19.三原色のマリアージュ、あるいは焼き上がった答え
泣き腫らした莉央の瞳が、ようやく少しずつ、いつもの潤いを取り戻し始めた頃。
リビングには、ラング・ド・シャのバターの香りと、数年分の澱みを洗い流したような、静かで清廉な空気が満ちていた。
「……ごめん、莉央。俺、お前との初恋と一緒に、あのおばあちゃんとの約束まで心の奥底に閉じ込めて、忘れたフリをしてた。本当に、最低な奴だ」
湊の謝罪に、莉央は慌てて首を振る。
「ううん、違うの! 私が……私が湊を追い詰めたんだよ。私がもっと、ちゃんと湊のことを見ていれば……」
互いに頭を下げ合い、謝罪を重ねる。その必死な様子に、どちらからともなく小さく吹き出した。
「……あはは、変なの。私たち、謝ってばっかり」
「……そうだな。俺たちは、同じ場所を目指していたはずなのに、違うものばっかり見てたんだな」
湊は「あの日の約束」を一人で背負い込み、いつしかお菓子作りという「目的」に囚われて、一番大切だった莉央自身を見失っていた。
莉央は「あの日の約束」を盲信的に信じ、湊が今何を感じ、何に傷ついているかという「心」を見失っていた。
同じ温度の情熱を持ちながら、二人は今日まで、あまりに長く、あまりに遠くすれ違っていたのだ。
「……莉央。実は昨日、結衣と話したんだ」
湊の口から出た親友の名に、莉央は息を呑む。
「結衣は……自分の『現在』という場所を、俺に差し出した。自分が俺を好きだっていう気持ちも、俺の隣にいたいっていう願いも全部、俺に『きっかけ』を思い出させるために、賭けに出たんだ」
「結衣が……そんなことを……」
莉央の目から、再び涙が溢れ出した。結衣が自分に対して抱いていた罪悪感、そして湊への秘めた想い。それをすべて引き裂いてまで、結衣は「本当の湊」を莉央の元へ返してくれたのだ。その献身と痛みが、莉央の胸を激しく打った。
「それから、香織さんのことも話しておかなきゃいけない」
湊は真剣な眼差しで続けた。
「香織さんは、俺にとっての『未来』だ。プロとしての厳しさや、夢への導き手として、心から尊敬してるし、憧れてる。……でも、それは今のところ、恋心じゃないんだ」
「え……? でも、あんなに仲良さそうに……」
「夢を語る相手としては最高なんだ。でも、俺の根底にある『誰のために作るか』という答えの中に、彼女はまだいなかった。……信じてくれるか?」
湊の迷いのない、澄んだ瞳。莉央はその奥に、かつて砂場で自分を見つめていた少年の面影を見つけ、深く頷いた。
「俺は、結衣が守ろうとした『現在』も、香織さんが示してくれた『未来』も、そして莉央と紡いできた『過去』も……そのすべてが、俺のお菓子作りには必要なんだって気づいたんだ。どれ一つ欠けても、俺の作るお菓子は完成しない」
湊の言葉を、莉央は静かに、宝物を預かるような手つきで心に受け入れた。
沈黙が流れる。
窓の外では、夕闇が静かに街を包み込み、リビングの照明が二人の影を濃く落としていた。
緊張が、肌を刺す。
莉央は膝の上でスカートを強く握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。
おっとりとした声は影を潜め、一人の女性としての、凛とした響きを帯びて。
「……湊。今度は、私から言わせて」
莉央は湊の瞳を真っ直ぐに見つめ、一生に一度の、けれど二度目のプロポーズを口にした。
「湊のパティシエの夢が叶ったら……その時は、今度こそ私を、お嫁さんにしてください」
静寂。
湊は、その言葉の重みを一つ一つ噛みしめるように、ゆっくりと目を閉じた。
やがて、彼は重い瞼を上げ、莉央の魂を射抜くような強さで、ゆっくりと、その唇を動かした……




