4.砂糖細工の防波堤、あるいは甘くない現実の露見
「……なあ、湊。さっきの水瀬、なんか言いたげだったけど。会話、あんなに速攻で切り上げて良かったのか?」
移動教室へ向かう階段の踊り場、海斗が心配そうに覗き込んできた。
湊は視線を足元に落としたまま、リズムを崩さずに階段を上る。
「いいんだよ。今さら何を話すことがある? 向こうは向こうで、陸上部やクラスの連中と忙しそうだしさ。俺は俺で、今は夢を叶えるので精一杯だ。……初恋なんて、実らないから綺麗なんだよ、きっと」
湊の言葉には、恨みも悲しみも混ざっていなかった。
それは、何度も何度も心の中で反芻し、熱を抜き、完全に乾燥させて保存した「標本」のような声だった。
すれ違う瞬間、あえて視線を合わせなかったのは拒絶ではない。ただ、もう自分とは住む世界が違うのだと、心に引いた境界線を越えないためのマナーだった。
海斗は、莉央が今にも泣き出しそうな顔で湊の背中を追っていたのを見ていた。
けれど、当の湊がこれほどまでに静かに、潔く「昇華」させているのを見て、言葉を飲み込んだ。
「……そっか。まあ、お前が納得してるならいいんだけどさ」
一方、廊下に取り残された莉央は、崩れ落ちそうな膝を必死に支えていた。
「どうしよ、結衣……。湊、私のこと『水瀬さん』って……。あんなの、他人みたいだよぉ……」
涙を溜めた瞳で、莉央は親友の制服の袖を掴む。
結衣は、胸の奥で疼く小さな罪悪感と、それを上回るほどの「独占欲」の芽生えを自覚していた。
湊の、厨房で見せるあの真剣な横顔。
同級生の男子にはない、地に足のついた大人びた誠実さ。
学校では地味だと笑われていても、バイト先の大学生の先輩たちは、彼のその「年上キラー」な素質を敏感に嗅ぎ取っている。
「莉央……。あんたがずっと湊くんを思ってたのは知ってる。でもね、現実を見て。バイト先の大学生のお姉さんたち、湊くんが休憩に入る時間を狙ってシフト調整してるくらいなんだから。私も……正直、湊くんのああいう真っ直ぐなところ、いいなって思い始めてる」
「ええっ!? 結衣まで……っ、やだ、やだよぉ……っ!」
「嫌なら、動かなきゃ。あんた、今まで色んな男子から告白されて、そのたびに『好きな人がいるから』って断ってきたんでしょ? でも、その『好きな人』本人に、あんたの不器用な態度は一ミリも届いてない。それどころか、他の男と仲良くしてる姿を見せつけられて、湊くんはとっくに諦めちゃったんだよ」
莉央の頭に、過去の光景がフラッシュバックする。
男子部員と笑い合い、フレンドリーに接していたあの日。
遠くでそれを見ていた湊が、ふっと視線を逸らして図書室へ向かっていった背中。
自分にとってはただの「社交辞令」や「牽制」のつもりだった振る舞いが、湊にとっては決定的な「脈なしの証拠」として積み重なっていたのだ。
「……湊は、私が他の人と仲良くしてるから、怒ってるのかなぁ?」
おっとりと、けれど震える声で莉央が零す。
「怒ってすらないよ。……諦められたんだよ、莉央。完全にね」
結衣の言葉は、市販の板チョコよりも無機質で、冷たかった。
莉央は初めて、自分の「太陽」のような明るさが、一番照らしたかった人を焼き尽くし、遠ざけてしまっていた事実に気づき、冷や汗を流した。




