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妹が私の婚約者を欲しがったので、婚約者に付いている義務も全部差し上げました

掲載日:2026/10/21

 妹のミレーヌが、お茶会の席で、まっすぐ私を見て言った。


「お姉様。私、アルフレート様が欲しいわ」


 カップを持つ手が、ぴたりと止まった。


 向かいの席では、当のアルフレート・ヴァイス様が、居心地悪そうに視線を泳がせている。私の婚約者であり、侯爵家の嫡男。その隣で母は、いつものように困ったふりをして微笑んでいた。


「あなたのものを欲しがるなんて、仕方のない子ね。でも、お姉様でしょう? 譲ってあげなさいな、クララ」


 十六年間、何度も聞いた台詞だ。


 人形も、ドレスも、髪飾りも。ミレーヌが欲しいと言えば、私は譲ってきた。譲らなければ、母に叱られたからだ。


 けれど今回は、少し事情が違う。


 アルフレート様は、ただの婚約者ではない。


「ミレーヌ、本気で言っているのですか?」


「ええ。だってアルフレート様、素敵なんですもの。お姉様より、私のほうがお似合いだと思わない?」


 アルフレート様が咳払いをした。


「その……クララ、君には申し訳ないが、ミレーヌ嬢の気持ちを無下にするのも」


 要するに、彼も乗り気なのだ。


 私は静かにカップを置いた。


「分かりました。差し上げます」


「え?」


 ミレーヌが目を丸くした。反発されると思っていたのだろう。


「アルフレート様との婚約を、ミレーヌに譲ります。ただし、手続きは正式に。婚約契約書の権利者変更届を、両家の立ち会いで交わしましょう」


「書類なんて堅苦しいわ。気持ちが大事でしょう?」


「いいえ。婚約に付いているものは、きちんと全部、引き継いでいただかないと」


 私はにっこり笑った。


「婚約者に付いている義務も、全部、お譲りしますので」


 ◇


 アルフレート様と私の婚約契約書には、付帯条項がある。


 ヴァイス侯爵家は五年前、領内の鉱山で大きな事故を起こした。三十一人の死者を出し、その遺族への補償を侯爵家が負うことになったのだが、財政が追いつかない。


 そこで、持参金に余裕のある伯爵家との縁組が持ち上がった。それが、私だ。


 契約の第七条。


 『婚約者は、毎月第二週に遺族の村を訪問し、補償金の手渡しと安否の確認を行うこと』


 第八条。


 『婚約者は、補償金の月額三分の一を、自らの持参金から負担すること』


 これを三年間、私は一度も欠かさず履行してきた。毎月、馬車で半日かけて山間の村へ通い、遺族一人ひとりの手を握って、お金を渡した。


 アルフレート様は、一度も同行したことがない。


 「そういう湿っぽい場所は苦手でね」と言って。


 ミレーヌは、そのことを知らない。母も知らない。この家では、私の行動に誰も興味がなかったから。


 権利者変更の手続きは、翌週、ヴァイス侯爵家の応接間で行われた。


 立会人は両家の当主と、王都の公証人。


 公証人は、契約書の全項目を朗読し、ひとつずつ確認していく。


「第七条、毎月の遺族村への訪問。第八条、補償金月額三分の一の負担。これらも、婚約者の地位とともに、ミレーヌ嬢に移ります。よろしいですか?」


「ええ、構いませんわ」


 ミレーヌは、ろくに聞いていなかった。視線はずっと、アルフレート様の横顔にある。


「ミレーヌ、本当にいいのね? お断りするなら今のうちよ」


「お姉様、しつこいわ。署名すればいいんでしょう」


 彼女は羽根ペンを取り、名前を書いた。


 ミレーヌ・ローゼンベルク。


 その下に、私の名前が消され、替わりにミレーヌの名前が記された。


 公証人が印を押す。


 契約は、成立した。


「では、クララ嬢。婚約者の地位と義務の移譲、確かに受理しました」


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。


 ずっと肩にのっていた重しが、ふっと消えた気がした。


 ◇


 次の第二週、ミレーヌは遺族の村に行かなかった。


「山道は疲れるもの。それに、お金を渡すだけでしょう? 誰かに頼めばいいじゃない」


 使いの者に任せた補償金は、半分ほどしか届かなかった。道中で、運んだ使用人が自分の取り分を抜いたからだ。


 それが発覚したのは、村の長が侯爵家に抗議の書状を送ってきたときだった。


『三年間、毎月欠かさず会いに来てくださったクララ様は、どうされたのですか』


 書状の末尾にはこう書いてあった。


『私たちは、補償のお金だけを待っていたのではありません』


 アルフレート様は、書状を読んで青ざめた。


 そして三ヶ月目。月額三分の一の負担金が、ミレーヌの持参金から引き落とされる月が来た。


 ミレーヌは自分のドレス代が減ることに気づき、絶叫したという。


「どうして私が、そんなものを払わないといけないの!」


「契約書に、署名しただろう。第八条に」


「そんなの、知らなかったわ!」


 読んでいなかったのだ。読まずに署名したのだ。


 姉が三年間、黙って払い続けていた金額は、ミレーヌの年間のドレス代の五倍近い。


 しばらくして、アルフレート様が私の屋敷を訪ねてきた。


 玄関先で、彼はひどくやつれた顔をしていた。


「クララ。頼む、婚約を戻してくれ。ミレーヌは、ひとつも約束を守らない。村にも行かない。金のことしか言わない」


「最初から、あなたが選んだことでは?」


「あれは、その、一時の気の迷いで」


「一時の気の迷いで、私は三年分の義務を妹に譲ったのですね」


 彼は言葉を失った。


「それに、アルフレート様。婚約の権利者変更届は、正式に受理されています。ミレーヌとの婚約が成立している以上、私が戻る余地はありません」


「だが、君は、僕のことを――」


「大切に思っていたのは、事実です」


 私は静かに言った。


「でも、一度も遺族の村に足を運ばなかったあなたを、私は、尊敬することができませんでした」


 彼は、うつむいたまま、動かなかった。


 やがて、のろのろと馬車に戻っていった。


 ◇


 それから半年。


 ヴァイス侯爵家は、遺族の村への補償を、いったん打ち切られかけた。王家の監察官が調べに入り、侯爵家の怠慢が明るみに出たからだ。


 その監察官の中に、一人、見覚えのある顔があった。


 鉱山事故の遺族村で、毎月顔を合わせていた、調査官のヨアヒム・ベルガーさん。


 彼は、私が三年間通い続けた姿を、すべて見ていた。


「クララ嬢。実は、お願いがあります」


 ある日、ヨアヒムさんが私の屋敷を訪れた。


「村に、遺族の子どもたちのための学校を作る計画が決まりました。王家の補助金が出ます。その運営責任者を、あなたにお願いしたい」


「私が?」


「村の人たちが、あなたの名前を挙げたんです。三年間、毎月通い続けた方に任せたいと」


 鼻の奥が、つんとした。


 誰にも褒められなかった三年間を、見ていた人たちがいた。


「報酬は、きちんとお支払いします。それから、もうひとつ」


 ヨアヒムさんは、少し言いにくそうに続けた。


「学校の運営は、一人ではできません。できれば、共同で、長く」


「長く、というのは、どれくらいでしょう」


「一生、くらいで。……失礼、先走りました」


 真っ赤になった彼を見て、私は思わず吹き出した。


「お返事は、次の第二週に、村でいたします」


「村で?」


「ええ。毎月第二週は、私が村へ行く日ですから」


 契約書の義務ではなく、自分の意思で。


 春の風が、窓から入ってきた。


 私は、ずっと譲ってばかりだった。


 けれど、これだけは、誰にも譲らない。


 自分で選んだ、自分の毎月第二週を。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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