3.思い出の解凍、あるいは賞味期限の宣告
「ねえ、お母さん。湊とのこと、覚えてる……?」
リビングのソファに深く沈み込み、莉央はおっとりとした、けれどどこか縋るような声で母親に問いかけた。
「湊と私、将来は結婚するんだって。ずっと前に約束したよね?」
キッチンで洗い物をしていた母親は、手を止めずに軽やかな笑い声を上げた。
「あら、莉央。何言ってるの、懐かしいわね。それは幼稚園の頃の話でしょ? 砂場でおままごとしていた時の」
「……でも、約束は約束だもん。私は、今もそのつもりで……」
「莉央、いい加減になさい。湊くんは今、有名なお店で一生懸命修行してるんでしょ? あんなに立派な目標を持って頑張っている子の邪魔をしちゃダメよ。もうお互い、別の道を歩んでいるんだから」
『別の道』。
その言葉が、鋭い氷の粒となって莉央の胸に突き刺さる。
当たり前のように、過去の遺物として片付けられていく自分たちの絆。絶望という名の冷たい泥が、足元からじわじわと這い上がってくるのを感じた。
翌日の昼休み。廊下の向こうから、湊が親友の海斗と並んで歩いてくるのが見えた。
その隣には、バイト先が一緒になった結衣もいる。
「あ、湊くん! お疲れ様。昨日の新作の試作、シェフに褒められたって聞いたよ?」
結衣が弾んだ声で湊に駆け寄る。
「……ああ、佐伯さん。おかげさまで。君がホールでの評判を細かくメモしてくれたから、修正しやすかったんだ。ありがとう」
湊は足を止め、結衣に向かって穏やかに微笑んだ。その表情は、かつて自分だけに向けてくれていたはずの、特別で温かな光を宿している。
「おいおい、湊。お前ら、いつの間にそんなに仲良くなったんだよ?」
海斗がニヤニヤしながら湊の肩を叩く。
「バイト先で愛を育んでるわけ? 羨ましいねぇ!」
「よせよ、海斗。佐伯さんは仕事熱心なだけだよ」
困ったように笑う湊。その和やかな空気の中に、莉央が入る隙間は一ミリも残されていなかった。
莉央は震える唇を噛み締め、勇気を振り絞って一歩踏み出す。
「……っ、あの、みな……っ」
だが、湊の視線が莉央を捉えた瞬間、その温度は凪いだ海のように平坦になった。
「ああ、水瀬さん。……海斗、行こうか。次の授業、移動教室だろ」
「水瀬さん」。
名前ですらなく、ただのクラスメイトとして、記号のように呼ばれた苗字。
湊の瞳の中に、憎しみも未練も、ましてや恋心なんて微塵も残っていないことを、莉央は残酷なほど理解してしまった。
三人の背中が遠ざかっていく。
湊の心の中で、あの日の約束はもう、綺麗にパッケージされて「過去」という名の棚にしまわれてしまったのだ。一度も解凍されることのない、冷たい思い出として。
「……どうしよう、結衣。どうしよう……っ」
莉央はその場に立ち尽くし、冷や汗を流しながら、今にも泣き出しそうな声で親友の背中に縋り付いた。
一方、湊の胸の奥で、ほんの一瞬だけ、古傷が疼くような小さな痛みが走った。
けれど、それは焼き上がったケーキの熱を冷ます程度の、取るに足らない微風だった。




