17.冷めた紅茶と、溶け出した氷の告白
瀬戸家の玄関前。莉央は、震える指先でインターホンのボタンを押し込んだ。
乾いた電子音が静かな住宅街に響く。
湊の母親は約束通り、買い物に出たのか家を空けている。けれど、中から聞こえてきた足音は、以前までの「他人を迎え入れる事務的な響き」ではなかった。
ガチャリ、と扉が開く。
そこに立っていたのは、数日前、廊下で冷たく「水瀬さん」と呼び捨てた少年ではなかった。
「……来たか。入れよ、莉央」
その声に含まれた、懐かしくも切実な熱。
莉央の心臓が、跳ねるのを通り越して、握りつぶされたような痛みを訴える。
「……うん。お邪魔します、湊」
数年ぶりに口にする彼の名前は、甘くて苦い毒のように喉を焼いた。
通されたのは、かつて二人で泥だらけになって遊び、日が暮れるまで絵本を読んでいたリビングだった。
湊は無言でキッチンへ向かい、丁寧な所作で紅茶を淹れる。そして、小さな皿に乗せられた「それ」が、莉央の前に置かれた。
「……これ、湊が作ったの?」
「ああ。待ってる間に、少しな」
それは、今の彼がバイト先で作っているような華やかなケーキではない。けれど、莉央には分かった。これこそが、かつて彼と交わした「あの日の約束」の延長線上にあるものだと。
名前を呼ばれた喜びと、差し出された菓子の温かさに、視界が急激に歪む。莉央は溢れそうになる涙を必死に堪え、膝の上で拳を固めた。
「湊、あのね……。私、ずっと、勝手なことばかりしてた」
莉央は、努めていつもの、おっとりとした、けれど快活な口調を演じようとした。そうしなければ、声が震えて、最後まで話し切れないと分かっていたから。
「バレンタインの市販のチョコ、ごめんね。湊はもうプロを目指してるから、私の中途半端な手作りなんて失礼だって……そう思って、おばさんに預けちゃったの。クラスの男子や部活の子たちには、業務用を溶かしただけの安いチョコを配って、それで『線を引いてる』つもりになってた。告白だって全部断ってたよ? だって、湊と結婚するって信じてたから。でも……」
莉央の声が、微かに掠れる。
「湊との対話を疎かにして、湊が一人で頑張ってる時に、私はキラキラした場所に逃げて……。湊が『あの日の約束』通りにお菓子の道を選んでくれたから、勝手に、結婚の約束も忘れてないんだって……そう、思い込んでた。本当に、ごめんなさい」
莉央は深く頭を下げた。涙が床に落ちて、小さな染みを作る。
沈黙が流れる。湊は否定も肯定もせず、ただ莉央の言葉をすべて飲み込むように静かに聞いていた。
やがて、湊がゆっくりと口を開いた。
「……莉央。顔を上げろよ」
その声の低さに、莉央が驚いて顔を上げると、湊は酷く悲しげで、けれどどこか清々しい表情を浮かべていた。
「俺の方こそ、謝らなきゃいけないんだ。……ごめん」
「えっ……? そんな、湊が謝ることなんて……っ!」
莉央は反射的に叫んだ。湊は何も悪くない。悪いのは全部、彼を追い詰めた自分だと思っていたから。
「いや、あるんだ。俺は……お前から逃げたんだよ、莉央。お前が誰かと笑っているのを見るのが怖くて、自分が選ばれない現実を見るのが嫌で……『初恋は昇華した』なんて自分に嘘をついて、逃げ場所として夢を選んだ。それだけじゃない。俺は……あの日、二人で交わした一番大事な『約束』さえ、無意識に心の奥底に封印して、忘れようとしてた」
湊の告白は、静かな刃となって自分自身を削り取っていく。
「お前の好意を信じきれず、勝手に絶望して、お前を『他人』に格下げすることで自分を守った。俺の罪は、お前を信じなかったことだ」
リビングに、二人の重い吐息と、冷めかけた紅茶の香りが混ざり合う。
止まっていた時間が、音を立てて崩れ始めていた。




