18.猫の舌が溶ける頃、約束の温度を取り戻す
「莉央、覚えてるか。泥だらけになって公園を走り回っていた頃のこと」
湊の声は、静かに、けれど確かな質量を持ってリビングに響いた。
「『大きくなったら、莉央に世界一甘いケーキを作ってあげる』って……。あの日、砂場でプロポーズした、あの馬鹿げた、でも俺たちの全部だった約束を」
莉央の肩が、びくりと跳ねた。
「……湊、覚えて……」
「ああ。今の今まで、都合よく封印してた。でも、昨日……全部思い出したんだ。俺たちの母親に泣きついて、キッチンを粉だらけにして練習した日のことも。俺たちの不格好なクッキーを、笑いながら食べてくれた家族のことも」
湊は、テーブルの上に置かれた小さな皿を、愛おしむように指先で撫でた。
「そして……隣に住んでいた、莉央のおばあちゃんのこと」
莉央の瞳から、堪えていた大粒の涙が零れ落ちる。おばあちゃん子だった莉央にとって、その存在は太陽のような暖かさそのものだった。
「おばあちゃんは、どんなに失敗したお菓子でも、『おいしいねぇ』って言って食べてくれたよな。『二人が立派になって結ばれる結婚式に出るのが夢だ』って……いつも、ニコニコ笑って」
けれど、幸せな時間は唐突に断絶した。
あの日、湊は自宅でお菓子を作って、莉央が来るのをずっと待っていた。けれど、彼女は来なかった。帰宅した湊の母親の青ざめた顔で、おばあちゃんが倒れたことを知った。
病院の、消毒液の匂いが充満した廊下。
湊が見たのは、無機質な計器に囲まれて意識のないおばあちゃんと、その細くなった手に縋り付いて、見たこともないほど泣きじゃくっている莉央の姿だった。
「あの日から、莉央は笑わなくなった。抜け殻みたいに毎日病院に通って……。俺は、おばあちゃんに元気になってほしくて、莉央の笑顔を取り戻したくて、必死にお菓子を作り続けた。病室に持っていっても、おばあちゃんは食べられないって分かっていたのに」
そして、別れの日。
「今夜が峠だ」と告げられ、両家が集まった静かな夜。
おばあちゃんは最後に一度だけ意識を取り戻し、掠れた小さな声で、二人を枕元に呼んだ。
莉央の頭を優しく撫でながら、おばあちゃんは湊が持ってきたお菓子を、ほんの一口だけ口に含んだんだ。
『……いつも、美味しいお菓子をありがとう。……湊くん、これからも、莉央がいつでも笑顔でいられるお菓子を、作ってあげてね』
それが、おばあちゃんの最期の言葉だった。
葬儀の喧騒の中、二人は誰にも見つからないように、涙を拭い、震える小指を絡めて指切りをした。おばあちゃんとの約束を守ること。笑い合うこと。
それが、湊がパティシエを目指した、何よりも純粋で、何よりも重い「きっかけ」だった。
「莉央。今日、俺が用意したのは……おばあちゃんが大好きだった、ラング・ド・シャだ」
湊の視線の先にある、薄く焼き上げられた「猫の舌」。
莉央は震える手でそれを一枚取り、口に運んだ。
サクッとした軽い食感のあと、上質なバターの香りと、懐かしい記憶の甘さが舌の上で溶けていく。
「……あ……っ、う、ああああ……っ!!」
莉央はたまらず机に伏し、子供のように声を上げて号泣した。
それは、数年間にわたって溜め込んできた後悔と、孤独と、そしてようやく再会できた「本当の湊」への想いが溢れ出した叫びだった。
湊は椅子から立ち上がり、泣きじゃくる莉央の隣に歩み寄った。
そして、かつて病室でそうしたように、優しく、慈しむように、彼女の背中を静かにさすり続けた。
「……遅くなって、ごめんな、莉央」
冷めかけた紅茶の湯気の向こうで、二人の止まっていた時間が、思い出の味と共にゆっくりと、熱を持って流れ始めていた。




