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8.未完成のルセット、あるいは無自覚な恋の亡霊

「……そうか。海斗、面倒かけて悪かったな。わざわざ伝えてくれて、ありがとう」


翌日の放課後。空教室で海斗から莉央の「本音」を聞かされた湊は、窓の外を眺めたまま、静かにそう言った。

激昂するわけでも、歓喜するわけでもない。その横顔は、熟練の職人が生地の出来を確認するかのような、ひどく落ち着いたものだった。


「俺もさ……自分の卑屈な気持ちのせいで、彼女と向き合うのを避けていただけかもしれない。……わかった。後日、ちゃんと二人で話してみるよ」


その言葉を、海斗は複雑な心境で聞いた。

湊の語る「卑屈さ」は、もう過去のものに見える。今の彼は、叶わない恋の痛みすらも、夢を追うためのエネルギーに変換し、完全に「思い出」という名のオーブンで焼き固めてしまったかのようだった。


放課後、その結果を聞いた莉央は、震える手でスマートフォンの画面を握りしめた。

「……覚悟、決めるね。湊のおばさんに、二人で会わせてほしいって……お願いしてくる」


「……最後だし、がんばってね。莉央」

結衣がつい口にした「最後」という言葉に、莉央の堪えていた感情がまた決壊する。

「あうぅ……最後なんて言わないでよぉ……っ!」

泣きじゃくる莉央を、海斗と結衣が左右からなだめる。その光景は、一軍の美少女とその取り巻きというよりは、迷子を保護する年上の兄姉のようだった。


その数時間後。バイト先の厨房で、湊は結衣に声をかけた。

「佐伯さん。海斗から聞いたよ。色々と、骨を折ってくれたんだって?」


「あ……うん。莉央があんまりにも泣くからさ。ちゃんと、話し合ってあげてね」

「ああ、約束するよ」


短く、けれど誠実に頷く湊。結衣はその凛とした立ち姿に、不覚にも心臓を跳ねさせてしまう。

学校では地味な存在。けれど、自分の信じる道に邁進する男の横顔は、どんな派手な男子よりも雄弁に「強さ」を物語っていた。

(やっぱり、かっこいいな……。莉央には、もったいないくらい)


結衣がそんな淡い恋心を抱いた瞬間、厨房の奥から明るい声が響いた。

「湊くん! こっちのコンポートの煮詰め具合、ちょっと見てくれる?」


店長の娘であり、専門学生の香織が手招きしている。

「今行きます、香織さん!」

湊は弾かれたように、そして今日一番の明るい表情で彼女の元へ駆け寄っていった。


二人が並んで鍋を覗き込み、時に笑い合い、時に真剣に議論する姿は、誰が見ても「お似合いのカップル」そのものだった。

湊自身、香織に対して抱いているのは純粋な「憧れ」と「尊敬」だ。同じ高みを目指す同志として、彼女との時間は何よりも刺激的で心地よい。けれど、その純粋さこそが、周囲の目には「恋」として映ってしまう。


(……莉央。これ、本当にどうするつもりなの?)

去っていく湊の背中を見送りながら、結衣は改めて絶望に近い予感を抱いた。


湊の心には、今も確かに莉央がいる。

幾層にも重ねられた諦念という名のパイ生地の一番下、決して触れられない深層に、彼女への恋心は原型を留めたまま眠っている。

けれど、当の本人すらその存在を忘れてしまったほど、彼は「一人で歩くこと」に慣れすぎてしまっていた。

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