15.【間話】シュガー・コートの棺、あるいは幼き日の遺言
自室の姿見の前で、莉央は何度も何度も、制服の襟を正していた。
指先が小刻みに震え、冷たい汗が背中を伝う。鏡の中にいるのは、学校で「一軍」と持て囃され、誰にでも笑顔を振りまく「水瀬莉央」ではない。ただ一人、過去の遺物に縋り付き、ボロボロに崩れかけた砂糖細工の城を守ろうとしている、惨めな少女だった。
「……湊。私、本当にバカだよね」
独り言が、誰もいない部屋に虚しく響く。
莉央にとって、湊との「約束」は、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。
幼稚園の砂場。泥だらけの手。甘い約束。
それさえあれば、どれだけ他の男子に囲まれても、どれだけ湊と会話のない日々が続いても、自分たちの根底にある「絆」は揺るがないと、傲慢にも信じ込んでいた。
莉央は、引き出しの奥から一通の封筒を取り出した。
中には、もう何年も前の、二人で撮った色褪せた写真が入っている。
そこに映る湊は、今のような「大人びたパティシエの卵」ではなく、もっと泣き虫で、けれど莉央のことを世界で一番大切そうに見つめていた。
「……ごめんね、湊。私、湊が一人でどれだけ傷ついて、どれだけ孤独にあの厨房に立っていたか、一ミリも分かってなかった」
結衣に突きつけられた現実。香織という「未来」の存在。
莉央が守ってきたのは、湊との絆ではなく、自分にとって都合の良い「思い出」という名の棺だったのだ。
自分が他の男子と笑い合うたびに、湊の心がどれほど削られ、どれほど冷えていったか。
バレンタインの市販のチョコが、彼にとってどれほど残酷な「拒絶」に映ったか。
想像するだけで、心臓が握り潰されるように痛む。
「……でも。私、まだ諦められないよ」
莉央は写真を胸に抱きしめ、強く目を閉じた。
彼女は知っている。湊がなぜ、あの過酷なパティシエの道を選んだのか。
その「きっかけ」となったあの日の光景を、彼女だけは、断片的にでも、その肌で、その温度で覚えている。
もし、湊がそれを完全に忘れてしまっていたとしても。
もし、今の彼の隣に、自分ではない「未来」がふさわしいのだとしても。
一度だけでいい。あの頃のように、名前を呼んでほしい。
「水瀬さん」という、冷たい壁の向こう側からではなく。
「……最後、だもんね。おばさんも、結衣も、みんなそう言ったもんね」
莉央は、泣き出しそうな顔を無理やり作り笑いで上書きした。
今日、湊の家へ向かう。
そこにあるのは、凍りついた過去の解凍か、それとも、完全に焼き切られた決別の灰か。
莉央は震える足で、一歩、部屋の外へと踏み出した。
彼女の手には、あの日からずっと、彼女の時を止め続けてきた「過去」という名の重い鍵が握られていた。




