツ、何でわかった?』

 さっきから遥仁は一度も顔を上げない。クリストフの攻撃も、男達の銃撃も、目で見て対処しているのではなかった。むしろ『感じている』というほうがしっくりくるような立ち居振る舞い。

 

 クリストフはさらに攻勢に出ようとする。深く息を吸い、ほんの一瞬胸に空気を溜める。その取り込んだ酸素を大きな力に変換しよう体が反応した、そのほんの一瞬の『タメ』を遥仁が見逃さない!

「フッッッ!」

 遥仁は素早く踏み込むと、クリストフの懐にもぐり込んだ。そしてその勢いのまま銃口を喉に突きつける。

 ピタリと動きを止めるクリストフ。そして――――遥仁が叫ぶ!

「¡Hasta nuncaーッ!(二度と顔を見せるな!)」

 渾身の力を込めた一撃をクリストフの脇腹目掛けて叩き込んだ。ゴキンッ、と肋骨の折れる音が響いた。

『……ウゴッ、アアァ!!』

 激しくうめき声を上げて、顔を歪めるクリストフ。ズルズルと遥仁の肩をつたい、そして最後は膝から地面に崩れ落ちる。

 遥仁はゆっくりと顔を上げた。

 足元に這いつくばって恨めしそうな目をするクリストフを一瞥すると、彼は再び走り出した。




 由香達の逃走は続いた。

 追っ手の数は増える一方だった。このままでは、いずれポール一人では抑えきれなくなる――。

 由香は走りながら、何とかこの状況を打開する方法を考えていた。

 しかしその方法は一向に見付からない。

 「くっ」

 路地に差し掛かるたびに、由香はその先の気配を探る。さっきから何度か先回りする追跡者と鉢合わせになった。しかしそのたびにやり合って時間を取られると、後ろからの追っ手に迫られてしまう。状況はかなり苦しい。

 少し広い十字路に差し掛かった時だった。

「由香さんッ!」

 萌音が彼女を呼ぶ声がした。由香は声のする方へ振り返ると、萌音が少し先を指さして「あれ、見てっ」と叫んでいた。由香は萌音が指し示す辺りに視線をやった。いくつか見える光の点滅。次第にそれがなんであるのか脳が理解し始める。地上50cm位の高さに規則的な点滅をする四角のライト。――――それはハザードランプだった。


「車ッ! 何で、こんなところに?!」

 由香は叫んだ。数十m先にワンボックスタイプのミニバンが見えた。バンは後ろのドアを開けた状態で停車している。こんな時間に、荷物の積み下ろしでもしていたのだろうか?

 由香はしばらく考えた。しかし、すぐに思い切ると走り出そうとする。

 だが、その腕をポールが掴み、引き止めた。彼は何度も首を横に振った。

 由香が振り向いてポールの顔を覗き込む。

「…………」

「ダメよ、ポール。……行くわ」

 由香はじっとポールの目を見て、静かに答えた。

「もしこれが罠でもアタシは死ぬけど、これにトライしなくたって多分もうちょっと先で死ぬだけよ。それにその時はあなたも、彼女も一緒に死ぬことになる……」

 そう言って由香はちょっと笑った。

「だから、行くわ。あなた、萌音ちゃんをお願い!」

 由香はポールの掴む腕を振り払うと、走り出した。

 周囲の気配に気を配りながら走ってゆく、由香。ミニバンの後ろ数mまで近づくと、気配を殺して一旦立ち止まる。そして、ゆっくりと車に寄っていく。残り1mくらいまで寄ると、一気に距離を詰めて車内に銃を向けた。搭乗者が居ないか探っているようだ。

 萌音は路地の角に身を潜めながらその様子を見ていた。拳をぎゅっと握り締め、固唾を呑んで見守った。彼女の視線の先で、由香が運転席の扉を勢いよく開ける。

 車中に銃を突き付けた。

 しばらくして車内から作業服姿の男が転げ落ちてくる。手に持っていた物を慌てて落とした。ガシャ、っと乾いた音が聞こえた。どうやら携帯電話を落としたらしい。

 男は携帯電話を拾うと、ドタドタと走り去って行った。それを見送った由香が、運転席に滑り込む。扉を閉める『バタンッ』という音がかなり派手に響く。

「…………」 

 萌音の頭の上で寡黙な男が何か呟くのが聞こえたが、何と言ったのかは聞き取れなかった。

 そしてポールがほんの一瞬、車から目を背けたのがわかった。萌音にはそれがなぜなのかはわからなかった。

 次の瞬間、エンジンのかかる音が響く。ハザードランプが点滅から点灯に変わると、ミニバンがバックで萌音達の方へ走り寄ってきた。

「萌音ちゃん、乗ってッ!」

 運転席の窓から顔を出した由香が叫んだ。萌音は後ろの座席に乗り込む。そしてポールが助手席にドカッと座った。『バタンッッ』とやけに力一杯強く扉を閉めたので、その大きな音にびっくりした萌音が「キャッ」と声を上げてしまった。

「もう……、そんな顔しないで。これがアタシの流儀だって知ってるでしょう?」

「…………」

 萌音は後部座席からポールの顔を覗き見た。彼女の座る場所から彼の表情はよく見えなかったが、腕を組み、どっかりと座り込んだ姿は何となくムスっとしているような気がした。

「そ~り~ぃ。わがままな女でごめんなさい」

 由香がそう言うと、車はシフトを入れ替えて急発進した。



 追っ手の男達を尻目に、ミニバンは倉庫街を疾走した。

「萌音ちゃん、頭を低くして! しっかり捕まっててよッ!!」

 十字路をすごいスピードで車が右折する。後ろの方で『パン、パンッ』と乾いた音がしたが、すぐに止んだ。

 しばらく走り続けると、路地から長身の男が顔を出してきた。最初にその影を見つけた萌音が叫ぶ。

「遥仁ッ!」

 その声で気付いた由香がパワーウインドウを開けて顔を出した。

「遥仁、こっちよ!!」

 大声を上げると体を乗り出して手招きする。車をやや減速させて遥仁の側に近づけた。

 遥仁が走り出した。路地を飛び出し、車道を直進してくる。

「萌音ちゃん。扉、開けて」

「はいっ」

 萌音は扉を力一杯スライドさせた。まだ、かなりのスピードで走っている車内では上手く足を踏ん張ることができず、かなりの力が必要だった。ようやく開いたドアの向こうからすごい風が吹き込んできて、その風を受けた萌音は「うわぁっ」とシートに倒れ込んでしまった。

 そこに、遥仁が『文字通り』飛び込んできたのだ。

 彼は走る車に向かって飛び乗ってきたのだ。そしてそのままシートに寝そべる萌音に…………


「なっ! キ、キャァァーー!!」萌音は目を覆った。


 びっくりして閉じた目を、萌音はゆっくりと開ける。

「ううう、びっくりしたぁ……」

 しばらくぼーっとしていたが、次第に意識がはっきりしてくる。 

 体に伸し掛る重みで身動きが取れない。それで気が付いた。見れば遥仁が彼女の体を組み敷くように覆いかぶさっている。

 萌音は呻き声を上げる。

「ねぇ、遥仁。どいて、重いってば」

「…………」

「どいてよ……って、ちょっとあんたッ、何してんのよー!」

 遥仁はシートに手をついてゆっくりと体を起こす。しかし、その拍子にペラリと萌音のスカートがめくれてしまったのだ。その下の水色の下着が晒される。顔を真っ赤にさせて恥ずかしがる萌音を見下ろして、遥仁は別段気にした様子もなくこう言ったのだ。

「なんだ? さっきも見てる。問題はない」

 萌音はその一言にブルブルと肩を震わせた。そして――キレた。

「……ッッッ! この、変態野郎がぁッ!!」

 バッチーン、と本日三度目にしてとうとうクリーンヒットが遥仁の頬を捉えたのだった。


 


               ◆



 渋谷区代官山町。

 旧山の手通りを渋谷駅に向かって走り、首都高速三号渋谷線に差し掛かる手前を右折する。

 ブティックやカフェの並ぶ通りから一歩入ればマンションの建ち並ぶこのエリアに、一風変わった造りの建物が顔を出す。

 中東の小国・ハブレム大使館。

 門の奥に見えるのは白亜の壁と幾何学模様がびっしりと詰った青いタイル張りの建造物。そのイスラム教国家独特の造りな建物の中では、ひとりの少年が少女の到着を待ち続けていた。

 『トーブ』と呼ばれるワンピースのような独特の白の衣服。身長は150cmくらい。顔立ちはまだ幼く歳の頃は10代前半だろうか。大人達が彼に話しかけると、少年はすぐに笑顔をつくって答えた。その際に出来るえくぼが、彼の愛くるしさを一層増す。

 周囲に立つ男達が褐色に近い肌の色をしている中で、なぜか彼だけは異なる容姿をしていた。まるで白人のような白い肌。髪は鮮やかな金髪。そして瞳は灼ける炎のような朱色。その幼い顔立ちこそ他の大人達に通じる雰囲気はあるが、遠目に見れば彼だけが異なる人種のように見える。

 ふと、少年が息を呑んだ。

 すると彼の右の朱眼が、まるでそちら側だけ違う映像を捉えているかのように瞳孔を大きくした。

「……来たね。待ってたよ」

 彼の呟いた言葉は何故か流暢な日本語だった。だから周りの大人達には意味はわからない。

 しかし、すぐに部屋の扉が開いて従者らしき男が入ってきた。そして室内の全員に聞こえるよう何かを言った。その言葉はアラビア語だったから大人達は当然意味する。そして何があったかも彼らはそこで初めて知らされるのだった。



 萌音達四人が迎え入れられたのは、見たこともないデザインの白い建物だった。

 室内に入ると床は一面磨き込まれた大理石張り。あまりの美しさに思わず見入ってしまうが、鏡のようにピカピカに磨き込まれたその上を歩くとスカートの中がスースーするようで萌音はちょっと歩きづらかった。

(もう、また……見えちゃうじゃないのよ~)

 廊下は白を主体にしたシンプルな造り。しかしよく見れば壁や柱には見事な装飾がびっしりと彫り込まれている。

 やがて案内された部屋は、床一面に赤い絨毯が敷き詰められていた。天井からは立派な造りのシャンデリアも吊るされていた。室内にいくつもある天井くらいまでの高さの大きな窓は上部がアーチ状になっているのだが、その頂点が上に尖った一風変わったデザインだった。

 廊下と比べると室内の装飾は随分抑えめだったが、入口の扉を挟んだ正面の壁にだけかなり手の込んだ造りの門のような物があった。その場所の装飾は廊下や柱のものと比べてもかなり手が込んでいるように見えた。

 椅子の無い部屋だったために四人は立ったまま待つことになった。だが、そのことが気になり出す前に彼らを待たしていた人物は姿を現す。

 ガタッ、と静かに音を立てて入口の扉が開いた。

 そして入ってきたのは真っ白い服に身を包んだ白人の少年だった。

 少年は一度立ち止まると、ゆっくりと頭を下げる。そして顔を上げるとえくぼが可愛らしい笑顔を見せて言った。

「皆さん、はじめまして。ようこそお越しくださいました」

「えっ……」

 見た目からは想像もつかない淀みのない日本語で話し出した少年に、萌音達は驚きを隠せなかった。

 しかし少年は萌音達の様子を気にかけるでもなく話を続ける。

「エージェントの皆さん。彼女を無事にここまで連れてきてくださって、本当にありがとうございます。心からお礼を申し上げます」

 その言葉に由香が怪訝な表情を見せる。彼女は一歩身を乗り出すと言った。

「ねぇ、悪いんだけどアタシ達追われる身なの。確かにここは治外法権なのかもしれないけれど、相手は日本の法律だって無視して銃を撃ってくるような奴らよ。だからここだって安心ってことにはならないわ」

「……?」

 少年は由香の言う言葉の意味がよくわからないようだった。目をまんまるにして小首をかしげた。

「ようするに……」

 由香は少年の目を見据える。そして彼女は萌音の肩を自分に引き寄せて言った。

「アタシ達は早くクライアントに会って、この子の安全を確かめたいの! それと、できればなんでこんな大事に巻き込まれたのかも知りたいわ。だから早く会わせて欲しいんだけど……」

 一息吸い込んでから、由香はその名前を呼んだ。

「……ハリファー・E・ドガ。ハブレム第一皇子に」

 少年はちょっと驚いた顔をした。

 しかしすぐに何か気付いた表情になると、今度はまたニコリと微笑んだ。そして彼は自分の胸に手を当てて、軽く頭を下げる。

 彼の口から次に出た言葉に由香は耳を疑った。そして詳細をよく知らない萌音にしてもその事実だけで十分驚きを隠せなかった。

「大変失礼しました。自己紹介が遅れてすいません」

 そう言うと彼は顔を上げて、もう一度微笑んだ。

「ハリファー・E・ドガ。ハブレム第一皇子です。どうぞお見知りおきを」

「な、なぁっ?!」

 由香が素っ頓狂な声を上げる。

「嘘……。あ、あなたが……皇子?!」

「はい」

「で、でもハブレムの内政は今、第一皇子に全て任されているって聞いたわよ。まさか、あなたその若さで国政を一手に担っているってコト?!」

「今はまだ、全てが『そう』というわけではありません。何しろ父が急逝したのはたったの半年前ですから」

「それにしたって……。あなた、一体幾つよ?」

「今年で13歳になります」

「マイ ゴット!!」

 由香は頭を抱えてしまう。

「……そ~リ~ぃ、大変失礼しました。無礼な発言をお許しください、ハリファー皇子」

「お気になさらないで下さい。国ではもっと辛辣な事を言われますから、慣れたものです」

 大らかな笑顔を蓄えた表情がそう言うと、ハリファーはすっと由香に近づいた。何をするのかと萌音が見ていると、彼は由香に握手を求めたのだ。

「エッ?」由香はびっくりして身を固くした。

「あなたは恩人ですから。ぜひ、握手をさせて下さい」

 ハリファーは呆然としている由香の手を取ると、自分の両手でしっかりと包み込んで感謝の気持ちを伝えた。

「ありがとう、ミス・カワグチ。あなたは僕の大事な『姪』を守ってくれた。……感謝します」



 

 最初、その言葉の意味をその瞬間に正しく理解できるものは、その場には一人もいなかった。


「姪、って……?」

 由香がまたも怪訝な表情をした。今度は雑じりっけ無しに不思議な表情だった。

 その表情をじっと見詰めていたハリファーはすっと由香の手を放すと、今度はゆっくりと萌音の前に向かって歩み寄った。

 萌音の前で向き直り、じっと彼女の目を見据えるハリファー。その瞳に暖かさはあっても、その表情に笑みはもうなかった。彼の表情は真剣だった。嘘や冗談を言っているのではない、そう無言で伝えているようだった。萌音はだから目を逸らすこともできなくって、何だか怖くなって手が震えてきた。

「萌音、初めて会ったね」

 ハリファーは静かに喋り出した。

「うん、確かに母さんに似てる。その頑固そうな口元とか、意志の強そうな眉とか……」

「……」

 言われた内容は何だか癪に障るものだったが、今は腹をたてる気にもならなかった。

 というよりも今は頭が思考しない。

 ふと、ハリファーの手が伸びる。その手が今度は萌音の手を取ろうとした。しかし触れた瞬間、萌音はそこに電気が走ったみたいな気がしてびっくりして手を引っ込めてしまった。

 けれど、ハリファーは萌音の顔を見上げてニコリと微笑む。唇が『大丈夫』と動いた気がした。それを見て萌音は体に走った電気が収まるような感じがした。気が付いた時には彼女の右手はハリファーの手の中に包まれたあとだった。

「萌音、大事な事を言うからよく聞いて」

 ハリファーの目が、じっと萌音を見詰めて言う。

「僕ら二人がこれから歩まなければいけない未来のこと。立ち向かわなければいけない、現実のことだを……」

「…………?」



 そして語られる言葉が、黒野萌音の世界をこれまでと全く違うモノに変えていくのだった。



「……萌音、僕の母は『黒野紗枝』。君の祖母だ」

「なっ?!」

「そして僕らには彼女の血から受け継いだ未来を見る力がある。僕の目に映る『赤の未来』と君の目に映る『青の未来』。僕ら二人には、世界の未来を見る力が備わっているんだ。――――だけど、その力を欲しがっている人間もいる」

「えっ……」

「『Seer』――僕達二人は奴らと戦わなくちゃならない。自分と、この世界の未来を守るために……」



 そして、萌音の左目にまだ見ぬ未来が動き出す――――


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[一言]  こんばんは、安芸です。  未完とのことでしたが、読みました。て、手強かった……! 正直、何日かに分割して読みました。  どのあたりが手強かったかと言えば、私自身SFそれもガンアクションと…
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