妹が私の婚約者を欲しがったので、婚約者に付いている義務も全部差し上げました
妹のミレーヌが、お茶会の席で、まっすぐ私を見て言った。
「お姉様。私、アルフレート様が欲しいわ」
カップを持つ手が、ぴたりと止まった。
向かいの席では、当のアルフレート・ヴァイス様が、居心地悪そうに視線を泳がせている。私の婚約者であり、侯爵家の嫡男。その隣で母は、いつものように困ったふりをして微笑んでいた。
「あなたのものを欲しがるなんて、仕方のない子ね。でも、お姉様でしょう? 譲ってあげなさいな、クララ」
十六年間、何度も聞いた台詞だ。
人形も、ドレスも、髪飾りも。ミレーヌが欲しいと言えば、私は譲ってきた。譲らなければ、母に叱られたからだ。
けれど今回は、少し事情が違う。
アルフレート様は、ただの婚約者ではない。
「ミレーヌ、本気で言っているのですか?」
「ええ。だってアルフレート様、素敵なんですもの。お姉様より、私のほうがお似合いだと思わない?」
アルフレート様が咳払いをした。
「その……クララ、君には申し訳ないが、ミレーヌ嬢の気持ちを無下にするのも」
要するに、彼も乗り気なのだ。
私は静かにカップを置いた。
「分かりました。差し上げます」
「え?」
ミレーヌが目を丸くした。反発されると思っていたのだろう。
「アルフレート様との婚約を、ミレーヌに譲ります。ただし、手続きは正式に。婚約契約書の権利者変更届を、両家の立ち会いで交わしましょう」
「書類なんて堅苦しいわ。気持ちが大事でしょう?」
「いいえ。婚約に付いているものは、きちんと全部、引き継いでいただかないと」
私はにっこり笑った。
「婚約者に付いている義務も、全部、お譲りしますので」
◇
アルフレート様と私の婚約契約書には、付帯条項がある。
ヴァイス侯爵家は五年前、領内の鉱山で大きな事故を起こした。三十一人の死者を出し、その遺族への補償を侯爵家が負うことになったのだが、財政が追いつかない。
そこで、持参金に余裕のある伯爵家との縁組が持ち上がった。それが、私だ。
契約の第七条。
『婚約者は、毎月第二週に遺族の村を訪問し、補償金の手渡しと安否の確認を行うこと』
第八条。
『婚約者は、補償金の月額三分の一を、自らの持参金から負担すること』
これを三年間、私は一度も欠かさず履行してきた。毎月、馬車で半日かけて山間の村へ通い、遺族一人ひとりの手を握って、お金を渡した。
アルフレート様は、一度も同行したことがない。
「そういう湿っぽい場所は苦手でね」と言って。
ミレーヌは、そのことを知らない。母も知らない。この家では、私の行動に誰も興味がなかったから。
権利者変更の手続きは、翌週、ヴァイス侯爵家の応接間で行われた。
立会人は両家の当主と、王都の公証人。
公証人は、契約書の全項目を朗読し、ひとつずつ確認していく。
「第七条、毎月の遺族村への訪問。第八条、補償金月額三分の一の負担。これらも、婚約者の地位とともに、ミレーヌ嬢に移ります。よろしいですか?」
「ええ、構いませんわ」
ミレーヌは、ろくに聞いていなかった。視線はずっと、アルフレート様の横顔にある。
「ミレーヌ、本当にいいのね? お断りするなら今のうちよ」
「お姉様、しつこいわ。署名すればいいんでしょう」
彼女は羽根ペンを取り、名前を書いた。
ミレーヌ・ローゼンベルク。
その下に、私の名前が消され、替わりにミレーヌの名前が記された。
公証人が印を押す。
契約は、成立した。
「では、クララ嬢。婚約者の地位と義務の移譲、確かに受理しました」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
ずっと肩にのっていた重しが、ふっと消えた気がした。
◇
次の第二週、ミレーヌは遺族の村に行かなかった。
「山道は疲れるもの。それに、お金を渡すだけでしょう? 誰かに頼めばいいじゃない」
使いの者に任せた補償金は、半分ほどしか届かなかった。道中で、運んだ使用人が自分の取り分を抜いたからだ。
それが発覚したのは、村の長が侯爵家に抗議の書状を送ってきたときだった。
『三年間、毎月欠かさず会いに来てくださったクララ様は、どうされたのですか』
書状の末尾にはこう書いてあった。
『私たちは、補償のお金だけを待っていたのではありません』
アルフレート様は、書状を読んで青ざめた。
そして三ヶ月目。月額三分の一の負担金が、ミレーヌの持参金から引き落とされる月が来た。
ミレーヌは自分のドレス代が減ることに気づき、絶叫したという。
「どうして私が、そんなものを払わないといけないの!」
「契約書に、署名しただろう。第八条に」
「そんなの、知らなかったわ!」
読んでいなかったのだ。読まずに署名したのだ。
姉が三年間、黙って払い続けていた金額は、ミレーヌの年間のドレス代の五倍近い。
しばらくして、アルフレート様が私の屋敷を訪ねてきた。
玄関先で、彼はひどくやつれた顔をしていた。
「クララ。頼む、婚約を戻してくれ。ミレーヌは、ひとつも約束を守らない。村にも行かない。金のことしか言わない」
「最初から、あなたが選んだことでは?」
「あれは、その、一時の気の迷いで」
「一時の気の迷いで、私は三年分の義務を妹に譲ったのですね」
彼は言葉を失った。
「それに、アルフレート様。婚約の権利者変更届は、正式に受理されています。ミレーヌとの婚約が成立している以上、私が戻る余地はありません」
「だが、君は、僕のことを――」
「大切に思っていたのは、事実です」
私は静かに言った。
「でも、一度も遺族の村に足を運ばなかったあなたを、私は、尊敬することができませんでした」
彼は、うつむいたまま、動かなかった。
やがて、のろのろと馬車に戻っていった。
◇
それから半年。
ヴァイス侯爵家は、遺族の村への補償を、いったん打ち切られかけた。王家の監察官が調べに入り、侯爵家の怠慢が明るみに出たからだ。
その監察官の中に、一人、見覚えのある顔があった。
鉱山事故の遺族村で、毎月顔を合わせていた、調査官のヨアヒム・ベルガーさん。
彼は、私が三年間通い続けた姿を、すべて見ていた。
「クララ嬢。実は、お願いがあります」
ある日、ヨアヒムさんが私の屋敷を訪れた。
「村に、遺族の子どもたちのための学校を作る計画が決まりました。王家の補助金が出ます。その運営責任者を、あなたにお願いしたい」
「私が?」
「村の人たちが、あなたの名前を挙げたんです。三年間、毎月通い続けた方に任せたいと」
鼻の奥が、つんとした。
誰にも褒められなかった三年間を、見ていた人たちがいた。
「報酬は、きちんとお支払いします。それから、もうひとつ」
ヨアヒムさんは、少し言いにくそうに続けた。
「学校の運営は、一人ではできません。できれば、共同で、長く」
「長く、というのは、どれくらいでしょう」
「一生、くらいで。……失礼、先走りました」
真っ赤になった彼を見て、私は思わず吹き出した。
「お返事は、次の第二週に、村でいたします」
「村で?」
「ええ。毎月第二週は、私が村へ行く日ですから」
契約書の義務ではなく、自分の意思で。
春の風が、窓から入ってきた。
私は、ずっと譲ってばかりだった。
けれど、これだけは、誰にも譲らない。
自分で選んだ、自分の毎月第二週を。
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